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倭姫ラブ・・・二千年の時空を越えて

伊勢の神宮のはじまり

伊勢の神宮が好きだ。
ほぼ毎年参拝しているが、境内に足を踏み入れたとたんに空気が変わる。
おごそかな空気に包まれた神域。
静寂な、神々しい、凛とした緊張感がある。
それでいてふっと心がおだやかに温かくなる。
そよぐ風、木々のざわめきに神々を感じる。
悪行三昧だった私でもやさしく包んでくれる。
天照大神という女神様だからであろうか、癒されるとはまさにこういう感覚に違いない。
この伊勢の神宮のかたちを作った人が倭姫命(やまとひめのみこと)なのだ。
斎宮の伝説上の起源とされる人である。
 
日本史を彩った女性、ヒロインたちで、神話・古代の時代には、天照大神、卑弥呼 狭穂姫(さほひめ)、推古天皇、持統天皇、、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)、光明皇后、額田王などあまた存在するが、私が最も魅かれるのが倭姫だ。
『古事記』では「倭比売命」、『日本書紀』では「倭姫命」と表記されている。
第11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)。
今から約二千年前、天照大御神の御杖代(みつえしろ)として永久の地をもとめて長い旅の末に五十鈴川のほとりに大神を祀った。その後も神嘗祭をはじめ、年中の祭典や別宮、摂社を定め、神宮の神田や御塩、アワビなどの御料地を定めたなど、まさに今に続く神宮の「かたち」をつくった女性だ。
そして伊勢の五十鈴川のほとりに斎宮が建てられ、そこに八咫鏡が奉安された。
これが伊勢の神宮の創建である。八咫鏡はそれよりおよそ1800年間失われることなく、現在も神宮の内宮の御神体として大切に守られている。
 

伊勢神宮大鳥居・宇治橋・朝日(伊勢神宮HPより)
伊勢神宮 神職(伊勢神宮HPより)

日本は世界最古の国である

伊勢の神宮は7世紀の天武天皇に時代に、「いつできたのかわからないくらい古い時代からあった」とされていれる。
天武天皇が生きた7世紀とは、お隣の唐では則天武后が権勢を振るい、朝鮮では武烈王が百済を滅ぼした。
ヨーロッパでは大ピピンが後のフランク王国の礎を築き、ローマ教皇グレゴリウス1世ゲルマン系諸民族への宣教を推進し、アラビアではイスラム教をムハマンドの後継者たちがアラビア半島に広めていった時代だ。
そんなころ「いつできたかわからないくらい古い時代からあった」とされているのが神宮であり、皇室なのだ。
オバマ大統領が当時の天皇陛下に握手を求められて九十度のお辞儀、「最敬礼」をした写真は記憶に新しい。
同じく米国のフォード大統領は昭和天皇と二人では何もしゃべることができず、緊張のあまり歩くときに右手と右足が同時に出た、というのもうなずける。
物質的な力では超えられない権威がある。皇室とはそれほどの権威なのである。
 
国際社会では「国の古さがものをいう」
新しいことよりも古いほうがエライのだ。
日本は「神話」の時代から数えていいなら、建国2683年、大和朝廷あたりの歴史として確認できる時代から数えても約1400年。この間一度も途切れることなく続いてきた。
今地球上に存在する国の中でダントツで最古の国だ。
 
 

垂仁天皇の御代

垂仁天皇

第11代天皇である。
父帝(崇神天鵬)が崩御した翌年の1月2日に即位。
古代史研究家、長浜浩明氏の「日本の誕生 皇室と日本人のルーツ」によると在位期間は西暦242年~290年。
この時代に大和朝廷は、山陽道を周防まで制し、阿蘇、肥後、宇沙、遠賀川下流域の豪族にも協力を求め、倭国連合の併呑を試みた。
卑弥呼は亡くなり、邪馬台国のたそがれの時代である、と書かれている、
 
垂仁天皇は祭祀、農業の振興など、画期的な施策を数多く行った人物だ。
武渟川別(たけぬなかわわけ)・彦国葺(ひこくにふく)・大鹿嶋
・物部十千根(とおちね)・大伴武日(たけひ)の五大夫を集めて先帝の偉業を称えて神を祀ることを誓い、天照大神の祭祀を皇女の倭姫に託した伊勢神宮の建立をはじめ、諸神社に武器を献納し神地(しんち:神の鎮座する土地)・神戸(かんべ:神社に属しその祭祀や経済を支えた人たち)を定めた。
また、初めて天皇の直轄地である屯倉(ミヤケ:各地に設置されたのちの地方行政組織の先駆け))を作った。
そして、諸国に多くの池溝を開かせて農業を盛んにした。
 
