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生きちゃったイ

最近、眠る前に思い出す詩がある。

生きちゃったイ

で終わる。その一節以外忘れてしまったが、心に残っていた。「のはらうた」で有名な工藤直子さんの詩で、『あいたくて』という詩集に収録されていた。

イ、とは何かというと、読者が各々汲み取るほかない。私は江戸っ子言葉ふうのちゃっかりした感じにとらえた。生きちゃった、と断言しすぎず、勢いつけて、生きちゃったイ。
多分これは、誰にも言わない、夕暮れや寝る前のひとりの瞬間のひとりごとではないかな。今日も無事に生きのびた安堵と、まだ行く先があるという意志が、密かに「イ」に宿っている。おどけた口調に、かなり真剣で切実なものが揺れている。

ただ、他の部分が思い出せない。

ネットで検索すると合唱曲と「生きちゃった」というタイトルの映画が出てきた。映画は別物で、合唱曲は確かに工藤さんの詩をもとにした歌詞のようだったが、文字で読みたかったので再生しなかった。時間をとめて読みたいのだが、曲になると思わぬリズムで進んでいってしまう気がする。

出会いなおすには、また詩集『あいたくて』を読むしかないようだ。翌日にでも図書館で借りたかったが、ちょうど緊急事態宣言により図書館が休館で、一週間待った。

ようやく開館した日の昼休み、図書館へ走る。10分で見つけて借りるぞ。
検索するとまさかの閉架書庫にある。レファレンスカウンターのあねご(『図書館戦争』の柴崎を思わせる、切り揃えた黒髪の麗人。ついレファレンスしちゃう)に尋ねると、「別館にあり、取り寄せに一週間かかります」とのこと。ガビョーン。「では、他に生きちゃったイという詩が入っている詩集はありますか」「はい?」「生きちゃった…イ」言うのが恥ずかしい。「鯛?」「生きちゃったイ!」

「国会図書館データベースで検索しても出てこないのですが、本当に工藤直子さんの詩ですか?」
心もとない。変に確信を持ったことに限って、全く外れていたということが多いのだ……。

司書のあねごは取り寄せの手続きをしようとしてくれたが、昼休みが残り5分になってしまったので、今日は諦めますといって失意のうちに職場へ駆け戻った。帰り道、家の最寄りの閉館間際でおばけがでそうな市立図書館にいちかばちか寄ったら……あった。走って帰り、対峙する。

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絵が少々不気味な気がするが、やっと手に入れた喜びからかわいくも見えてくる。虚ろな目で虚空に手をのばすさまは、まるで図書館が臨時休館中の私ではないか。

さてまだ、ここに「生きちゃったイ」が収録されているという保証はない。
しかし、いずれにせよ「あいたくて」をはじめ工藤さんの詩たちをもう一度味わいたかったので、これも縁!と思い、厳かにめくる。至福である。


工藤直子さんに出会ったのは、詩人・茨木のり子さんに捧げるエッセイにおいてだった。工藤さんが茨木さんの詩に出会ったときのことを、以下のように振り返っているのに共感した。

初めての就職でジタバタしているときのことだ、詩集をもらって(中略)読むうちに「ああこれですこれです。会いたかった詩だよぉ〜」と思った。特に「怒るときと許すとき」の

