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幸田露伴・支那(中国)の話「支那戯曲(邯鄲と竹葉舟)」

支那戯曲(邯鄲と竹葉舟)

 最近の人の感情から云うと、努力と云うようなことを非常に尚ぶ、甚だしくは奮闘と云うような事を尚んでいる。しかしそれを昔風に云い直して見れば、それはやはり一種の執着であって、今日では執着と云うことを尚んでいる訳になる。これを芸術の上に見ても、その芸術品の内容には自然と執着味のあるものが取り入れられることが多い。もともと人情と云うものを取り扱うのが芸術の大きな範疇だから、その取り扱う人情の有様に大なり小なりの執着があって、急なり緩なりの波瀾が展開する、そこを描き取るのである。それなので執着味が描かれるものが中心に成り勝ちなのは無理のない話で、古いものにしても恋愛物は大抵は執着の話である。その頂点ともなると単に現実的ばかりでなく、理智の中ばかりでなく、いろいろ様々な世界を突破して無理にもその執着の満足を得ようと馳せ行く事を描くことにもなるので、極端な一例では「日高川」のような話もある。そんな話も昔だからと云って無い訳ではない。日本や支那(中国)の戯曲や小説の中にも随分根強い執着を描いているものがある。
 ところが又、その反対に執着心から離れて行くような、色彩で云えば一方が強い色なら一方は弱い色彩を描き、一方が現実的ならば一方は超現実的の場合を描く、云わば執着とは反対の味わいを描いたものがある。それが思いの外に面白い味を出しているので、永く人の頭に残っているものもある。今日から云えば逃避的だとか回避的だとか云って余り称賛を受けない情緒であるが、そういう情緒を取り扱った芸術で、やはり多くの人に共鳴され、永くその芸術的な力を人の頭に植え込んでいるものがある。早い話が彼の謡曲の中にある「邯鄲」、あれなどはボンヤリとこの世の中の富貴・栄華・名誉、そう云う一切のものから離れて行って仕舞う人間の心持を淡(うっす)らと現わして、そして今日から云えば回避的・逃避的なことに同情させたり、共鳴することを要求しているような作品である。あの盧生の話と云うものは元々は日本で起こった話では無く、また歴史の上に明確な痕跡を残していることでも無く、ただ僅かに雑記体の書籍の中に元のある儚い伝説に過ぎないが、その儚い伝説を取り上げて芸術的なものとしたことは、多数の人に成程道理であると頷かせないまでも、ボンヤリとその心持に同化させる力を持っていて、その作品の生命を永く伝えて来ているので、今でも盧生の「邯鄲夢の枕」と云う話を知らない人は甚だ少ない。またその心持をチョット面白いと思う者も沢山居る訳で、たとえば前に云った奮闘的な事を口にする人でも、ああ云う内容のものを見る時には、一杯のサイダーを飲んだくらいの心持になって、それ相応に面白味を感じる訳である。
 盧生の話はもともと支那の雑書に出ていることで、その話の基づく所はどうも二ツの話が一ツになっているのか、一ツの話が二ツになったのか知らないが、何しろ中心が一ツの真円のようで無く、中心が二ツある楕円形のような感じのするもので、つまりあの話は、盧生と云うのと、もう一ツは呂生と云うのと二ツあるようで、その何れが何れになったのか分からないが、先ず種を云えばそんなものである。尤もそれは雑記であって未だ芸術品ではないが、それが芸術品になったものでは「黄梁夢」と云う元曲(元の時代の戯曲)が最初であろうか。この「黄梁夢」は馬致遠が第一折を作り、李時中が第二折を作り、花李郎が第三折を作り、そして紅宇李が第四折を作ったと、元の時代に出来た「鉄鬼簿」に記してある。この馬致遠はマズ第一流の作者である。しかし日本の謡曲の邯鄲がこの黄梁夢の系統を引いているかどうかは、よく考えた後でないと断言できない。オオヨソの見当では既に元の時代にそう云う伝説が戯曲に使われて、多くの人に知られていたとすれば、それが日本に伝わって来て、我が国には関係ない事であるが、一ツの面白い話としてコチラでも取り扱ったのであろう。
 この「黄梁夢」の話は呂洞賓と云う道士の話に繫がっている。呂洞賓と云う人は唐の時代に一派の宗教家として名高かった人である。そこで小説や戯曲の中にしばしば現れて来て、何時も面白い役を持つところの人物になっている。元曲の中だけでも呂洞賓が大きな役を勤めているものには、岳伯川の「鉄拐李」と云うものもある。これはかの狩野派の画題として使われている鉄拐仙人を呂洞賓が済度する話である。鉄拐仙人と云うのはこれも甚だ怪しい者で、たびたび画題になっているので確かな者のようであるが、ヒョッとすると戯曲などに現れた為に却って名高い者になって仕舞ったのではないだろうか。現にこれは元曲から生出したものだと云っている後人さえある位なのである。その鉄拐仙人と呂洞賓との話を書いた戯曲は、一種奇態な戯曲である。それから前に云った馬致遠の作品に「岳陽楼」と云うものがあって、これも呂洞賓を扱っている。まだその他にも、今日に伝わっているかいないか分からないものに呂洞賓を扱っている戯曲は少なくない。
