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幸田露伴の小説「幽情記⑨ 碧梧紅葉」

幽情記⑨ 碧梧紅葉

 唐の詩人の顧況(こきょう)は冗談が好きな性格なので、王公貴人であっても之を揶揄(からか)ったと云う。軽薄なところがあるがまた一種の逸材である。この人がある時、詞友と共に御所の近くを遊び歩き、流れのほとりに坐って休んでいると、大きな梧桐(あおぎり)の葉が流れて来た。フと見ると葉の上に文字があるようなので引き寄せて見ると、何人(なにびと)の遊びか女性の手で美(うる)わしく詩が書いてある。

 一たび深宮の裏(うら)に入りてより、
 年も年も春を見ずてよ。
 聊(いささ)か 一ト片(ひら)の葉(このは)に記(しる)して、
 寄せ与(まい)らす 情(こころ)有る人に。
 (一たび奥深い宮中に入ってからは、何年も何年も春の訪れを見て居ない。聊(いささ)か一片の葉の上に文字を記して、情(こころ)有る人に、思いを伝える。) 

 水は宮城(きゅうじょう)を通って出て来たものなので、宮中深く仕える美人が、春の愁いに堪えかねての仕業と思われる。もともと詩人の優しい情(こころ)が有り、かつ洒落気の多い者が、これを見てどうしてこのままに出来よう。顧況は次の日その流れの水上(みなかみ)に行って、詩を桐の葉の上に書いて流れの中に放った。流れはゆるく風は仄(ほの)かに吹いて、春の日はのどかに、碧い石のゆれ動く流れの中を、蝶を載せて流れ去る。詩に云う、

 花落ちて 深宮 鴬も亦(また)悲しむ、
 上陽の宮女 断腸の時。
 帝城 禁(とど)めず 東流の水、
 葉上に詩を題して 誰に寄せんと欲(ねが)える。
 (春の花も散って、深宮の鴬も亦(また)悲しむ、上陽の宮女も断腸の時。帝城も東流の水を止めない、葉上に詩を記(しる)して、誰に伝えようと願うのか。)

 その後、十日あまりして、或る人が春を尋ねて遊んだが、また葉上に詩を記して顧況に示した。その詩に、

 一葉 詩を題して 禁城を出(い)だししに、
 誰人(だれびと)か酬(しゅう)和(わ)して 独り情(おもい)を含む。
 自ずから嗟(なげ)く 及ばず 波の中(うち)の葉(このは)の、
 蕩漾(なみのうねうね) 春に乗じて 取次(しゅじ)に行くに。
 (一葉に詩を記(しる)して宮城から出したが、誰人(どなた)であるか此れに応えて独り情(おもい)を伝える。自(みずか)らから嘆く届かないことを、波上の葉(このは)はうねうねと春の中を次第に流れ去るだけと。)

とあった。取次は次第と云うようなことで、唱元(うたいもと)の美人と酬吟の奇士が遇えば面白かったのであろうが、物語はそれ無くして、余韻を残して止んだ。これは唐の人が記したところで、顧況は粛宗と代宗の頃の人だが、同じようなことは何時の世にも有るもので、この事があった後に同じ唐の僖宗の頃に紅葉結縁(こうようけちえん)の話がある。
 僖宗の時代に于祐(うゆう)と云う者が在った。ある日の夕方宮城の辺りを散策していたが、折からの秋風は悲しく吹き下ろして、万物は揺れ落ち、遠路の旅人は悲しみの募ること多く、御堀の流れで手を洗い、フと流れに目を遣ると流れ下る浮葉があった。その中でも特に大きな葉は、色も美しく紅色で艶があり上に文字があるように見えたので、取ってこれを見ると果して筆の跡であった。何であろうかと読みすすめると四句の詩で、

