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幸田露伴・明治の東京で「少年時代」

少年時代

 私は慶応三年七月、父は二十七、母は二十五の時に神田の新屋敷というところに生れたそうです。その頃は家もまだ盛んに暮らしていた時分で、畳数の七十余畳もあったそうです。しかし世の中が変わろうというところへ生まれ合わせたので、生まれた翌年には上野の戦争の危ない中を、母に負われて浅草の所有地へ立ち退いたという騒ぎだったそうです。大層弱い生れ付きで、生まれて二十七日目に最早医者に掛かったということです。御維新の大変動で家が次第に窮乏する、節約しなければならないというので、私が三才の時に仲徒士町に移ったそうですが、その時に「前の大きな家へ帰りたい帰りたい」と云って泣いて困ったので、母が止むを得ず連れ戻ったそうです。すると他の人が住んで居て大層様子が変わって居たものだから、ようやくその後は帰りたいと云わないようになったそうです。それからその後また山本町に移ったが、その頃のことで幼心に薄々覚えがあるのは、仲徒士町に居た時に御祖父様がお亡くなりになったこと位なものです。
 六才の時、関雪江先生の御姉様のお千代さんという方に就いて手習いを始めた。この方のことは佳人伝というものに出て居る。雪江先生のことは香亭雅談その他に出て居る。父も兄も皆雪江先生に学んだので、その縁で小さいけれども御厄介になったのです。随分大勢習いに来る者もありました。男女とも一室で、何でも年の大きい女の傍に小さい男の子が座るというような組み合わせになって居たので、自然小さい者はその傍に居る娘さん達の世話になったのです。私はお蝶さんという方を大層好いて居て、その方をたよりにばかりして居た。その方に手を執って世話をして貰うと清書なども能く出来るような気がした。お蝶さんという方は後に関先生の家の方になられた。その頃習ったものは、「いろは」を終って次が「上大人丘一巳」というものがあったと覚えている。
 弱い体はその頃でも丈夫にならなかったものと見えて、丁度「いろは」を終える頃ででもあったろうか、何でも大層眼を患って、光を見るとまぶしくてならないため毎日毎日戸棚の中へ入って突っ伏して泣いて居たことを覚えている。いろいろ治療をした後、根岸に二十八宿の灸とか何とか云って灸をする人があって、それが非常に眼に利くというので御父様に連れられて行った。妙なところへおろす灸で、しかもその据えるところが行くたびに違って馬鹿に熱い灸でした。行くたび、車に乗っても御父様の膝へ突っ伏してばかりして居たが、或る日の帰りに弁天池の端を通る時、そうっと薄く眼を開いて見ると蓮の花や葉がありありと見えた。子供心にも盲目になるかと思っていたのが見えたのですから、その時の嬉しかったことは今思い出しても飛び立つようでした。尤も、永い病気をして医者に掛かったり、観行院様(祖母)に連れられて日朝様へ願を掛けたり、いろいろ苦労したのです。その時、日朝上人という人は線香の光で経文を写したという話を観行院様から聞いて、大層眼の良い人だと羨ましく思いました。しかし幸いに眼もよくなって何のこともなく日を過ごした。
 夏になると朝習いというものが始まるので、非常に早く起きて稽古に行ったものです。ところが毎朝通る道筋の角に柳屋という豆腐屋がある。そこの近所に何時も何時も大きな犬が寝転んで居る。子供の時は犬が非常に嫌いでしたから、怖々(こわごわ)遠くの方を通ると、犬は却ってその様子を怪しんで、ややもすると吠え付く。時刻も早いので人通りは少ないし、これには実に弱りました。或る朝などは怖々ながらに、また今に吠えられるか噛みつかれるかと思って、その犬の方ばかり見て行ったものだから、それに気を取られて道の一方の溝の中へ落ちたことがあった。別段けがもしなかったが、身体中汚い泥まみれになって叱られたことがある。その後親戚の者から、これを腰にさげて居れば犬が恐れて寄り付かないといって、大きな豹だか虎だかの皮の巾着を貰ったので、それを腰にブラブラ下げて歩いたが、何か怪しいものを提げていたためでもあったか、犬は猶更吠え付くようで屡々(しばしば)柳屋の前で閉口しました。しかしまた可笑しかったのは、その巾着を提げて机の前に座って手習いをして居ると、女の人達が起ったり座ったりする時に、ややもすると知らずに踏みつける、すると毛がもじゃもじゃとするのでキャッといって驚く、そのキャッと云ってビックリするのが如何にも面白いので、後にはわざと紐を引っ張って踏みそうなところへ出して置いてやるのです。彼のお蝶さんという方なども私の後ろへ廻って清書の世話などを焼く時に、つい知らずに踏みつけてビックリした一人でした。犬に吠えられるのは怖かったが、これはまた非常に可笑しく思ったから今でも思い出して独り笑うこともある位で、本宅を捜したらまだその大巾着がどこかにあるだろうと思います。