数々のエピソードの中で、興味深いものをいくつか紹介したい。
 

狭穂彦の叛乱

彦坐王(天皇の伯父)の娘、狭穂姫(サホヒメ)を立后。
天皇の従弟にあたる狭穂彦(サホヒコ)は妹の皇后を唆して天皇を暗殺しようとした。
「夫と兄のどちらが愛しいか」と問われ「兄」と答えた皇后は短刀を渡され、寝ている天皇を刺せと告げられたのだ。
 
『古事記』中巻の垂仁天皇記と『日本書紀』垂仁天皇4・5年条において語られているのでぜひ読んでほしい。
特に『古事記』中巻では倭建命の説話と共に叙情的説話として同書中の白眉とも評され、文学性に富む美しい物語とも評されている。
 
以下は『古事記』におけるあらすじである。名前の表記も同書に従う。
 
ある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。
 
妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。
目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった」。これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後兄の元へ逃れてしまった。
 
天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。
姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。
 
天皇は息子を渡しに来た姫を奪還しようとするが、姫の決意は固かった。
天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子「誉津別命(ほむつわけのみこと、火の中で産んだため)とつけたらよいでしょう」と申し上げた。
また天皇が「お前が結んだ下紐(したひも)は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げ、炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。
これが有名な狭稲彦王の叛乱である。

炎に包まれる狭稲姫  月岡芳年 画


「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」
これは男女が共寝した後に、互いに結んだ下紐は再び会うまで解かない、他人には解かせないという美しい風習だ。
つまり他の人に浮気しちゃダメだよ、という甘い約束の事であろう。
こんな約束をしたことなどおかまいなしに、すぐ違う人に下紐を解かせているそこの貴方と貴女、心がけだけは見習うべきだと思う。
ここでは、次の后は誰がよいかの意だ。
 
それにしても、炎に包まれる后に、子供の名前はどうするとか、次の后は誰がいいか、などと問う方も問う方だが、それに対して后は名前ばかりか次の后の提案までするとは・・・・
凄まじい物語だ。
 
狭穂毘売の提案通りに、天皇は丹波道主王の娘たちと再婚し、長女の日葉酢媛命を新たな皇后とした。しかし末娘の竹野媛だけは醜かったので故郷に帰した。
『古事記』では歌凝比売と円野比売の2人帰したとなっている。
 
なんと天皇はひどいことに女性の容姿を理由に結婚を断り、醜いからといって実家に帰したのである。
大いに恥じた竹野媛は葛野で輿から投身自殺してしまった。
『古事記』では円野比売。相楽で自殺未遂、弟国で自殺となっている。
 
この話、天孫降臨のニニギノミコトが美しいコノハナサクヤヒメだけを選び、醜い姉のイワナガヒメを実家に帰し、そして何と本当に自分の子供なのかと、とんでもないことを問う。疑われたコノハナサクヤヒメは怒って炎の中で出産したという話とよく似ている。
この時代、一夫多妻とはいえ、姉妹をいっぺんに多妻としてしまうとは・・・
かといえば熱烈な恋愛もあるし、美しい夫婦の物語もある。
いったい「下紐」はどうなっているんだ。わけがわからない。
 
そして皇子の大足彦尊(景行天皇)そして皇女倭姫の誕生である。
 
野見宿禰(ノミノスクネ)VS当麻蹴速(タイマノケハヤ)・・・相撲の起源

当麻村に当麻蹴速という強者がいて、「自分より強いものはいないのか、全力で力比べできる相手はいないものか」と吹聴していた。そこで天皇は出雲国造家の野見宿禰を召喚し当麻蹴速と戦わせたところ、互いに蹴り合った末に野見宿禰が当麻蹴速の腰を踏み折って勝った。
これが相撲節会の起源だとされる。
天皇は当麻蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を没収し野見宿禰に与えた。
蹴速、すなわち蹴りが速いという名前がすごい。名前を聞いただけでもかないそうもないと思えてしまう。
きっと「切られの与佐」とか「ステゴロのヤス」、「秒殺のトシ」、「ピストルのケンジ」などと同じ二ツ名だったに違いない。
そして負けて死んでしまったらあっさり所領を取り上げ勝った方に進呈、というのもひとかけらの憐憫の情を感じさせない。
絵を見ても今の大相撲とは全然様相が違うし、腰を蹴り折って殺す、というのは精神的にも技術的にもなかなかできることじゃない。