 何にしろ呂洞賓は唐の時代の人でありながら、宋の時代のも元の時代にも、或いはその後の時代にも生きている人のように取り扱われる人間離れした人であるから、戯曲の人物としてはまことに面白い訳だ。そこでこの邯鄲の話も、この呂洞賓が盧生を済度した話だとするのが一ツ、それから又この呂洞賓が即ち呂生で、この呂生がその先生に済度されて、後に大悟して呂洞賓となったと云うのが一ツ、その二ツの伝説があって、その後に邯鄲の話が出て来たのである。盧生が呂生だか、それとも同じものが二通りの話になったのか知らないが、マズ最初にそう云うことがあって、それから夢の枕の話が伝わるようになったのである。呂洞賓は偉い宗教家であるが、初めはやはりただの人で、儒教出身の人で、あく迄も現世で働こうとした人である。その人が師に感化されて、この世の中を捨てて霊の世界に入った訳であるから、夢を見た人が呂生でもよいし、それから又この呂洞賓は感化された後に、世の人を救うために、自分が昇天する楽しみを取るよりも、永くこの世に在って、あらゆる煩悩の苦に堕ちている人々を済度しようと誓った人であるから、この人が夢を見せた人であっても差し支えない。都合よく伝説も二ツあって、どれがどれだか分からなくて、そんなことまで研究は出来ない訳だが、とにかく「邯鄲夢の枕」と云う洒落た話は先ずそれから出来上がったのである。
 尤も謡曲の話は古い伝説から来ているものではないようで、その間に何かあるのではないかと思われる。謡曲の「邯鄲」はこれから出ていると、その種をハッキリ云うことは出来ない。謡曲の中にある支那の説話には、直接これだと示すことの出来ないものがある。たとえば「松山鏡」の中の鏡の話なども、支那の伝説を載せたものから直接出ているのではないようである。何故かと云えば、支那にある古い伝説を取って来て松山鏡の鵲(カササギ)の鏡の話を突き合わせると、そっくりそのままではない。その間に少し作意のようなものが入っている。それはコチラで語り歪め、伝え歪めて出来たものかも知れない。もう一ツ考えれば語り歪め、伝え歪めたのではなくて、当時か或いはそれ以前に古い伝説を幾分か脚色し直したものが支那に在って、それから出ているのかも知れないと考えられる。古い日本人が支那の事を、どういう所からどう云う風に伝えているかと云う経路は未だ明らかになっていない。たとえば「八犬伝」の中の伏姫と犬の話、ああ云う話は支那にも沢山ある。沢山あるけれどもあれ以前に日本で出ている「唐物語」の中の雪々という話は、やはり美しい女と犬の話だが、その話は支那の話に相違ないが、今、支那の何の本にあるかと云われても一寸困る。この「唐物語」の話は非常に自然主義的に犬と人との話を書いたもので、馬琴の超自然的なのとは趣を異にしているが、何れにしても雪々と云う犬の話は何かの書に在るに違いない。けれども私は今これを明らかにすることは出来ない。そう云う理屈(わけ)でヘンテコ風に書かれ伝えられているこれ等のものも、悉く間違いばかりから出ているとも思えない。何かが在ってそれから出ているのだと思われる。謡曲の「邯鄲」の基づくところも、やはり今すぐ指摘することは出来ないのは、残念であるが致し方ない。
 サテ、この呂洞賓を取り扱ったもので、もう一ツ前に述べたような淡い味わいの戯曲がある。それは「邯鄲」の話とは似ていないが、しかしどこやら夢の枕に似た話で、その行き方は違っていて終局の帰趨が似ているのである。ところがこれは謡曲の中や外のものなどにもあまり出て来ない。私は一寸面白味のあるものだと思うのでその話をしたい。題は「竹葉舟」と云って、これも元の荘康、字(あざな)は子安と云う人の作品である。荘康は杭州の人で、どう云う人かと云うと、元の人が評するに「性理に明るく講解を善くし、音律に通じ詩章を能くする」と云われている。王伯成と云う人が李白を題とした戯曲を作って、世の賞賛を博したので、この荘康は杜甫を題として一篇の劇を作ったとある。この王伯成の「李太白」は今でも厳然と残っていて、筆跡がまことに宜しく、気持ちの良い、思うに元曲の中でも石ではなく玉の方である。荘康の杜甫を描いた「遊曲江」も評判の宜しいもので、元の人の評に、「蓋し天資卓異にして、人及ぶべからずなり」と褒めている。このようにこの人は当時に在って良く思われた人で、「遊曲江」と「竹葉舟」の他にまだ作品は有るだろうが、私は未だ眼にしていない。
