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改めて、ミルクボーイの漫才について真剣に考えてみた

今年もM-1が開催される。それだけで生きる理由が見つかりました。

M-1グランプリの醍醐味といえば「無名のコンビが一夜の間にスターになる」というドラマ展開です。この大会に求めるものはシンデレラストーリーであり、そこに「ロッキー」の泥臭さが混じればなおのこと良いのです。

2019年のM-1グランプリは私にとって史上最高の大会でした。この大会は「漫才はこうでなければならない。」という固定概念を根底から覆し、ボケの手数と声量で圧倒する、いわば「M-1で勝てる漫才」という競技じみた幻想をも打ち砕いきました。

そして何より、「681点」という史上最高得点が新たに打ち出された。この大会は始まりです。この大会を境に、漫才は新たな境地へと到達するのでしょう。

「漫才の高速化」の天井


ミルクボーイのネタについて審査員がどのようなコメントを残したのか見てみましょう。

松本:「いったりきたり漫才とでもいうのかな。揺すぶられたなぁ~。これぞ漫才っていうのを久しぶりに見せてもらいましたね。」
上沼:「今日一番笑いましたわ。ネタのセンスが抜群。この角度のネタのセンスを持ってくとは、すごくあかぬけてる。」
はなわ:「誰がやっても面白いネタ+この人達だから一番面白いというのがベスト。こういうネタも考えたことあるが出来なかった。人の力と言葉の力とセンスが凝縮されていた。100点に近い99点。」
富澤:「おじさんがコーンフレークだコーンフレークじゃない。それだけでもうおもしろい。何も考えずに笑える。よかった。」

審査員長である松本人志氏が言った「これぞ漫才っていうのを久しぶりに見せてもらった。」というコメントに、この漫才の真髄が詰め込まれているような気がします。

この漫才が何より面白くて興奮させられた要因は、人と人の面白い会話を聞いているような、漫才本来の姿が、その心地よさがネタ全体に溢れていたからです。

M-1グランプリ初代王者である中川家の礼二曰く、漫才は「喫茶店での会話の延長」が理想だそうです。

どこまでも等身大の自分たちという体を、あくまで「日常会話」のバランスを崩さずに話を続ける。それが王道と言われる「しゃべくり漫才」の型なのです。

そして、議題バカバカしければバカバカしいほど、それについて真剣な議論を交わす二人は面白くなるのです。

サンドウィッチマン富澤氏のコメントにもありますが、大の大人が「コーンフレーク」についてああでもないこうでもないと言い合う姿はそれだけでも十分な威力がありました。

しゃべくり漫才はM-1におけるストロングスタイルであり、それを迅速に行うことが出来るコンビは実力派とされました。M-1の歴史は漫才の高速化の歴史でもあったのです。

2008年、決勝進出したナイツは「宮崎駿」というネタをやり、松本人志に「4分間に何個笑いを入れとんねん。」というコメントをもらっていました。

それに対しナイツ塙氏は「37個ぐらいだと思います。」と答えました。

単純計算すると、6,5秒に一回はボケを入れる計算となります。M-1は4分間にどれだけの笑いを数詰められるかの勝負だったのです。

しかし、近年、そのスピード勝負も頭打ちになっていたような気がします。今年の大会が終わったあと、名物審査員であります上沼恵美子氏は次のようにコメントをしました。

「ものすごく例えが失礼なんですけど、昨年までは鶏の決闘みたいな、そんな漫才がほとんどでしたね。早口で奇声あげてみたいなのばっかりだったので、耳痛かったし飽きてきた。ところが、今回はちゃんとした寄席を見に行っている気持ちになった。」

スピードの中では多少のズレや滑りは誤魔化せます。そういった理由かは定かではありませんが、若さと勢いを売りにまくしたてるような漫才コンビが決勝に多く残るようになりました。

そういったマシンガントークの漫才が流行する中、ミルクボーイは一発一発のワードを確実に脳裏に打ち込んでくる漫才をやりました。名付けるなら「スナイパー」漫才といっていいでしょう(これは流行らない)。

