見出し画像

「ちゃうか」の小豆島

「千の点描」 <第四四話>

月曜日、数日ぶりに「深草」にあった京阪電車の線路脇の建築現場で彼に会った。彼に対しても、彼の日曜日の行動についても、私には少しの関心も無かった。しかし、顔を合わせた時に話すことのない気まずさを和(なご)ませるために、彼に日曜日は何をしていたのかと尋ねたのだ。彼は「映画に行ったんとちゃうか!」と答えた。そして、どんな映画を見たのかと聞くと、「ジョン・ウェインの西部劇とちゃうか!」と、答えた。彼の返事はいつもまったく同じパターンだった。例えば、彼と一緒に建築現場近くの食堂で昼ごはんを食べることになって、何を食べるかを決める時、彼に何を注文するのかと尋ねると、やはり「鯖の焼き魚定食とちゃうか!」と、返事するのだった。彼は、自分の事を聞かれても、自分の希望や意志を問われても、必ず第三者的に推測を示す表現で返事をした。彼は見習い大工の少年で、電気工事のアルバイトをしていた私とは、いろんな現場でよく顔を合わせた。とはいえ、会えば会うほどに親しくなるというのではなくて、私はいつもこの建築現場仲間のコミュニティの外側にいた。アルバイトであるという中途半端な立場も、コミュニティの人たちが私を仲間として受け入れない理由の一つだった。しかも私は大学に籍を置いていて、それも彼らが私に仲間意識を持てない理由の一つになっていた。
 
我が家と付き合いの長い工務店の親方に、我が家の物干しを修繕してもらった時、私が家で暇そうにしているところを見られたのがこのアルバイトを始めることになったきっかけだった。私は大学を休んでいたのではなく、大学紛争で大学が閉鎖されていたからだった。工務店の親方は、電気工事の大将から、よほど切迫したアルバイト探しを頼まれたのだろう。断るのが面倒なほど何度も頼まれ、一週間だけという約束でこのアルバイトを引き受けた。ところがいつまで経っても電気工事から解放されず、今もって同じアルバイトを続けている。
仕事仲間ではなく、オブザーバーとしての存在に甘んじていたが、それだけにこのコミュニティ内の、人々の立場や動きが客観的に観察できる。住宅の建築現場では、建築の進捗状態に合わせて、大工、電気工事、左官、水道工事、ガス工事、水回り、内装などの職人が、日ごとに組み合わせを替えて顔を合わせる。大工と電気工事、左官が同じ日に現場に入ることもあれば、電気工事、水回り、内装が顔を合わせる日もある。現場で働いているのは、ほとんど何らかな形でそこそこの建築会社や工務店の傘下にある人たちで、全体で緩(ゆる)やかなグループを形成していた。また大きなグループは、数人程度の小グループで構成されていて、詳しくは知らないが、互いに気の合った仲間か、あるいは何らかの伝手があった人々が集まっているように見えた。
 
さまざまな領域の職人に加えて、建築現場にしばしば顔を出す人物がいた。零細の建築設計事務所の見習い設計士で、見るからに無知で無教養な人物だった。しかし、現場の職人ばかりの世界では、デスクに座って仕事をする人は賢いという理由なき誤解が浸透していた。その誤解の故に、この人物がこのコミュニティで一番のインテリであると見なされていた。コミュニティのメンバーたちは、新聞やテレビ、あるいは日々の会話の中で、知らない事柄や言葉に出くわすと、休憩の時間や昼食の場で、見習い設計士である人物に聞くのが習慣のようになっていた。当然、一定水準以上の教育は受けているので、一般常識は持ち合わせているはずだった。しかし実際のところは、驚くほどに物事を知らない人物だった。
知らなければ知らないと、謙虚な人物であれば問題はないのだが、もしコミュニティの仲間から聞かれて答えられなければ、自分の沽券(こけん)にかかわると思っているようで、プライドだけは人一倍高かった。そういった性格だったので、何を聞かれても、決して知らないとは言わなかった。間違った答えをしても、その間違いを敢えて指摘する人もいないので、このコミュニティの中には、慢性的に日々間違った知識を植え付けられていた人もいたはずだ。
 
横文字の仕事が普及し始めて、花形のキャリアだった頃のことで、「コピーライター」と、いう言葉を耳にした左官の大将が、見習いの設計士にこの言葉の意味を聞いたことがあった。この人物はかなり考えたあと、指でタイプを打つ仕草をした。そしておもむろに、「機械で英語の文をを打つことや!」と、堂々と答えていた。もちろんそれは、タイプライターという言葉すらも正確に知らないので答えられたことだった。
またこの頃は、就職雑誌が登場し始めた頃だったので、リクルートという言葉は、たいていの人が知っていると思っていたが、言葉は知っていてもその意味を知らない人も多くいた。やはり、若い左官の職人が、「最近、リクルートという言葉をよく聞くんやけど、何のことや?」と、迷回答者に聞いた。件(くだん)の回答者はかなりの時間考えたあと、トラックの運転手のことだと答えていた。これは私の想像だが、見習い設計士にもリクルートという言葉は、人を募集することに関連している言葉だという漠然とした認識はあったようだ。そこで、リクルートを陸のルートと解釈してトラックの運転手だと判断したのだが、おそらく当時リクルート雑誌には、トラックの運転手の募集記事が多かったことも関連があると思う。
またある時、現場近くの食堂で大勢の仲間が昼食を食べている時のことだった。テレビのニュース番組でアナウンサーが、「シンクタンク」という言葉を口にした。その日は見習いの建築設計士もその場にいたので、内装工事の助手をしている若い男の子がシンクタンクのことを彼に尋ねた。この時も少し考えて、「シンクタンク」は風呂の湯船だと説明していた。これなどは彼の怪答の中では、まだ何となく辻褄が合っている方だった。
 
