見出し画像

~『生きる』と『善く生きる』~

※この記事は約4,600字 約5~6分で読めます。

『生きる』と『善く生きる』。

前提として、生きるということは『命が繋がる』ということ、『善く生きる』ということは『願いが叶う』ということと、今回のNoteではそのように定義づけて書いていきたいと思います。

基本的な考えとしては『生きる』という前提(土台)の上に『善く生きる』があります。

これは罹患者だけでなく、普通の人(このNote内では『非罹患者』として解釈して下さい)にとっても至極当然であり『ただ生きるのではなくて、善く生きたい』というのは、人間の健全な状態であると考えています。

・お金が欲しい
・異性に好かれたい
・承認されたい

といった欲求は、至って人間の自然な状態です。

その中で今強く感じているのは、罹患者の『善く生きる』という願望や感情がやや軽視される傾向にあり、『生きる』という事が圧倒的に他者(医療関係者・家族・友人等)から重視されているということです。

『生きる』>>『善く生きる』という不等式

『病人である』ということがその要因ではありますが、これはもう少し強い言葉を使うと『少数派の人間』に重く課せられているように感じます。

※私のNoteでは基本的に『正しさ』とは個人の一意見と捉えています。本件は『正しさ』ではなく、あくまで一罹患者の意見としてご拝読願います。

※前回の雑談Noteはこちらから…

~今回のまとめ~

▼ 血液系がん患者の現状

もう少し詳細について、書いていこうと思います。

一般的な血液系のがん患者における、抗がん剤等の治療による悩みをいくつか羅列してみます。

・ 髪の毛が失われる
・ 妊孕性が下がる
・ お金や生活の不安
・ 仕事の退職

『善く生きたい』願望の抽象化の一部

こういったところが、一般論として挙げられます。

当然、これらは個人の状況(年齢や性別、家庭環境等)によって変化するものではありますが、抗がん剤使用者が1度は通る道ではないかと思います。

出来るものなら、この辺りを寛解したとして回復(改善)、原状復帰していきたいと思うでしょう。

ですので、この辺りについて悩むことは人間として普通なのかもしれない…と私は考えています。

対比として活用するために、ここで少し個人的な話を入れさせて頂きますと、私がもし同種移植後に完全に寛解をして『善く生きる』と望むとしたら、以下様な事が挙げられます。

※かなり極端に高い希望を選定してみました。

・ 肌に色素沈着が残らない
・ 失われた体力や筋力が戻る
・ 生もの(卵や刺身等が食べられる)
・ 趣味としていた水泳が出来る

ごくごく個人的な『善く生きる』願望の高い位置にあるもの

このように個人的な『善く生きる』ということを目指している人は、恐らく圧倒的に多いだろうと思っています。

内容云々ではなく、個人として大事にしていること…です。

傍から見れば「そんなこと…」と映るかもしれませんが、その人その人にとってはとても大事なことなわけです。

それが『善く生きる』ということの根底にはあるはずです。私の文章で度々出てくる『正しさ』というものは、本来そこには存在しません。

▼ 妊孕性について考える

『善く生きる』の一部に『妊孕性(子供を作る能力とあえてここでは簡単に解釈下さい)』の考え方があります。

あえて章を分けて触れさせて頂くのですが、それは日本という国の妊孕性に対する許容の現状と、それを求めている方たちとのギャップがとても、とても大きい…からになります。

冷静に考えてみると、今この国は少子化対策として様々な政策が行われています。新しい政策も増えそうです。ただ、それが『正しい』のかどうかは今回触れません。

そして妊孕性を行使しない(子供を作らないと判断)方を否定もしません。

今回は、あくまで病気に罹患した人たちの妊孕性は一体どうなっているのか?どれほど手厚く保護されているのか?…について現実的な部分が少しでもご理解頂ければと考えています。

結論めいたところから申し上げますと、現実的には理想や希望とは程遠い状況の様でした。

この辺の事実については、私なんかよりも妊孕性保存に向けて熱心に動かれた方(そしてNoteを拝読して、妊孕性について改めて考えさせられた方)のNoteの引用を許可頂いているので、どうかこちらをご覧になって頂きたいです。

世の中の妊孕性の捉え方は、残念ながら現実的にはあまり進んでいない様に私は捉えています。

様々な方の妊孕性についての考えや悩みをTwitter上でも目にしますが、世間は『善く生きる』という考え方に基づいておらず、罹患者は『生きる』ということに重きを置かれた治療を余儀なくされている…と感じることが多いです。

これは「卵が先か、鶏が先か」という議論に似ていて、『まず命があってこその妊孕性だろう』という考え方が一般論なのだと思います。

無論、それを否定することもなかなか難しいのですが、その選択肢(妊孕性の保存の是非について)が与えられず、『生きる』ということのみに力を注がれるように仕向けられてしまい、後々後悔の念に駆られている人たち…が大勢いるということも忘れてはいけないのではないかと思うわけです。

繰り返しになりますが、『妊孕性だけ残っても本人が生きていなければ仕方ない』と言う正論は正しいです。

…間違いなく正しい。

ですが、ただ『生きる』だけで『善く生きる』ということを否定した上で、その人が生きて行くということは、果たしてそんなにも正しくて尊いのであろうか?という疑念は常に残ってしまっています。

あくまで選択の中(もちろんやむを得ない選択もあるだろうけども)で、妊孕性の是非が選ばれたというのであれば、多少は理解できる部分もあるのかもしれません。

しかし『生きる』ということだけを無理やりの様に他者に選択させられて、後で苦しむような人が今後増えて欲しくないと個人的には感じています。

健常者が自身を高めたり、改善して努力すること(美容に投資したり、給与アップに向けて資格勉強をしたり)も「善く生きる」ことに変わりないはずですよね?