この「竹葉舟」は大体どんななものかと云うと、これはもと陳李卿と云う男が竹の葉の舟に乗って水に浮かんだと云う話を基として、それに呂洞賓を配して、後者を主役として書いたものである。陳李卿は一生懸命勉強して都へ出て来る。例のように受験したが不幸に落第して、冬の寒い日に面白くもなく暮らしていると、紛々と大雪が降って来る。青龍寺と云う寺の和尚が自分と同国人であることを思い出して、そこへ出掛けて行く、憂さ晴らしに話でもしようと訪ねて行くと生憎留守である。留守なので待っていると、そこへ来合わせたのが呂洞賓で、この呂洞賓が陳李卿に道心の情(おもい)があるのを感じて、これを導いてやろうと云うのが始まりである。待って居る中に李卿は腹が減って来る。呂洞賓が少しばかりのものを与えて、それから二人でポツポツいろいろ話を始める。座敷に地図が掛かっていて、天下の山河が一幅に縮めて描いてある。それを見ると李卿は、「この川を通って舟で行けば故郷へ行けるのだがなア」と思う。すると呂洞賓が、「お前さん、故郷のことを思うなら、行くのは訳ないが」と云う。そこで、「どうするのか」と訊いて見ると、庭先の笹の葉を取らせて、これを地図の川、即ち渭水と云う図中の川に貼り付けて、「これを見ていれば直ぐに行ける」と云うわけである。ただ静かに見詰めていれば好いと云うから、李卿がそれを見つめていると、忽ち身体は一ツの舟に乗り込んで仕舞い、だんだんと道を通って間もなく故郷に着いてしまう。その間、呂洞賓は船頭に化けたり何かしている訳である。李卿はそれから自分の妻や何ぞに会い、「詩を作って家に残して帰れ」と云う約束だから、舟に乗って帰途に就く。途中恐ろしく波が荒れて、李卿は船から墜ちる。そこへ愚鼓(ぐこ)と云うものを叩いて呂洞賓が現われ李卿を諭(さと)す。李卿も成程と云うことで、この世を棄てて仕舞い、世間の功名や富貴栄達を跡形もなく棄て去って仕舞う。愚鼓と云うのは竹筒の両側にクダラナイ皮などを張った、ロクに音のしない、道士などが使う、まるで仕様の無い鼓である。
 ザッと話せばそれだけの話だが、荘子安は呂洞賓の方を主役にして、徹頭徹尾、この世がさほど執着するに足りない事を誇張して、水でもサラサラ流すように一本調子に書いたのである。マズ評価して見れば、余りにも主観的に傾き過ぎて少し説法じみている嫌いはあるが、呂洞賓が最初はただの人で、それから漁夫といろいろな者になって、この世が執着するに足りないものであるという意味を云うのだから、まことに気持ちの好いものである。難を云えば一本調子だと云うのであるが、古い戯曲は皆そういったもので、また止むを得ない訳である。その書き方は前にも一寸云った通り、まるでサラサラと水が気持ち好く流れるように書いてある。もともと四折を限りとした戯曲のことだから、簡単で中間のイザコザも少なく、そう長いものではない。陳李卿が今日でいえば主人公であるがワキに廻って、呂洞賓の方が主役になっている。従って李卿の云いぐさとしては僅かに一度、故郷へ帰ってまた出立する際に、妻と別れる時に詩を作っている。その詩がどういう訳か最後の二句だけ少し違っているが、あとは原詩通り出ている。このように李卿の方は少ししか書いてない。
 この話は何から出たかと云うと、もとは「慕異記」と云うものから出ている。その方を見ると陳李卿の方が主人公になっている。その記事と竹葉舟とを併せ見ると余計味も出ようと云うものである。全体のお話をする上では「慕異記」でお話した方が好い位である。これで見ると呂洞賓とは書いて無く、ただ終南山の翁となっている。李卿は江南に家のある人で、家を離れて十年、官吏になろうとしてもそうは行かず、都で侘しい生活を送っている。青龍寺へ訪ねて行ったところが、和尚がいないので帰るのを待って居ると、そこへ終南山の翁も来合わせて、同じように和尚の帰りを待って居た。炉を囲んで暫く坐って居たが、翁が李卿に向って、「大分時も経つが腹は減らないか」と云う。李卿が「腹も減ったけれど、主人がいないから仕方ない」と答えると、袋から少しばかりの薬を出して、「これを煮て飲め」という。李卿がそれを煮て飲むと大層好い気持ちになった。東の方の壁に地図が懸っていた。故郷の事を想い、江南への道を探って、「渭水より河(黄河?)に遊び、洛(洛陽?)で遊び、淮(淮水?)に詠じて江(長江?)を渡って、それから家に着いたら、未だ宿願を遂げずに帰るのだが、それでも好いのになア」と歎息する。翁は笑って、「それは難しくない」と、庭の竹葉を取って舟をこしらえ、図中の渭水の上に置いて、「これを見て居れば直ぐに行けるが、永く留まっていてはいけない」と云うので、李卿が熟視していると、地図の渭水がダンダンと波立って、一葉の竹の葉舟は大きなものになり、帆も張れた。李卿は昂然として舟に乗る気持ちになり、竹の葉舟に入った。舟が河に出ると長い旅路の事なので、とある禅窟に舟を繫いで、李卿は詩を作って寺の南の柱にそれを書いた。その詩は、