彼の知的レベルは概ねその辺りだった。毎日毎日、迷回答が飛び出すので、私は彼の迷回答にも次第に麻痺していって、ほとんど何の注意も払わなくなっていった。だから、「コピーライター」と、「リクルート」、「シンクタンク」以外で覚えている珍回答はほとんどない。見習い設計士は、世間ではまったく誰にも相手にされなかっただろうが、このコミュニティでは、一部かあるいはある程度の数の人からオピニオン・リーダーとして認識されていた可能性はある。こうした不思議な人間関係の構造の中で、大工見習の少年は奇妙な言葉遣いもあって、その対極に位置付けられ、事ある毎に笑いの種にされていた。
 
人が集まると、いろいろ利害関係が生まれる。また相性というものもあって、コミュニティの中に派閥的な幾つかの小集団が形成されていた。工事が順調に進んでいる時は特に問題がないが、工事に不都合が出ると小集団同士が対立することがある。責任を他所の集団に押し付けあって、時には刃傷沙汰の大喧嘩に発展することもあった。
施主からクレームが出ると、誰に責任があるのかが大問題だった。例えばある箇所で、設計では柱の面から一寸奥に壁面がくるはずなのに、完成すると三寸近くも奥の方に壁面があった。左官は大工の計算間違いだと主張し、大工は左官が壁を薄く塗ったせいだと反論する。第三者として客観的にこれを眺めていると、双方に五分五分の責任がありそうだった。しかし対立はいく所までいって、結局壁を剥がしてどちらが正しいか証明しようということにもなる。
誰かに明確な落ち度があっても、微妙な力関係で相手を責めることが出来ない場合は、弱者に責任転嫁されるのが常だった。トラブルに無関係でも往々にして小豆島出身の大工見習の少年の失敗と見なされることになった。
 
周りから、おまえがやったのかと詰問されても、見習い大工の少年は、「やってないんとちゃうか!」と、例の曖昧な言葉遣いで否定するしかない。だから、いつの間にか彼の失敗というところに落ち着くのだった。もちろん、彼が失敗したとしても責任が取れる立場ではない。しかしコミュニティの調和を図るために、彼の失敗であることが必要だった。つまりこの少年はコミュニティの中で、まるで“噛ませ犬”でもあるように、幾重にも人間関係のトラブルの緩衝材としての役割を担わされていた。私には理解し難いことだったが、彼はそれも仕事の内だと思っているように、抗うこともなくその立場を甘んじて受け入れていた。
無責任な大学生のアルバイトとして建築現場にいる私は、日々この小さな世界を観察していて、この大工見習の少年の本当の姿に気付いていた。周りの者が思っているように、決して無知ではなくむしろ彼ら以上に教養があることを知っていた。
 
見習い大工の少年は、いつも大工用具を入れた個人用の作業袋を持っていて、自分の玄能(げんのう)や着替えの服、下着、靴などの私物を入れていた。現場で働く人たちの個人用の作業袋は、ツールボックスなどと一緒に、作業の邪魔にならないように現場の片隅に置いてあった。ある時、この場所が作業の邪魔になるのか、無神経な左官屋の見習いが、彼らの荷物を別の場所に移動させようとしていた。持ちきれないほどたくさんの荷物を一度に運ぼうとしたので、作業袋を二つ、下に落とした。その中の一つが大工見習いの少年の袋で、落とした拍子に袋の中身を土の上にぶちまけてしまった。
少年の袋の中には、意外なことに私物とともに本や雑誌が入っていた。一冊は雑誌で、「何とかアーキテクチュアー」という雑誌の表題が眼に入った。おそらく実務的な建築雑誌というより建築美術系の雑誌と見受けられた。もう一冊は実務的な建築士の試験のための雑誌だった。他には推理小説や漫画雑誌とともに、小田実の「何でも見てやろう」という本があった。それを持って万事が推し量れるわけではないが、少なくともこのコミュニティの中では一番の知識人と思われた。そうしてみると、彼の第三者的表現は、主体的な主張が意味を成さない職人の世界や、建築現場での保護色として働いていたのではないかと思う。
 
建築現場で働いている面々が、少年の不思議な喋り方を面白がってからかうことは日常茶飯事だった。給料日になると、「給料いらんのか?」と、大工の親方がからかいながら聞くと、「いるんちゃうか!」と、答える少年を皆で笑っていた。ある時見習いの建築設計士が、「あいつどこかにおらんか、あの宇和島から来たガキ!」と少年を探していた。それを聞き付けた少年が遠くから走って来た。顔を真っ赤にして、鼻息も荒く「おれは小豆島の出身や」と、初めて「ちゃうか」を付けずに一人称で言い放った。
 

いいなと思ったら応援しよう!