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~『捉え方』で『事実』は変わるのに~

この文章を書くきっかけになったのも、 Twitterから始まっている。
Twitter上には当然ながら、様々なツイートがある。

自分の目的としては

・現在の病気の情報交換
・病気の情報収集
・死と向き合う人、助けを求めている人の心情理解

という様な目的がある。

なので、当然そういったツイートがだんだんとレコメンドされて集まってくる。

『病気についてひたすら悲しんでいる人』もいれば、『前向きに立ち向かおうとしている人』、『事実をひたすらと羅列している人』とその様子は様々である。

…そして、人は必ず死ぬ。

別段、私はそこに『正しさ』も『間違い』も『意見』も持ち合わせてはいない…と思っている。

一方で、そのツイートに対する反応は実に様々である。

俯瞰的に見てきて感じたことを自分なりに抽象的にまとめてみたものが、今回のNoteである。

※結果的に、自分の心情と比較しながらの記載になるのではあるが…

※過去のNoteをご覧になって頂いてからの読まれた方が、しっくりくるかと思いますのでリンクを貼っておきます。

▼ 余命1年をどう捉えるか?

表題は、私が余命1年というわけではない。
※ただし、実際1年後に存命かどうかは分からない。

ただ、実際にこの余命1年という数字の捉え方は、人によって様々かと思われる。

「1年しか、生きられないなんて辛い」

…と考えるのが、抽象化するとおおよその人たちの考え方ではないかという様に思う。

一方で視点を変えて、「余命半年」と既に宣告された人の考えからすると

「あと、1年も生きられる!」

という様に、明るい材料にもなり得る。

1年という時間は誰にとっても平等であり、この平等が結果的に残酷さを生む。繰り返すが、平等とは残酷である。

3歳でも、 15歳でも、36歳でも、70歳でも…

1年という時間は平等である。

余命1年というのは、「そこまで生きてきた」という人生があるかどうかという事実で捉え方が変わる。

年齢が若い人ほど、余命宣告は他者に「可哀そう」という気持ちにさせる力が強い様に感じる。

誰しもが「生きたい」という事実や感情は一緒なのかもしれないが、そこまでの人生をそう長くは歩んできていない(自分の子供がいる方であれば、想像しやすいのではないか?)のであれば「その人生を歩ませたい、歩んで欲しい」という気持ちになるのは、極々自然なことなのかもしれない。

病気で余命を宣告された子供の命を、自分と引き換えにしたいと切に願う親御さんの気持ちは恐らくこういうことではないかと思う。

それは実際に子を持つ私も、一緒である。

一方で、常々考えるのは「そこまでして自分はどうして生きたいのか?何をしたいのか?」ということでもある。

…この結論の、根は深い。

▼ 元気になった人の投稿

少し視点を変えて話をしたい。

個人的に感じたtwitterの特徴として、闘病中から元気になった人は投稿の頻度が減る。

・「○○を食べた」
・「~~に行った」
・「◆◆ができた」

…といった明るいツイートも当然増える。

「楽しそうで良かった」という純粋な感情で見ることも出来るが、一方でこれらを誰しもが素直に喜べない感情の時も、正直言ってあるのかもしれないと思ってTwitterを眺めている。

自分が治るか分からない、もしくは副作用等で苦しんでいる時にそういった感情は特に起こりやすい様に感じる。

さらに考察を進めると「その結果に至るまでのプロセスや道徳について、事前にしっかりと共感をしていることが出来ていたのならば、素直に喜べるのかもしれないな」という感情も起きてくる。

一言で言うと、ただの『結果』としか捉えていないと、喜べないのかもしれないということである。

これは『切り取り方で、事実の認識が簡単に変わる人間心理』によく似ていると感じている。

身近な例を挙げると…桃太郎はどうだろうか?

桃太郎のストーリーはなんとなく皆さんご存知かと思うが「鬼が可哀そう」と感じている人は今の時点では少数派ではないかと思う。

基本的に桃太郎目線で物語は進んでいくが、これが仮に鬼目線で進んだとしたらどうだろう?