大日本史略図会二 野見宿禰 清涼殿の南庭に於いて当麻蹴速を蹴殺す  安達吟光 画
東京都墨田区両国近くにある野見宿禰神社

埴輪の起源

皇后の日葉酢媛命が亡くなった時、天皇は殉死の風習に代わるものを考えていた。
そこに野見宿禰が進み出て出雲国から100人の土部(はじべ)を呼び寄せることにした。野見宿禰たちは人や馬の形をした焼き物を作り殉死者の代わりとしてはどうかと提案した。これが埴輪の起源だとされる。
天皇はこれを称えて野見宿禰に土師臣(はじのおみ)の姓を与えた。
「蹴り殺しの宿禰」はただの喧嘩自慢の野蛮人じゃなかったということだ。
しかし、残念ながら考古学的には人型や馬型の埴輪はかなり後になって出てくるものであり、この説話は正しくないことがわかっている。

埴  輪
埴  輪


 

倭姫の旅、旅する皇女

父の垂仁天皇により天照御大神の“御杖代”(みつえしろ)となる命が下った。
御杖代とは言葉通り天照大御神の杖の代わりとなって大神に奉仕する、のちに斎王と呼ばれる役目だ。
先代の崇神天皇は皇居内に天照大御神を祀っていたが、大和の笠縫邑(奈良県桜井市あたり)にうつした。その際皇女である豊鍬入姫命(トヨスキヒメノミコト)を御杖代として付けた。
倭姫は大神をさらなる聖地に祀るため、御杖代を叔母から引き継いだのである。
 
そして「倭姫命の巡行」といわれる古代のプリンセスの旅が始まった。
 
御杖代を引き継いだ時、倭姫は10代半ば、一説には11歳か12歳だったといわれる。
15歳以上に達した者の平均死亡年齢は、古墳時代で男30.5歳
/女34.5歳なので、現代の感覚での子供というのではなかったと思う。
 
同じ大和の国内にある「宇多の秋の宮」と「佐佐波多の宮」で数年間様々なことを学び、旅の計画を練り 同行する者たちと打ち合わせを重ね、準備をした上で旅に臨んだのだろう。
出発した時の年齢は想像するしかないが、おそらく二十歳前後だろう。

巡行経路
平安時代の『皇太神宮儀式帳』さらには鎌倉時代の『倭姫命世記』には旅がかなり詳細に記述され、巡航地も増え、倭姫はかなり神格化されているが、最も古い『日本書紀』の「垂仁天皇紀」の記述は、「倭姫命、大神を鎭め坐させむ處を求めて、菟田(宇多)の筱幡(笹畑)に詣る。更に還りて近江(淡海)國に入りて 東美濃を廻りて、伊勢國に到る。」とある。
そして「神風の伊勢国は(中略)傍国の可怜国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲ふ」と大神がお伝えになったことで、ようやく旅の終焉を迎えたのだ。
巡行の期間も伝説にあるように何十年というよりもかなり短い期間だっただろう。
(『日本古典文学大系 日本書紀・上』より)

倭姫の巡行経路

平安時代の文献『皇太神宮儀式帳』に記載されている巡行地は十四か所である。

①宇多の秋の宮 ②佐佐波多の宮 ③伊賀の隠市守(なばりいちもり)の宮 
④伊賀の穴穂の宮 ⑤伊賀の敢都美恵(あえつみえ)の宮 
⑥淡海(おうみ)の甲可日雲(こうかひくも)の宮 ⑦淡海の坂田宮
⑧美濃の伊久良河(いくらかわ)の宮 ⑨尾張の中嶋の宮 
⑩伊勢の桑名の野代(のしろ)の宮 
⑪鈴鹿の奈具波志(なぐわし)の忍山(おしやま)の宮
⑫伊勢の藤方(ふじかた)の片樋(かたひ)の宮 ⑬伊勢の飯野の高宮
⑭伊勢の佐佐牟江(ささむえ)の宮
 
当時の国内は様々な勢力があって、お互いがしのぎを削っていた。すべてが大和朝廷の支配下にあったわけではないし刃向かう豪族もいただろう。
朝廷は、戦闘での征服、同盟関係、あるいは婚姻を通じての協力体制、などさまざまな方法で勢力を広げていった。
倭姫が巡った範囲は間違いなく大和朝廷の支配下にあった地域だし、朝廷の防衛拠点でもあったのだろう。
倭姫命は巡行の地で、人々に農業、織物、治水などを教えていたらしい。
武による制圧の後、「天照大御神」を祀り祈る信仰、自分たちの持つ技術や知識を伝え広めることにより民の信頼を得ていったのだ。
 