なぜ罹患者は『生きる』>>『善く生きる』の不等式をここまで『正しさ』として受け止めさせられてしまうのでしょうか?

▼ 『生きたい』から見る『善く生きる』

視点や目線を変えると、事実の見え方が結構変わってくることは事実です。

正しく見るかどうかが問題ではなく

・ 誰が
・ どこから
・ どうやって
・ いつ
・ 何を

といった目線で見るかによって、事実というものは大きく変わります。

一例として、前述した私の現状を踏まえてお話をさせて頂くとより分かりやすいかもしれません。

もし私が『善く生きる』の部分ではなく、『生きる』に重きを置いているとすれば、先ほどの『善く生きる』に出てきた選択肢は、全て非常に贅沢に見えてしまいます。

これが視点や目線を変える…ということです。
※あくまで視点を変えただけで、下記を否定するつもりはありません。

・ 髪の毛が失われる
・ 妊孕性が下がる
・ お金や生活の不安
・ 仕事の退職

前述の『善く生きたい』願望の抽象化の一部

例えば「髪の毛」については私が男性であるということもあり、別に命と引き換えにどうしても必要か…?という見方ができます。

妊孕性についてもすでに子供が一人いて、自分の36歳という年齢を考えれば、仮に失ったとしてもダメージは少ない…のかもしれません。

お金にや生活についても「ギリギリなんとかなるかな…?」かという楽観的な考えと少ないながら貯金(保険)がありますし、仕事についても本当に理解のある会社に所属させてもらっている現状があります。

繰り返しになりますが『善く生きたい』と願っている状況は、当然『生きたい』という前提にありますので、その『生きる』というところに強く重きを置いている人たちからすると、「何を贅沢言っているんだ」と見えることもやはりあるのかもしれないわけです。

・ 肌に色素沈着が残らない
・ 失われた体力や筋力が戻る
・ 生もの(卵や刺身等が食べられる)
・ 趣味としていた水泳が出来る

ごくごく個人的な『善く生きる』願望の高い位置にあるもの

先ほどの私のごくごく個人的な『善く生きる』の部分も「不要だ」「贅沢だ」と思う人は当然、多くいると思います。

実際のところ、叶わなくても生きれるなら構わないという選択肢として選定した…気持ちも多少あるので、やはり私自身は『善く生きたい』よりも『生きたい』と願っている側…なのかもしれません。

※客観的に仕上げていくつもりで書いていた今回のNoteに、主観を織り交ぜるとしたらこの様なカタチになります。

ただ、それは自分の現状がとても恵まれていると感謝出来る状況と、そういう感情にあるからだけなのかもしれないとも考えています。

ある人によってはすごく大事で、ある人によっては本当にどうでもいいことがきっとあります。このバランスが人によって本当に様々なので、そこにある程度の折合や着地点を見つけるということは、とても難しく感じます。

先般の一時退院の時に、具合がとても悪いながら家族と食事を囲んで食べたご飯。本当に豪華でも何でもない普通の食卓です。

「もうそれだけで自分には充分ではないか?」と思った自分も実際に否定できません。世間から見れば、ただご飯を食べただけです。

一方で、それすら出来ずに「贅沢だ」と思う人、実際に出来ない人も大勢いるんだ…ということを、まさに今強く、強く噛み締めています。

▼ さいごに

~今回のまとめ~

本来、人は『善く生きたい』と願うのは自然なはずです。これは間違っているとは思えません。

先ほど出てきた「病人が自分の髪の毛の今後を気にする」「将来の子供を産むことについて考える」「仕事を失ってお金のことで悩む」ということは、繰り返しになりますがごくごく当たり前のことです。

『善く生きる』という上で、その人にはそれが必要なのですから。

この部分を万一否定するのであれば、「命だけが繋がっていればいいのか?」「心臓が動いて、呼吸だけしている。それだけでいいのだろうか…?」という問答が自分の中で始まっていきます。

そして、今は私はそうは思っていません。

一方で、Twitter等で眺めている人間の欲求(『善く生きる』の中身)については、病人である私個人の視点としてからみても本当に様々であると感じます。多くのことを望んでいる様に、感じる部分もあります。

その中で私が今あまり多くを望んでいないのは、自分が恵まれているのかもしれないという風に捉えています。

人は無いから望むのであり、もし充足しているのであれば、それに満足しているのであれば、人はそれ以上を望まなくても生きていけます。

ですので、この『生きる』と『善く生きる』について考えた時には、どちらかというと自分自身は『ただ生きたい』と願っている気持ちの方が、強い様に感じました。

一方で、「それでいいのだろうか」ともひたすら考えることになり、今回の結論もどこかもどかしい気持ちが続いているのが事実です。

・ なぜ『生きたい』のか?
・ そもそも『生きる』とは何か?
・ どうしたら満足して『死』ねるのか?

次回以降の課題

この辺りについてはまだまだ全く私の考えがまとまっていません。もう少し考えなければいけないかなという風に考えています。

それについては次回以降、もう少しクリアにさせて頂きたいと思います。

今回のNoteはどう思われたでしょうか?少しでも響く部分があれば嬉しく思います。

ろくさん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?