   霜の鐘鳴る時 夕の風急なり、
   乱鴉 又 寒林を望んで集まる。
   この時 棹を輟(や)めて悲しみ且つ吟じ、
   一人 蓮華の一方に向って立つ。

 それから潼関に行き、岸に上って関門の東、普通院の門に詩を書いた。その詩は、

   関を渡って 志を失う事を悲しむ、
   万緒 心機乱れる。
   坂を下れば 馬に力なく、
   門を払えば 塵 衣に満つ。
   計謀 多くは就(な)らず、
   心口 自ら相違う。
   已に作(な)して 帰計を羞ずるも、
   還って勝る 羞じて帰らざるに。

 それから色々な道を通り、十日余りで故郷に着くと、十年も経って帰って来たのだから、妻子兄弟は門に迎えて喜んだ。そこに江亭があったので、江亭晩望の詩を書斎の壁に書いた、その詩は、

   立って江亭に向かえば 満目愁う、
   十年前の事 信(まこと)に悠々。
   田園は已に 浮雲を逐いて散じ、
   郷里は半(なかば) 逝水に随って流れる。
   川上逢うこと莫し 諸(もろもろ)の釣叟、
   浦辺得難し 旧沙鴎。
   歯髪の未だ遅暮ならざるに縁(よ)らざるも、
   吟じて遠山に対すれば 頭を白うするに堪えたり。