五大夫が同行したとある。有力な豪族であり、重臣である
・大鹿嶋(おおかしま)・・・中臣氏の祖
・大伴連武日(おおとものむらじたけひ)・・・大伴氏の祖
・武渟川別(たけぬなかわわけ)・・・安倍氏の祖
・物部十千根(ものべのとおちね)・・・物部氏の祖
・彦国茸(ひこくにふく)・・・和邇(わに)氏の祖
 
五大夫の役割ははっきりわかっていないが、一行の護衛をする係、天照大御神の御徴とお宮を守る係、ご巡幸の旅の指揮をする係、ご巡幸の旅の先達として、次の巡行地のトップとさまざまな交渉をする係、倭姫命のそばで大神様の祭祀を司り、吉凶を占ったり、ご巡幸の旅の安全を祈る係、一行の人たちが暮らす場所や食料を確保する係など、様々な役割があったであろう。
総勢50人以上だったのではないだろうか。
 
後世のようなお姫様の籠に乗った旅ではない。すべて歩きだ。日焼けして真っ黒になり、自ら民の間に入り込み一生懸命に話す姿を想像すると愛おしくなる。
 
倭姫命は皇大神宮御鎮座ののち、神嘗祭をはじめとする年中の祭りを定め、神田並びに各種のご料品を奉る神領を選定し、禰宜、大物忌以下の奉仕者の職掌を定め、斎戒や祓の法を示し、神宮所属の宮社を定めるなど、神宮の祭祀と経営の基礎を確立した。
まさに偉業である。
伝説や諸説は多々はあるが、倭姫命は私たちにとても大切なものを遺していってくれたことに間違いはない。
 

倭姫はどんな女性

何しろ神話の時代のことで資料が少なく、私の一番知りたいところの人物像、容貌は謎に包まれている。
もうここは、“神話的想像力”を働かせるしかない。

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 『倭姫命世紀』の一書には、倭姫についての記述がある。
それによると、生まれた時からたいへんな美貌で、幼い時から分別があり、気が利いていて、性格がはっきりしていている、とある。
古代のプリンセスは将来を期待され、美しくはつらつとした女性として成長したのだ。
日本の神話や昔の物語では、美女は美女と、醜女は醜女と書き、そして普通の場合は容貌に触れない、という明確な傾向があるので、この記述を信じたい。
しかし、この時代の美人の基準はどうだったのだろう。
少なくても平安時代の絵にあるような、うりざね顔の平べったい顔族では絶対になかったはずだ。
倭姫のお顔をこのように想像したり、描いたりするのはやめていただきたい。
第一、平安時代の男性でも引目・鉤鼻・平べったい顔を美しいとは思っていなかった。
その証拠に『源氏物語』では、光源氏は空蝉(うつせみ)について、その容姿に低評価を与えているではないか。

『少し腫れぼったい目のようで、鼻などもよく筋が通っているとは見えない。はなやかなところはどこもなくて、一つずついえば醜いほうの顔であるが、姿態がいかにもよくて、美しい今一人よりも人の注意を多く引く価値があった。』
与謝野晶子 訳『源氏物語』空蝉より

「少し腫れぼったい目で、鼻筋がよく通っていない」 だから「醜いほうの顔である」と、光源氏が言っているのである。現代なら削除されかねないことをはっきり述べている。
もちろん面食い、ブスセンなど好みは人それぞれであるが、ブスセンの人も「醜いほうの顔」を美人と認識してるわけではないのだ。
「平安時代にタイムスリップしたら私、絶対美人なのに」などとのたまう女性がたまにいるが、現代の「醜いほうの顔」は平安時代でも「醜いほうの顔」の可能性が高いということを忘れてはならない。

平安美人?