心を打ち抜くコーンフレークの弾丸

ナイツ塙氏曰く、M-1は100メートル走だそうです。では、史上最高時速を叩き出したミルクボーイの走りを見てみましょう。

まずはスタート。 「オカンが好きな朝ごはんの名前を忘れた。」という駒場氏のために、内海氏が一緒に考えることになります。駒場氏からその特徴を聞き出すという流れで漫才が始まります。

駒場氏が「甘くてカリカリして牛乳とかかけるやつ」と特徴を伝えると、内海氏が「コーンフレークや」と答えます。これは日本国民の共有感覚であり、聞くものは皆「おそらくそれだ」と納得が出来る事象です。漫才の設定を観客に理解させる為に必要な、静かな立ち上がりです。

続いて内海氏の答えを聞いた駒場氏が「オカンが言うには、死ぬ前の最後のご飯はそれで良い」と言っていたという情報を伝えると、「ほな、コーンフレークとちがうかぁ。人生の最後がコーンフレークでええわけないもんね。」と否定します。そこで漫才のシステムを観客に完全に理解させます。

続いて「コーンフレークはね、まだ寿命に余裕があるから食べてられんのよ」とギアを少しづつ上げていくことによって、観客は右へ左へと流れるような二人の会話に引き込まれていきます。

みんなが認識している。けれども詳しくは知らない。幼い頃抱いた「コーンフレーク」への憧れや違和感、そして偏見。二人の優しい悪意によってどんどんそれらが分析され白日の下に晒されいきます。それを見る時、人々の心には「共感」を超えた新たな笑いの境地が広がっているのです。

そしてフィニッシュ。「コーンフレークではない」と駒場氏が完全に否定するというところでトップスピードになります。

少し間違えれば「じゃあ今までは何だったんだ」と大転倒しそうなところだが、その後の「申し訳ないな」というのがとても良いバランスで姿勢を保っています。二人の関係性を示す会話のリアリティがここに示され、観客はどこまでも「リアル」を保ったまま、二人の会話を聞き終えられます。

お互いにマッチョ、角刈りで小太りなど外見の特徴もありながら、ネタ中は全く触れません。ネタ、話術、二人の個性が存分に発揮された至上の「喫茶店での会話」でした。

結果、二人の漫才は史上最高得点「681点」を記録しました。文句なしの一等賞です。

最終決戦では、すでに観客はこのシステムを理解しているため、先程より短時間でオカンが分からないものを一緒に考えてあげる時間に入りました。この漫才のシステムは、仕組みを知られていたとしてもそこまで不利になるものではありません。逆に、システムを理解したからこそ、次はどんな言葉が飛び出すのだろう。と期待します。

どのような否定・肯定が繰り返されるのかと、その待ち時間すら楽しみになってしまっているのです。

一本目よりも二人のラリーが多く、かつ、最中の複雑な家系図、人間(?)関係など想像を発展させた子供の「ごっこ遊び」のような笑いも織り込まれています。

一本目をミルクボーイの基礎とするなら2本目は発展型といえるでしょう。

また、一本目は、コーンフレークに対する悪意と偏見に満ちたドキュメンタリーなものに対して、二本目はおかしの家や、家系図というSF・ファンタジーじみたワードが飛び交っていたのも面白い変化でした。

おそらく人生で一番「最中」という単語を聞き続け、挙句の果てに「こうやって喋ってたら食べたなってくる」「ほな最中とちゃうやないか。だーれも今、最中の口なってない」という言葉で稲妻を落とされた気分になったのは私だけではないでしょう。

い白かった。この一言に尽きる大会でした。音楽や文化が国境人種を超え混ざり合っていくのと同様に、漫才も日々進化し、人間の生活に合わせて形を変えていっています。

「これが漫才。」「アレは漫才ではない。」などという考えはもはやないと言っていいでしょう。漫才の多様性が見えた大会でした。

さて、今年はどんなコンビが新たな走りを見せてくれるのでしょうか。今から楽しみで仕方がありません。

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