 流水 何ぞ太(はなはだ)急なるや、
 深宮 尽日(ひねもす)に間(しずか)なり。
 慇懃に 紅葉に謝す、
 好し去って 人間に到れ。
 (流水の何と速いこと、宮中は日々閑寂に過ぎる。心を込めて紅葉に願う、好く流れて心ある人に到れ。)

とあった。于祐がこれを持ち帰り書筒の中に納めて、明け暮れ誦唱して面白くも哀れな詩であると味わっていたが、作者はどこの誰かも分からないが、愛誦するあまり恋心がめばえて、紅葉の詩の作者が恋しいと、魂は憧れ、身は蛻(もぬけ)のようになって、心は惚れる。朋友が之を知ってあざ笑って云う。「詩の作者は特定の誰に宛てた訳では無い、葉を得たのもただ偶然のこと、万一実際の恋であっても深宮禁苑のことであればどうして交際が叶おう。愚かしいにも程がある。止めたまえ、」と諫めるが、迷いの道は二度と醒めず、却って人の言葉を斥けて、「天は高しといえども、卑(ひく)きに聴くと言い伝わる。王や仙人が並び無い者に成れたのも誠の志(こころざし)を天が感じられたからで、人に志があれば天もまた憐れみ給わろう」と、遂に思いを変えること無く、自身の二句を紅葉に記して、

 曽(かつ)て聞く 葉上 紅(くれない)に題するの怨みを、
 葉上 詩を題して 阿誰(だれ)に寄するぞや。
 (かつて、葉上に思いを紅く記したことを聞いたが、葉上 に詩を記して、阿誰(だれ)の伝えようと云うのか。)

と書いて御堀の中に流して、宮人の手に届くようにと願えば、いよいよ愚かだと笑う者もあり、また憐れだと云って、

 君恩 禁(とど)めず 東流の水、
 流れて宮墻(きゅうしょう)を出でしは これ此の溝。
 (天子の恩は東流の水を止めることなく、流れて宮城から出た。それが此の御堀。)

という詩を贈った者もいた。
 中国の制度では、試験によって官に登用されるので、于祐は幾度となく受験したが不幸にも落第の数を重ねて、出世の道は叶わず、財布の中も既に空しく、已むなく河中(かちゅう)の貴人である韓泳(かんえい)の門番となって給金を得て自活する。出世の道を諦めた訳では無いが、だんだんと月日は過ぎて行く。ある時韓泳が于祐を呼んで、「私と同姓の人で韓夫人と云う人がいる。朝廷の宮人として仕えているが、今休暇を取って私の屋敷に居る。私は君が心掛けも良く学問もありながら運に恵まれず、独り苦労しているのを日頃から気の毒に思っているが、韓夫人は、財産はあり、年も僅か三十で容色甚だ麗しい。君の妻に私が仲介したいがどうであろう。」と云えば、葉上題詩(はじょうだいし)の人を思っていたのはもう昔のこと、于祐は感謝してその言葉に従った。そして媒酌を通じ、結納を進め礼儀を欠くことなく、目出度く式を挙げた。華燭(かしょく)の夕べ、粧(よそおい)厚く、容姿いよいよ麗しく、于祐の喜びはただコレ夢のようで、吾のような貧しい儒生がどうしてこのように成り得たかと、吾ながら疑うほどであった。
 既に二人の暮らしも永く経過した或る日、韓夫人は于祐の書筒の中に紅葉に詩を書いたものを見出して、大いに驚いて、「これは私が作ったものです。貴方どうしてこれを持っているのですか。」と問う。于祐がありのままに答えると、韓夫人も、「私もまた水上(みなかみ)で紅葉を得たことがあります。」と云って手箱を取り出すのを見れば、かつて自分が書いた詩ではないか。夫婦は顔を見合せて暫し驚嘆する。これは偶然では無い宿縁であろうと、今更に敬愛の思いが増した。貴方見て下さいと手箱から取り出すのを見れば、