※全てただの創造の話であるが…。

最後に桃太郎が鬼ヶ島から回収してきた財宝の中に、鬼たちの子供が一生懸命作った親へのプレゼントが入っていた。

・プレゼントを作成している過程や、それをもらってとても喜んでいる親の姿が描写されていたとしたらどうだろう?

実は鬼たちが平和に暮らしている中に桃太郎が財宝目当てにやって来て、無慈悲に鬼を傷つけていたら、どう思うだろう?

そしてそこに子供の鬼が親に渡していたプレゼントが、桃太郎たちにとって「価値のないもの」として踏みにじられていたとしたら、一体どのように感じるだろう?

単なる仮説であり、極端な例かもしれないのは重々承知である。

ただ、こういった事実の描写やプロセスの認識があるのかないのかで人の捉え方は確実に変わってくる。

「どこ」を見るかでその人が『善人』にも『悪人』にも見えるというのは、裏を返すと『人間の感情がとても移ろいやすい』ということが言えるのだと思う。

『正義』は簡単に『悪』に変わるし、その逆もまた然り…である。

▼ 移植が上手くいかなかったとしたら?

先ほどの視点は、どんな時にでも顔を出す。

「移植や治療が上手くいかなかった」という人の投稿も、残念ながら目にすることがある。

真っ先にやはり思うのは「可哀そうだな」というネガティブな感情、そして「次は上手くいくといい」という応援の気持ちである。

一方で移植を控えている自分としては「自分も失敗するのかもしれない…」という風に勝手に落ち込んでいくことをどうしてもある。

治療が上手くいかなかった人の結果と自分の未来は、正直なところ関係は一切ない。

病名も治療経過も、その背景も当然異なるからだ。

その人が上手くいこうがいくまいがは関係ないのに、なぜか自分と勝手に結びつけて落ち込んだりしてしまう。

多少良い言い方をすると「私にもまだ人間の感情がある程度は残っているんだ」という不思議な安心感もあるのではあるが。

この話を書くと「じゃあどうして治った人のことを自分に重ねて、前向きにポジティブに考えられないの?」みたいな話も出てくる。

正論だと思う。

これをなぜ自分は「正しい」といって受け入れられないのか?と考えてしまうと、もともと私がネガティブ思考の気質であるためとしか回答ができない。

まさに『捉え方』で『事実』は変わるのに、自分は世の中をポジティブに見ることが36年経って『苦手』であると改めて感じさせてくれる。

▼ 病状の悪化

正直一番よく見るツイートかもしれない。

結論としては「そのツイートに何を書いたらいいか分からず、何も書けない…」というのが事実である。

同じ様な境遇にある病人であってもそのように思うのだから、ある程度の道徳心を持った普通の人が何もコメントを残すことが出来ないというのは、極めて正しいリアクションであるという様に感じる。

同じ病人であれば「自分も〇〇だから」という様に、自分ベースで励ますことは手段としてはあるのかもしれない。

ただこれは同じ境遇だから出来る訳であって、普通の人には出来ることではない。

結局の所、この辺について色々考えた結果は『自分が本当に伝えたいと思ったことを、何を書いてもいいのかもしれないな』と今は考えている。

残念ながら、自分はその人の病気を治すことは出来ない。

その観点から考えると、良いことを書こうが傷つけることを書こうが結果的にはその人に影響がないことになってしまう。

…全くもって信じたくないのではあるが。

これも『事実』という観点から見ると、間違いとは言い切れない。

▼ 人間らしさがみえてくる

ここまでご覧になっていかがだろうか?

私は別に病院の代表者でもなければ、求道者でもない。

ただただ世の中を俯瞰的に見て、自分の想いを整理して言葉を紡いでいるだけである。

Twitterを見ながらそんな自分が結論めいて感じたのが、病人の心理としては『感情を求めずに、ただ純粋に認識や理解をして欲しい』という想いが強いのではないか?ということである。

理解して欲しいという「感情」と捉えられなくはないが、どちらかというとプラスやマイナスの感情的な面ではなく『フラットな理解』という様に捉えてもらった方が、今回は良いのではないかと思っている。

不思議なことに世の中やツイートを見ていると、それを「同情心を煽っている」「同意を求めている」という風に捉えられ、批判やネガティブツイートが度々起きているように感じる。