 手習いの傍ら徒士町の会田という漢学の先生に就いて素読を習いました。一番初めは孝経で、それは七才の年でした。元来その頃は何もかもが厳重で、何でも復習が終わらないうちは一寸も遊ばせないという家でしたから、毎日毎日朝暗いうちに起きて、ローソクを小さな本箱兼見台といったような箱の上に立てて、大声をあげて復読をして仕舞いました。そうすれば先生のところから帰って来て、後は直ぐ遊ぶことが出来るのですから、家の人達のまだ寝て居るのも何も構うこと無しに、聞こえよがしに復読しました。随分迷惑でしたそうですが、しかし止せということも出来ないので、御母様も堪えて黙って居らしったそうです。この復読をすることは小学校へ行くようになってからも、相変わらずやかましくやらされました。しかしそれも唯机に向って声を立てて居ればよいので、毎日のことなので文句も口癖に覚えて悉く暗誦して仕舞って居るものですから、本は初めの方を二枚か三枚開いただけで後は少しも目を書物に注がず、口から出任せに家の人に聞こえよがしに声高らかに朗々と読んでいるのです。そして誰も見ていないと豆鉄砲などを取り出して、パチリパチリと打って遊んで居たこともある。そういうところへ誰かが出て来ると、さあ慌てて鉄砲を隠す、本をめくる、生憎開けたところと読んでいるところが違って居るのが見つかると大叱言を頂戴した。ああ、そうそう、まだその頃のことで能く記憶していることがあります。前に申した会田という人の許へ通っていた頃、或る日雨が大層降って溝が溢れたことがある。袴を上げる知恵も無かったと見えて、袴を穿いたままノロノロ歩いて行って、そのまま上がり込んで座ったものだから、代稽古の男にバカバカと立て続けに目の玉の飛び出るほど叱られた。振り返って見ると、成程自分の歩いた跡は泥水が滴って畳の上にズーッとポタポタが着いていた。しかしこの代稽古の男は兎角自分に出鱈目を教える男だったから、それに罵られたのが残念で残念で堪らなかったために忘れずに居ます。
 九才の時に彼のお千代さんという方が女子師範学校の教師になられたそうで、手習いは御教えにならないことになりました。で、私をどこへ遣ったものでしょうと家でもって先生に伺うと、お茶の水の師範学校に入れるがよかろうというので、そこへ入学させられました。その頃は上等が一級から八級まで、下等が一級から八級までということに分かれていましたが、私は試験された訳では無いが最初は下等の七級へ編入された。ところが同級の生徒と比べて非常に何もかも出来ないので、とうとう八級へ落されて仕舞った。下等の八級には九ツだのとか十だのという大きい子供は居なかったので、大きい体で小さい子供の中に交ぜられたのは子供心にも大いに恥ずかしく思って、家に帰っても知らせずに居た。しかし不出来であったのは全く学校に馴れていなかったためであって、程なく出来るようになって来た。で、その頃はまた学校で抜擢ということが流行っていて、少し他の生徒より出来が良いと抜擢してズンズン進級させたのです。私もそれで幸いにドシドシ他の生徒を乗り越して抜擢されて、十三の年に小学校だけは卒業して仕舞った。
 この小学校に通っている間にいろいろ可笑しい話があるので、同級の生徒の中に西勃平というのと細川順太郎というのと私と、先ずこの三人が同じ十一二才で気が合った友達であった。この西勃平というのは、ああ今でも顔を能く覚えている。肥った饅頭面の、眼の小さい、随分おもしろい盛んな腕白者で、相撲を取って負かして置いて罵ってやると、小さい眼からポロポロと涙を溢しながら非常な勢いで突っかかって来るというような愉快な男でした。それで、俺は周勃と陳平とを一緒にしたんだなどと威張るのです。すると私が、何だ貴様が周勃と陳平とを一緒にしたのなら、俺は正成と正行とを一緒にしたのだと云って互いに威張り合って、サア来いというので相撲を取る、喧嘩をする。