顔についてつい熱く語ってしまったが、この時代、古墳時代の日本人の容貌は、縄文人が少し薄くなった感じではないかと思われる。            
つまり現代人に近い。その時代の人が、美貌であると書いているのだから 現代の我々が見ても美人であろう。

凹凸のある顔で、眉はキリッと濃く、睫毛は濃く、二重まぶたで、鼻筋が通っている。
本来は透き通るような白い肌であるが、長旅の日焼けで肌は浅黒い。                 細身の身体ではなく、骨太でしっかりしている。身長は平均より高め。

不敬ながら、私が勝手に想像した倭姫のお姿である。
その容貌とともに、お人柄も慈愛に満ちている。  
東国征伐に向かう倭健命 (ヤマトタケルノミコト)にかけた言葉に表れている。
日本書紀では、倭健命は父の命を果たすべく、気合いの入った東国征伐への意欲を叔母である倭姫に告げる。
その時に彼女が甥に天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を授け、さらに  はなむけとして贈った言葉だ。

「慎みてな怠りそ」

高校の古文で習った。
“な〇〇〇そ”は柔らかい禁止の表現。

「慎むことを怠ってはいけません」という意味である。
短い言葉であるが、常に身を慎み、怠けることなく、精進しなさい、と言って剣を渡す。
素晴らしい。
この言葉なしで剣だけ渡したのであれば「大君のために精一杯戦ってきなさい、敵を殲滅よ、武運を祈る」となってしまう。

私が社会に出るときに、こんな素敵な叔母さんがいたならどんなによかったことだろう。
私は剣だけ渡されたものだから、その後慎むことを怠り続けこの体たらくだ。

倭健命と天叢雲剣

神宮の内宮と外宮を結ぶ御幸道路のちょうど中間地点の倉田山に倭姫宮は鎮まる。
大正12年11月5日に神宮の14番目の別宮として、今年で創建100周年を迎える。
125社ある伊勢の神宮のなかで最も新しいお宮だが、伊勢の神宮2000年の歴史は倭姫命から始まったのだ。

倭姫の宮(皇大神宮別宮)鳥居
倭姫の宮(皇大神宮別宮)

倭姫ラブ


 大伴業彦(オオトモノナリヒコ)は大伴氏の若い衆のリーダーである。
いわば若頭といったところか。 
若頭といっても、歌舞伎町の若頭とはわけが違う。
この五大夫に選ばれた人達は、連(むらじ)や臣(おみ)といった有力な氏族である。いわばエリートなのだ。
ナリヒコの頭領である大伴氏の役割は、つねに倭姫命のお近くで警護や雑務にあたるとともに、一行の護衛をする係である。
大氏伴氏は物部氏と共に朝廷の軍事を管掌していたと考えられている。
親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり、大伴氏は宮廷を警護する皇宮や近衛兵警察のような役割をしていた。
 
ナリヒコは18歳。将軍が戦に出陣するときは常に同行している歴戦の強者だ。当時の大王や皇族、有力な豪族たちは自ら剣をとり戦っていたのだ。
「不死身のナリヒコ」である。
刀傷だらけの逞しい身体をしている。しかし、困ったことに顔が可愛いのである。
つまり、めっぽう美男で、心優しく、いつだって情熱にあふれ、とどまるところを知らない。
そんなわけで、老いも若きも、初の女も手練れの女も都の女も田舎の女も 女という女はナリヒコと恋に落ちてしまうのだ。

一年前に大伴隊の交代要員として伊勢の佐佐牟江で倭姫一行と合流した。
その時以来、片時も倭姫のそばを離れずボディーガードをしている。
 
あれは五十鈴川の上流の土地に、天照大御神の祠を建てる準備をしていた時のことだ。
地元の反大和王権勢力の5人が突如襲ってきたのだ。
完全に制圧し、土地の首領とも話がついているはずなのだが、どこにでもこのような反乱分子はいるもので、油断はできない。
敵が倭姫をめがけ、剣を振りがぶった一瞬、私は懐に飛び込み、一撃で切り捨てた。
残りの4人は私の屈強な配下が難なく撃退した。
死者1名、重傷者4名である。
この落とし前は私の頭領と先方の首領が話し合うだろう。私の関知するところではない。
怯える様子もなく、倭姫が私のそばに来てこう仰った。
 
「ありがとう、助かりました。でもこれは私の力不足です。もっと皆と納得がいくまで話し合うべきでした。その上で物事を進めればよかったのです」
「この土地に居たいという大神様のご神託を受けたので、嬉しくなり、ことを急ぎすぎたようです」
「これからはこのようなことがないように、十分に話し合い、大神様の意向をお伝えしたうえで、何事も進めていきます」
「だから、これ以上地元の方々を殺したり、傷つけたりはしないでください」
 
と、私を見上げて仰ったのだ。
 
なんという上品で美しく、思いやりに溢れた言葉であろう。
「ははぁ~~」
 こう言うしかない。
 
私を見上げるそのお顔、初めて間近に見たそのお顔、美貌なんてものじゃない。
潤んだ瞳、年齢を感じさせない端整で硬質の美しさだ。
一種の近寄りがたい気高さをたたえている。
この人のためなら命を捨ててもいい、そう思わせるいじらしさだった。
 