…もちろん「書いている人の本心はわからないが」という前置きはさせて頂ことにどうしてもなってしまうのであるが。

少し想像の域に入ってしまうのが申し訳ないのであるが、病人は病気という弱さを武器にして「何かを起こしたい」という様に考えている人の方が圧倒的少数派ではないかと私は感じている。

「少数派」と表現しているのは、その弱さを何かに活かそうと考えている人もいると感じているからでもあるため、このような表現になっている。

無論、そこは個人の自由なので「否定」も「肯定」もするつもりはない。

ただ事実として、世の中には少数派の人間が『権利』を主張すると批判されるという傾向にあると私は感じている。

※様々な問題を含んでいるので、あくまでも一意見としての記載になる。

例えば病気に関して言えば、世の中には治療が本当に必要な人の数は健常者と比べると少数派となる。

なので多数派から見ると、その『存在』は認めるが『優遇』は出来ないというような傾向にある様に感じる。

「優遇は出来ない」と書くと冷たい書き方なのかもしれないが、これは資本主義や多数決から見ると、極めて合理的な考え方である。

世の中は多数派によって動かされているので『共感』や『多数決』という刃で、少数派は簡単に殺される。

私の罹患している悪性リンパ腫を例に挙げると、患者数の多い症例から新薬等の開発が当然進んでいく。

多くの人が苦しむ病気であるからこそ先に手が打たれるわけであって、私の様な少数派の症例の新薬開発等は、どうしても優先度が下がる。

このような状況はについても嘆いても「世の中の仕組み上、仕方がない」と私は考えている。

『少数派』の主張としては、このような事実に気づいてくると『平等』を求めるようになる。

見方を変えると「多数派に近づくように権利を主張している」という解釈も出来ないことはない。

これが多数派からすると「少数派のわがまま」「無理強い」の様に映るのであろう。

これが仮に無制限に通っていく世の中であれば、自分たちの『優位性』が相対的になくなっていく。

病気の実例で書いたが、現実的には似たようなことがどこでも起きている。

・ 選挙
・ 天下り
・ 同性婚
・ 男女平等

…この辺りは、言わずもがなではないだろうか?

もうこれ以上は触れないが。

話が進んでいかない背景には、少数派の『存在』を認める世の中にはなってきたが、その『権利』や『主張』までは認めていない。…いや、正しくは自分たちの相対的な『優位性』を保つために認められない。

そういう世の中を、合理的に我々は選択していると解釈している。

物事を俯瞰的に見て抽象化していくと、本当に人間の色々な部分が見えてくる。

病人だから見えている部分もあるのかもしれないが、それをもって病気になって良かったとは私は考えてはいない。

ただ、やはり人の生き方として『自分』という存在を保つために、人は誰かの不幸を比べて自分の幸せを認識している生き物なんだと改めて感じる。

それが『他者』だけでなく、『ある時代』であったり、『別の国』であったり、『健康な時の自分』であったり、『過去の一時点の自分』であったり、もしかすると『未来の自分』であるのかもしれない。

そうやって誰かと比較して自分の存在を認識しないと、自分という存在の証明が出来ないのかもしれない。

今回Noteを書くにあたって様々な視点で物事を見てみたが、最終的にはその様に感じた次第である。

▼さいごに

序盤で書いた『生』と『死』については結論は出ていない。

というよりかは、結論が出たとしてもその結論はとても移ろいやすいものであると感じている。

どこかで『死について失うもの』と書かれた資料かツイートを読んで今も考えさせられている一文がある。

『親』を失うと、『過去』を失う。
『自分』を失うと、『現在』を失う。
『子供』を失うと、『未来』を失う。

そういったニュアンスの文章であったと思う。

これには非常に考えさせられるものがあるのだが、言ってみればこれから先の言葉との出会いによって私の考えも変わっていきそうであるとも言える。

今の時点で自分自身の『生』と『死』について、どのような考えであるのかは、次回Noteの雑談に書いていきたいと思う。

…今回の分量程度で済めばいいと思ってもいるが、きっとそんなわけいかないだろうとも思う。

本日も、最後までありがとうございました。

ろくさん

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