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つまるところ、全ては"縁" !?

転職活動中の私の目の前に、突如として現れた言葉。

とても重要なことが書いてあるサイトを見つけたので、これは広めねばと思い、紹介記事を書くことにした。



本来なら目にしないはずの記事だったが、
真夜中に地震でグラっと来た時に、
"地震情報の確認”のためにYahooニュースを開いたら
偶然見つけた。
(普段はゴシップや、どうでもいい記事にあふれているYahooニュースなんて見ないのだ。だから私が偶然クリックしたのは、ある意味、奇跡)



ご縁のある人に届きますように・・・。

恐山の禅僧、南直哉和尚の言葉

「だいたい、自己責任でできるような決断にはね、大したことは、一つもないです。そうでしょう。頭の中で解決できる話は所詮、些事しかない。決定的な判断をせざるを得ないときには、違う力が働きます。自分とは別の、力。するのではなく、むしろ、決定させられる

違う力とは、何か。
運命……?

「わかりません。われわれはそれを、『』といいます」

Yahooニュース特集


転職も結婚も入学も、友達や家族との絆も ”縁”。

縁がないものは、生じない。

縁がなかったものに関わることはない。

そう思えば、執着に苦しまず、諦めることが出来るのではないか?


”縁”と割り切れば、必要以上に、自分を責めなくてもいいしね。



縁の種子


縁、縁起、因果と来たら、仏教の唯識(ゆいしき)の種子熏習説(しゅうじくんじゅうせつ)を思い出さずにはいられない。

一切の現実は、種子から現象が顕現(種子生現行〈しゅうじしょうげんぎょう〉)し、その顕現した現象が種子をまた熏習(現行熏種子〈げんぎょうくんしゅうじ〉)するという繰り返しの中に成立する。

Wikipedia


法相唯識ではさらに種子説との連関から、果報を発現する力能である種子が縁を得ず未発現の状態であるのに対して、業報が発現すること、もしくは発現した果報そのものをいう。
さらに現行は果報を生じる力を阿頼耶識あらやしきに種子として熏習くんじゅうするもの、すなわち能熏であるとされる。このような種子が現行を生じ、現行がまた新たな種子を熏習するという作用の循環は、「種子生現行、現行熏種子」と言い表され、それらは同時に一刹那の間で起こるという。

浄土宗大辞典


唯識も種子熏習説も、単純な話ではないので、ネット記事を読んだだけで分かったような気になってはいけない。


深く知りたい人は、数冊、本を購入して、じっくりと探求してみよう。


私は、近いうちに『縁起の思想』も読まねばならないと思っている・・・。


でも「知識として知ったものは、知ったうちにはならない」と、仏教では言うんだろうな・・・。

別に修行をしなくたっていいと思うけれど、人生のなかで、ふと「もしや、これが・・・」という体験が起きたら、それは、とても貴重なことだと思う。

不運な人を助けるための活動をしています。フィールドワークで現地を訪ね、取材して記事にします。クオリティの高い記事を提供出来るように心がけています。