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「愚か」と悟れば賢者となるか?

今回もTwitterの推しの若い女性からお題である。

考えている(病気の不安以外を)時間に自分は生きがいを感じるし、答えがないからこそやはり面白い。

生きている実感は人それぞれであるが、自分はベッドで寝ているだけで「死」を待つことには、どうやら耐えられないタイプの人間だということをここ最近で改めて認識できる。

▼ お釈迦様とデカルトの思想を自分なりに

お釈迦様の言葉に、愚か者が「私は愚か者である」と知れば、それはすなわち『賢者』という考え方がある。

デカルトの「無知の知」もこれに近しいのではないかと思う。

この解釈をどのようにするかはもちろん個々人の自由であるが、私は「愚か者と知ること」や「自分が無知である」と知ることに関しては、そこが「ゴールではなくスタート地点」の様な感覚を持っている。

メッセージとしては「変われ、そしてスタートしろ」というメッセージではないかと考える。

人は自分が「十分である」と錯覚すると、もうそこから努力をすることを辞めてしまう。そこで満足をしてしまう。

「知らない」「出来ない」という状況を知るからこそ『努力』が出来るのであるが、そういった行為を多くの人間がしていないからこそお釈迦様やデカルトは、前述の様な言葉を示したのではないかと思っている。

知らないから、分からないからないからということを知ったから「偉い」「凄い」のではなく、そこから努力を始めるからこそ意味があるとのではないだろうか?

「無知」や「愚か」を認めただけや知っただけで終わらせてしまえば、残念ながらその人は賢者とは言えないように感じる。

あくまで「賢者になれる可能性」をスタートさせただけであり、大切なことはそこから『正しく』」努力をすること(継続・方向・修正)、いわば日々の活動がその人を賢者にさせる可能性があるという捉え方を私はしている。

言葉の捉え方の感覚

▼ 愚か者に救いはあるのか?

『自分が心の底から「愚かである」と認識をして救いはあるのか』という視点で考えると、多くの人が「自分が愚かだ」「自分は無知だ」という認識が出来ていないで目を背けている事実があることが、改めて感じられる。

今も昔も、むしろ「ちゃんと認識しなければ救いはないよ」というメッセージがあるからこそ、裏を返せば「それを普通の人が出来ていないよ」ということにも繋がっているわけである。

ちなみにここでの『救い』とは、「誰かに与えられるもの」という意味ではなく、おそらく「自分で自分自身に施す様なもの」ではないかと私は考えている。

「誰かが与えてくれるべきもの」と捉えてしまうと、結果的に今の自分は何も変わることはない。

「昨日より今日、今日より明日」という時間軸がある前提で、日々研鑽していく必要性を我々に説いているのではないだろうか?

この考えはどちらかというと「現時点」より「未来」に焦点を当てている考え方と言える。

今、愚かだと認識をした瞬間に何か救いがあるわけではなく、そこから努力をしていけば「自分が、自分自身を将来助けることが出来ますよ」という意味合いではないかと捉えている。

一方で、努力の背景には「必ずしも報われることがない」という残酷な一面も間違いなく存在する。

おそらく全ての人が努力をして報われるのであれば、この世の中の人は全て努力をするであろう。実際にそうならないのは「必ずしもその努力は報われる」という世の中ではないからに他ならない。

▼ 全てを諦めると楽なのか?

視点をさらに変えて『全てを諦めると楽』なのかどうかと考えてみる。これは「現状をあるがまま受け入れる」という視点に似ているように感じる。

時間軸を「今」と「未来」に2つ置くと、「今、何かを諦める」はとてもなことだと思う。

諦めることによって『期待』が消え、期待から生じる「怒り」や「悲しみ」といった感情から解放されることになるであろう。これを『楽』と捉えるのであれば、間違いなく『楽』になることはできると思う。

「楽」の定義も大変曖昧で、難しいモノではあるが…。

一方で「未来」という視点を置いて見てみると、楽を貫いた結果は先ほどの「今」という地点から何も変わっていない自分が存在することになる。これは表題に用いた「愚か」という状況から変わっていないという風にも捉えられる。

どちらが正しいのではなく、どちらを選択して受け入れるのかは個人の自由なのかもしれないが、考え方として「未来は今の積み重ね」と考えるのであれば「今を最適化」することによって「より良い自分」というものが出来上がっていくことになる。

一方で、未来に向けて「今」努力や苦労をしなければいけないという考え方からすると、「今」をある程度犠牲にすることが『善』と言える。

「今」を最適化するのか、それとも「今」をある程度犠牲にするのか未来に対する捉え方が2通りあり、どちらも相容れない根底がある一方で、相容れる部分もあるという非常に難しい捉え方になっている様に感じる。

未来に対する「今」の考え方

結局のところ、この事実に対して「どのような考え方で、どのような捉え方で見るのか」によって、受け取るメッセージは変わっていくのではないかと感じる。

対岸から相手を見れば間違っている様に感じるだろうし、対岸にいる仲間が正しい様に見えるのは、結局自分が見たい様にこの世の中を見ているからに過ぎないのであるが…。

▼ さいごに

何度も読み返して再び思う。

やはり浅い。浅すぎると。

今の自分の思考はやっぱりこんなものだし、アラフォーの頭の伸びしろなんてこんなものなのかもしれない。

最後の宿題はもう少し彼女の期待に添えるような出来になればいいと思うが、考える(生きがい)をくれて本当に感謝している。

最後も頑張ります(^^;)

個人ブログも更新しましたので、よろしければ。
今回は『組織・ビジネス』のカテゴリーです。

負担のない程度に週2~3回の更新を目指してこれからも日々頑張っていこうかと考えています。

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