 その夕、妻に向って、試験の時期が近いから長くは居られない、直ぐにまた出掛けなくてはならないと、詩を吟じて別れる。その詩に、

   月斜めにして 寒露白し、
   この夕 去留の心。
   酒至って 愁いを添えて飲み、
   詩成って 涙と和(とも)に吟ず。
   離歌 鳳管棲み、
   別鶴 瑶琴を怨む。
   明夜 相思う所、
   秋風 半衾を吹かん。

 この詩を「竹葉舟」の中にそっくり取り入れてあるが、終いの二句を、

   明夜 相思の夢、
   空床 半衾 閑ならん。

と直してある。これはやはり原詩の方が好いようで、なぜ直したのだかは分からない。まさに舟に乗ろうとして詩を作って兄弟と別れる。その詩に、

   身を謀る事 早からざるに非ざるも、
   その命の来たる事 遅きを奈(いかん)、
   旧友は皆 霄漢、
   この身は猶 路岐なり。
   北風 微雪の夜、
   晩景 雲ある時。
   惆悵す 清江の上、
   区々として 試期に趣く。

 そこでまた舟に乗って江に浮かんで行く。妻子眷属は驚いて幽霊でも来て忽ち去ったように泣き悲しむ。李卿は一葉の舟に乗ってゆらゆらと波に揺られて、だんだん江を離れて元の渭水の浜へ着き、青龍寺へ帰って来た。見ると以前の翁が穏やかに座って居た。そこで挨拶して、「帰ることは帰りましたが、これは夢ではありませんか」と云うと、翁は、「あと六十日も経てば分かるだろう」と云う。日が暮れて来たが僧が帰らないので、翁が先ず帰り李卿もそこを出たが、その後六十日経つと故郷では亡魂が帰ったものと思い、金帛を持ってやって来る。それからだんだん聞きただすと、何月何日に帰って来て、その時の詩はコレコレと云うので、李卿も初めて夢で無かったと知った。明年の春、又試験に落第したので故郷に帰ると、自分の故郷だけでなく途中の関門や寺の壁に書いた詩が皆その通りであった。そこで李卿はこの世を軽んじる心を起こし、後年に一度名を成してから、絶泣して終南山に入って仕舞った。と云うのが本(もと)の文で、それを種に作ったのである。戯曲の方は妻に与えた別離の詩を翁は見通していた。籠の中の紙にその事を知っている意味の詩が書いてあったので、そのため驚いて道心を起こして、後を追って道に入る。とこう云う事にしてある。
 陳李卿と云う人がいたのか、またそういう事実があったかどうかは分からないが、何しろこう云う伝説があって、それが面白かったので終南山の翁を呂洞賓にして、伝説をなぞって行けば陳李卿の方を主人公にしなければならないので、反対に呂洞賓の口から李卿の思っていることを云わせ罵(ののし)らせて、云わばネガティブに書いたようなものである。「黄梁夢」とも違うが、結局は似たものである。
 元曲には不思議に神人が俗世間の人を済度する話が多い。一例を云えば「度柳翠」や「城南柳」などは、やはり人を済度して行く話であるが、それ等になると色気がある。また韓愈を済度する「韓湘子」の話などもある。しかし何れも「竹葉舟」ほどサラリとしていない。色気のあるものでは「城南柳」などは、馬丹陽と云う仙人が美人を済度する話で、面白いことは面白い。だが、先ずイザコザが無くてスラリとしているのは「盧生」や「竹葉舟」だ。この「竹葉舟」は余り人の話に出ないから、今お話ししたような訳であるが、後にまた「竹葉舟」と云う戯曲があって、それはこの話に基づいているけれども、名高い大金持ちの石崇と、緑珠と云う女の話にくっつけて書いたものである。石崇が金持ちだったために身を損なうと云う話だが、その石崇の家を没収に来た者が、「財が害を為すことを知ったら、何でこれを散じない」と云う有名な文句がある。それを掴まえて書いたものだそうだが、私はまだ見て居ないから詳しいお話は出来ない。
(大正七年十月)

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