 油断すればぽたぽた垂れる涙を
 水道栓のように きっちり締め

の詩句が沁み入り、気がつくと私も、ぽたぽたぽたぽた涙を垂らしていた。


 <文藝別冊KAWADE夢ムック 『茨木のり子』収録「のり子さんのり子さん」(工藤直子)2016年>

わかる。会いたかった詩、というのがある。「わたしのことだ」と思う詩だ。心の底にとけてる、自分も知らなかった気持ちをすくって見せてくれる。

そして、工藤さんの「あいたくて」はまさにそれだった。本屋で立ち読みしたとき、これはまずい、と急いで閉じたのを覚えている。

だれかに あいたくて
なにかに あいたくて
生まれてきたーー
そんな気がするのだけれど

それが だれなのか なになのか
あえるのは いつなのかーー
おつかいの とちゅうで
迷ってしまった子どもみたい
とほうに くれている


 <一部引用 大日本図書『あ・い・た・く・て』(工藤直子)1991 年>

心がゆで卵のようにツルンツルンに剥かれ、無防備に目の前に現れて混乱した。かなりの量の涙を落としながら本屋から逃げた。おつかいの途中で迷ってしまった子どもだ。自分の心に長い時間をかけて沈澱したあこがれ、今読み返してもズキズキ痛んで主張するこれに、これ以上せまる言葉をまだ知らない。



さてついに、ゆきゆきて中盤、やはり「生きちゃったイ」が現れた!

地球が ほれぼれと 太陽を めぐって
月が ほれぼれと 地球をめぐって
ーーいるように思える ある日ある時は

太陽を うでに抱いた銀河が
宇宙の田舎で はなうたうたって散歩して
ーーいるように思える ある日ある時は

あなたが一瞬この世にあらわれた その一瞬に
わたしの ほんのチビッとの一瞬を 重ねちゃったイ!
ーーって思える ある日ある時なのだ

それが コタエられなくて
きょうも生きちゃったイ


<大日本図書『あ・い・た・く・て』(工藤直子)1991年>

これだ〜。

ただ、これが意外と、完全に「わたしのことだ」にはならなかった。
「生きちゃったイ」の解釈は冒頭のとおり変わらなかったのだが、部分的にピンとこない。
地球が太陽のまわりを、月が地球のまわりをめぐっているように思えるある日ある時、が訪れたことがまだないのだ。
それに、ほれぼれと、がわからない。ほれぼれとしているものを知らない。

それでも、束の間の出会いにはっとさせられ、心の奥がキュッと痛い。
もう会わない人。祖母。むく毛の犬。怖い研修医さん。毎日がドラマだと言った清掃のおばちゃん。

これからも会う人。早く会いたい人たち。まだ見ぬだれか。

今朝、犬の散歩をしてたら赤い朝日がのぼり、犬の毛が金に光った。帰り、歩きながら目薬を差すと、びわの実がなる向こうに月がのぼってた。
あれらがどう巡っており、どんな一瞬の我々か。
もう少しでわかるだろうか。
ほれぼれと、する瞬間が来るだろうか。
だとしたら生き延びる大きな動機だなあ。


こうして、どうにか再会した「生きちゃったイ」であった。相変わらず、眠る前に思い出す。
『あいたくて』の他の詩たちも、まだ見ぬ景色を授けてくれて、生き延びる理由を、あいたいものを、世のあちこちに隠してくれた。

工藤さん、これからもどうか、生きちゃう先達でいてください。ばらの散ったあとを見たり、ブルース聴いたり、すすきの湖を走る銀色のきつねになったりしながら、あなたの後をゆく。


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(伊勢ログ 2021/9/25)

『伊勢物語』第九段「東下り」に苦戦中。長くて覚えるのは大変だが、旅路が想像できて楽しい段だ。古文の教科書に載っていたな。
みやこで傷つき、わが身をつまらぬものと思い、全てを置いて友だちと東国へ下る昔男。道がわかる人がいないので迷いながら行ったという。大丈夫か。

三河の国の八橋でひと休み。
沢にかきつばたがきれいに咲いており、
唐衣着つつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ
という昔男の歌に、友達たちが涙をポタポタ落とし、食べてた乾飯が濡れてもどってしまった、というエピソードに友達が「そんなわけあるか!」とウケていたな。


乾飯とは、炊いたお米を3〜5日天日干ししたもので、20年もつともいう(!)。乾燥わかめぐらいの水でもどるのかな。なら余裕だ。
今ならわかる、詩で乾飯はもどる。
まだまだゆくよ、東下り。

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