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きっかけがないと思う人に

noteには書く人が集まっていて、書く人が書いた文章はとてもおもしろいし参考になる。
学びがあるという内容もそうなのですが、私はどちらかというと書く人の為人が感じられる文章が好きです。

私もいつかはそのような文章が書けるようになりたいなと思いながらも苦闘をしているのですが、ふと疑問に思ったのが、書く人はいつから書く人になったのだろう?ということ。
書く人という表現が合っているのか合っていないのかもわからない。
もしかしたら書く人という前に書ける人というのが存在したのだろうか。書く人の前に書ける人がいたとしたら、天才なのではないだろうか。
だとしたら、この仮説は正しくない。
天才ではない多くの凡人たちは書ける人の前に書く人であったのだろう。

書く人だけに特化せずに達人も達人の前に凡人だったのだろうか。
凡人はいつから達人になるのだろう。
その前に達人か凡人かと見抜くことができるのだろうか。
それさえも自信がない。

達人は達人の性質故に多く存在することはないだろう。
ということは私たちは凡人を達人と呼んでいることになる。
凡人の中でも達人っぽく見せることができたら達人と呼ばれる日も近いのかもしれない。

そんなことに何の意味もないのだけれど、何となく私たちは何者かになりたいと願っている。

私も今では着物を着て、整体操法をして、四柱推命や風水をして、コンサルテーションして、いろいろとしていますが達人には程遠い。

しかし、人は何かのきっかけで変わっていく。凡人のままでも達人になりたいと願う瞬間がある。

私は達人にもなりたいし書ける人にもなりたい。

そのようなきっかけになったお話になればと思います。



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