 独り歩む 天溝の岸、
 流れに臨みて 葉を得る時。
 この情(こころ) 誰か会(さと)り得ん、
 腸(はらわた)は断(た)ゆ 一聯の詩に。
 (御堀の岸辺を独り歩き、流れの中に葉を拾う。この情(こころ)を誰が知ろう。一聯の詩に腸(はらわた)は断える。)

とある。韓夫人また詩を作って韓泳に告げて云う、

 一聯の佳句 流水に題し、
 十歳の幽思 素懐に満つ。
 今日(こんにち) 却って鸞鳳(らんぽう)の友と成りて、
 方(まさ)に知る 紅葉のこれ良媒(りょうばい)なりしを。
 (紅葉に記した一聯の佳句を流水に託した、十年の幽かな思いに胸は満つ。今日(こんにち)初めて夫婦と成って、正に知る。紅葉の良媒であったことを。)

 世の人はこれを聞いて驚嘆しない者は無く、韓夫人が宮人だったことから天子もこれを知り、宰相の張濬(ちょうえい)が長詩を作るなどしたので話題は長く続いて、現在でも姻縁前定説の材料になっている。祝長生(しゅくちょうせい)作の「紅葉記」や王伯良(おうはくりょう)作の「題紅記」と云う戯曲は共にこの物語を増飾して作ったものである。
 唐の范壚(はんりょ)の「雲渓友議」に載っている宣宗の時代の盧舎人(ろしゃじん)の話や、宋の孫光憲(そんこうけん)の「北夢瑣言」に載っている進士の李茵(りいん)のこと等は皆この話と同じである。今記しているのは「流紅記」に依る。一話が輾転としたものか、或いは各話は皆真実なのか、時代は悠久と経過し確認できないことを憾むだけである。
 「玉渓編事」に記されている侯継図(こうけいづ)の事も甚だ似ている。継図もまた儒生である。書を読んで詩を吟じる。秋風が辺りに吹く時に、大慈寺の楼閣に籠っていたが、木の葉が飄然と落ちて来た。その上に詩があって、

 翠(みどり)を拭いて 双蛾(そうのまゆ)を斂(おさ)む
 鬱(うつ)たる心の中の事の為なり。
 管(ふで)を搦(と)りて 庭除(にわのおも)に下り、
 書き成す 相思の字。
 この字 石に書(しる)さず、
 この字 紙に書す。
 書(しる)して向かう 秋の葉(このは)の上に、
 願わくは秋風の起こるを遂(お)いて、
 天下の負心(ふしん)の人をして、
 尽(ことごと)く解せしめん 相思の死を。
 (鬱とした心中の為に、翠の髪を梳いて眉を描く。筆を執り庭に下りて書を成し、相思の字を紙に書す。書(しる)して秋の葉(このは)に対(むか)う、願わくは秋風の起こるのに乗って、恋し合う者の死を、天下の心無い人に悉く理解させることを。)

 継図はこれを得ては手箱の中に納めて凡そ五六年。任氏と結婚して、詩は任氏が嘗て記(しる)したものであることを知ったと云う。
この事も自ずから趣きがあり、よって之に基づいた戯曲は少なくない、有名な「双玉記」第二十七齣(しゃく)以後もまた紅葉伝情の故事を用いる。
 流紅の話は、およそ以上のようなことである。
 宋の史家の羅長源(らちょうげん)は笑って云う。「欄柯(らんか)や流紅(るこう)や燕女(えんじょ)等の話はそれぞれ別なものではない。大抵の文士や説士は模倣し合って大衆を悦ばす。満腹して終日工夫が無ければ、前人を倣い古本を模写し甘んじて人後に随って、そしてその誤りを気にすることが無い。」と、まことにその通り。古い伝説はただ珍重し味わえば可(よ)いのである、責めるには当らない。
(大正五年七月)

注解
・鸞鳳の友:夫婦
・孫光憲:中国・宋初の学者で文学者

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