正行が鼻血を出したり、陳平が泣きっ面をすると云う騒ぎが毎々でした。細川はそういうことはしない大人のような子供でした。この二人は後にまた中学校でも落ち合ったことがあるので能く覚えていました。またこの他に矢張り同級の男で野崎というのがありましたが、この野崎の家は神田明神の前で袋物などを商う傍ら、貸本屋を渡世にして居ました。ところが此処は朝夕の学校への通り道でしたから毎日のように遊び寄って、種々の読本の類を引きずり出しては、その絵を見るのと絵解きを聞くのを楽しみにしました。勿論草双紙の類はその前から読み初めました。初めの中は変な仮名文字だから読みにくくて弱わりましたが、段々読むのに慣れてスラスラと読めるようになった。それから後は親類の家などへ行って、児雷也物語とか弓張月とか、白縫物語、田舎源氏、妙々車などというものを借りて来て、片端から読んで一人で楽しんで居た。しかし何才頃から草双紙を読み始めたかどうも確かには覚えていません。十一位でしたろうか、この頃のことでした。観行院様に「お前は何をして居たいか」と問われた時に、「芋を食って本を読んで居ればそれで沢山だ」と答えたそうですが、芋ぐらいが好物であったと見えます、ハハハハ。なお学校友達の中に清川というのがいました。これは少し私より年長で、家は蒔絵職でした。仲の好い友達でしたから時々遊びに行きましたが、これが読本を家で読んで来ては、学校の休息時間に細川や私などに九紋龍史進や豹子頭林冲などという話をして聞かせたのでした。
 前に申したように御維新の後は財産を亡くしたという訳では無かったですが、家は非常に質素な生活をしていて、どうかすると大工の木っ端拾いでもやらされようという勢いでしたから、学校へ遣ってもらうのさえ漸々(ようよう)出来たような始末で、石筆でも墨でも小さくなったからといって濫りに棄てた覚えは無い。指に持ちにくくなった鉛筆などは必ず少し太い筆の軸に挟んで使っていて、しかもこれを当然のことと信じていました。種善院様(祖父)も非常に厳格な方で、しかも非常に潔癖な方で、一生膝を崩さなかったというような行儀正しい方であったそうですが、観行院様もまたその通りの方であったので、家の様子が変わって人が少なくなっているのにも関わらず、種善院様の時代のように万事遣って行こうというので、私は毎朝定められた日課として小学校へ行く前に神様や仏様へお茶湯を上げたりご飯を供えたりする、晩は灯明を上げたのです。それがまた一ト通りのことなら良いが、中々どうして少なくなかったので、先ずここで数えて見れば、腰高が大神宮様へ二ツ、お仏器が荒神様へ一ツ、鬼子母神様と摩利支天様とへ各一ツづつ、御先祖様へ五ツ、家廟(ほとけさま)へは日によって違うが、それだけは毎日欠かさず御茶を供えて、それから御膳を上げるので、まだこの上に先祖代々の忌日命日には仏前へ御糧供というものを上げなければならない。これは例えば味噌汁にナスかタケノコの煮たものを上げるのだから頗る手間がかかるので、これも過去帳を手繰って見れば大抵無い日は無い位のもの。また亥の日には摩利支天には上げる数を増す。朔日・十五日・二十八日には妙見様へもという具合で、法華勧請の神々へ上げる。その外、やれ愛染様だの、それ七面様だのと云うのがあって、月に三度位は必ず上げる。まだまだこの外に、今上皇帝と歴代の天子様の御名前が書いてある軸があって、それにも御初穂を供える。大祭日だと云うので数を増す。二十四日には清正公様へも供えるのです。御祖母様は一ツでもこれをお忘れなさるということはなかったので、その他にも大黒様だの何だのがあるので、どんな日でも私が遣らなくてはならない務めは随分なものであった。勿論厳格に仕付けられたのだから別に苦労には思わなかったが、とにかく余程早く起き出して手早く遣らなくては、学校へ行くのに間に合わないのみならず、この事がスッカリ済んで仕舞わないうちは誰も朝飯を食べることが出来ないのでした。このように神仏を崇敬するのは維新前の世間の習慣で、ひとり私の家だけのことではなかったのだが、私の家は御祖母様の保守主義のために御祖父様時代の通りに厳然と遣っていた。その務めに私が当たらされたのでした。つまり祖父や祖母が下女下男を多く使っていた時の習慣が遺っていたので、仏壇神棚なども、それでしたから家不相応に立派でした。しかし観行院様はまた洒落たところのあった方で、その当時私に太閤秀吉が幼少の頃に、神仏を愚弄した話などをしてお聞かせになった事もありました。しかし後年、私が二十一才の時に北海道の余市から帰って見たら、足掛け三年ばかりの不在中に一家全員が耶蘇教(キリスト教)になったものですから、永年堅く仕付けられた習慣も廃されて仕舞って、毎朝の務めも私限りで終りました。こういう家庭のありさまでしたから、近頃私の家族の中に学校へ行くのに眼が覚めないなどという者があるのを聞くと、思わず知らず可笑しく思う位です。