不覚にも私は一瞬で恋に落ちた。
 
何しろまだ文字のない時代である。気持ちを伝えるのに手紙や歌を送るなどの手段はない。まさか皇女に向かって、好きです、などと直接言えるわけがない。
燃え上がる恋心を素早く行動に移すには、気持ちを込めて瞳を見つめる。
精一杯目に物を言わせるしかない。
 
私は見つめた。真剣に気持ちを込めてみつめた。「お慕い申し上げております」と・・・
一瞬倭姫の瞳に「あれっ?」という気持ちが映った。
しかしその後は何事もなかったかのように後片付けをされていた。
 
私の寝所は防犯上の理由もあり、倭姫の寝所に近いところにある。
昼間の出来事を思い、眠れるわけもなく、ぼんやりと外を眺め横になっていた。
 何と、月のおぼろな光の中に、侍女を連れた女人が立っているではないか。
その女人はゆっくりと私の布団に歩み寄ると、私の隣に横たわった。
 
真夜中、朧月の光をまとい、倭姫は忽然と私の前に現れたのである。
 
夢か幻か、もうどっちでもかまわない。睦言を交わす間もなく夢中でかき抱く。
豊潤な女の匂いが溢れてくる。
しかし、 どんなに激しい情熱の中にあっても、 自分と私の立場を忘れることはなくむしろ私をリードするしなやかな強さがあった。
・・何かが違う。たとえば解いた髪の手触り、背中から腰にかけての柔らかな感触、ぎごちないくちづけ、すべてが私の知る女とは違う。女の姿を借りた何ものかを抱いているような不思議な気持ちがした。
  
事が終わり、まるで抱き枕のように、股で私の体を挟み、腕を回し引き寄せ、私の胸に顔をうずめて眠っている。
女の太ももに挟まれて眠る心地よさを私はこの時初めて知った。
 
腕枕の左腕がふっと軽くなった。起きて身支度をしている。
寝たふりをして背中を向けた。
左のほほに乾いたくちづけ。同時にあたたかな水滴が一滴垂れた。
涙だ
たまらず振り向き起き上がった時には、そのお姿はまぶしい水色の朝日の中に消え去ろうとしていた。
 
翌朝、私に原隊復帰の命が下った。
なにしろ、当時大和王権は征服戦争の真っ最中である。女王国を中心とする倭国連合との戦いが正念場に入った時期である。
また戦が始まる。
周防あたりまでは抑えているはずだから、いよいよ九州上陸作戦だ。
南九州の諸国とは同盟を結んだせいで最近都でもちらほら見かけるようになったが、私はどうもあの顔中に入れ墨をした倭国の連中が苦手である。
まして、女王国では、捕虜を含め何十人も自国人を生口(奴隷)として魏の国に献上しているというではないか。とんでもねぇ奴らだ。
 
倭姫の前に皆勢ぞろいしてお別れの言葉を聞いている。
私は頭領の肩越しに倭姫を見つめていた。
昨夜のことは夢なのか現実なのか、眠っていたのか醒めていたのか。
今夜もう一度 逢ってはっきりさせたい。
そんな想いで見つめていた。
 
その夜は土地の首領や有力者が集まり、一晩中の酒宴。
夜明けとともに都に向け出立予定であり、どうあがいても逢うことなどできない。
もう二度とお目にかかることはないだろう。
さようなら、これでお別れです。
 
そもそも斎宮に近づくのは、重い禁忌に触れる。 神と朝廷を冒瀆する、 あってはならないことである。
恋をしてはならない立場の女性である。 恋をすればすなわち身の破滅を招く。
この時代はまだ斎王という地位も言葉もなく、禁忌感覚は薄いとはいえ 神に仕える神聖な女性であることに間違いはない。
 
これから約500年後、在原業平(アリワラノナリヒラ)という不心得者が、清和天皇の御代の伊勢の斎宮、恬子(ヤスコ)様と深い関係になり大事件に発展することなど、この時のナリヒコは知る由もない。
 
お別れから半年後、倭国連合との北九州の戦いに参戦、ナリヒコは討ち死にする。
「不死身のナリヒコ」の戦死である。
彼の亡骸は遠い奈良の都、もっと遠くの東の方角を遥拝するように横たわっていた。
 
 
 


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