 学校へ行くほど面白いことは無いと思っていたため、小学校へ通っている間は一日も欠席したことは無かったです。家の方が学校よりすべて厳格で、山本町に居る間は土蔵位は在りましたが下女などは置いて無かったのに、家中揃いも揃って奇麗好きであったから晩方になると自分の日課の他に拭き掃除を毎日毎日させられました。これに就いて可笑しい話は、柄が三尺(九十センチ)もある大きい薪割が今も家に在りますが、或る日それを密かに持ち出しコソコソ悪戯をして遊んで居たところ、重さは重いし力は無し、誤ってどうしたはずみか膝頭を斬りました。堪らなく痛かったが両親に云えば叱られるから、人前ではビッコも曳かずに我慢して痛さを耐えてひた隠しに隠して居ましたが、雑巾掛けの時になって前へ屈んで膝をつくのが痛くて痛くてホトホト閉口しました。しかしついにその為に叱られるには至りませんでしたが、今でもその疵痕が膝に名残を止めてあります。こういうように朝も晩もいろいろな事をさせられたのは、その頃下女も子守りも居なかったのに、御父様は昼は家に居られないし、御母様は私の下に妹やら弟やらを抱えて居られたので仕方ない事でした。しかしこういうように慣らされたため今でも弟などのように気不精ではありません、至ってまめな方です。
観行院様は非常に厳格で、非常に規則立った、非常に潔癖な、義務は必ず果たすというような方でしたから、種善院様その他の墓参などは少しも怠りなさる事無く、また仏法を御信心でしたから、開帳などのある時は御出掛けになり、柴又の帝釈あたりなどにも時々御出でになる。その時に自分は連れて往って頂く、これはマア時々の一ツの楽しみでもあったのです。その他に慰みとか楽しみとかいってオモチャを買ってもらうようなことは余り無かったが、しかし独楽(コマ)と凧だけは大好きで、それだけに上手でした。しかし独楽は下劣な子供等と独楽当てをするのは宜しくないというので、余り遊ぶことが出来なかったです。凧は他の子供が二枚も三枚も破り棄てて仕舞う間に、自分は一枚の凧を満足に挙げて遊んで居る位でした。これは凧を破るような下手なことを仕無いのと、一ツは破れた凧でも繕うことが上手であったからで、今でも私の手にかければどんな凧でも非常に良い凧にして見せます。ハハハ、糸目の付け加減を両かしぎというのにして、右へでも左へでもどちらでの遣りたいと思う方へ凧が傾くようにした上で、近くに凧が揚がっていると其奴に引っ絡めて分捕って仕舞うので、そう甘くいくことばかるでは無かったが、実に愉快で堪らないほどの事に思っていたのです。
家庭は世の常を超えて厳重でありましたが、確かにこれは私の益になったに相違ないのです。別に家庭教育などという論は無い頃のことでしたが、先ず毎日毎日復習を終えなければ遊べないということと、朝は神仏先祖に対して為るだけの事を必ず為る。また朝夕は学校の事が無ければ掃除雑巾掛けを為るということと、物を粗末にしてはならないと責め立てられたのは、私の幸福になって居るに相違無いと思います。また観行院様に至っては注意深い方で、例えば星は常に位置の定まらないものであるのに、一寸外へ出て空を仰いで星を御覧になると、アアあの星があの辺に在るからもう何時であるなどと、ちゃんと時を知って居られた。そういう調子であったから子供心にも時々驚いて敬服した。また植物にしてもそうである。庭の雑草などの名や効能を教えて下さった事が幾度もある。私の注意力は確かにそのために養われて居るかと思います。
 小学校を終えた後は一年ほど中学校を修めましたが、それも廃めて英学を修める傍ら、菊池松軒という先生に就いて漢学を修めました。しかしもうそれからの話は今は御免を蒙りたいです。
(明治三十三年十月)

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