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〜『今』は『過去』と『未来』を繋ぐだけなのか?〜

前回の記事から1週間後に、帯状疱疹含めて体調の報告に病院に行く。

投薬の甲斐もあり、比較的穏やかな体調のもと病院での診察を受ける。結果としては予想通り『悪くない結果』という判断がされ、毎週通っていた病院が2週間に一度に変更される。

より良い形に向かっている…風に見えなくもないが、実際の自分の身体を自分の判断で検証してみると、心配事も多少は残るものである。

…私の身体はどうなるのであろうか。


▼ 現状について簡単に

悪性リンパ腫の再発については、過去にも記載している通りである。

免疫抑制剤を中止し、弟の免疫が私のリンパ腫細胞を攻撃してくれることを期待して約1ヶ月が経過している。

肌の腫瘤については一進一退といったところであろうか。

新しい腫瘤が出来てきている様な、いない様な…という所で食いとどまっている様な状態である。

「このまま自分の天命が尽きるまでこの状態が続いてくれれば…」と思わなくもないが、それは私の勝手な期待であろう。

…どこかで重大な決断をしなければいけないような気がしてならない。

いやきっとそうだろう。

全体的な体調としては細かく書いていくとキリがないほど様々な副作用が出ている。

かゆみや湿疹はもちろんのこと、腹痛や倦怠感、味覚障害など本当に多岐に渡る。

ただ、それらが出ていることこそが悪性リンパ腫細胞と免疫細胞が戦っているという証にもなりえる…ということから、その治療を積極的にするという方針でもない。

いわば身体の中に小さな炎症というかボヤみたいなものがいくつも起きているが、だましだましをしながら本命の大火事が鎮火するのを待っているような感覚である。

ただ、ボヤであっても日々の身体にかかる負担というものは無いわけではない。

日々の投薬の憂鬱さはもちろんのこと、それに伴う金銭的支出などもある。

…まぁこの辺は『生きる』ということを選択する中では、もう避けられないのかもしれないが。

▼ 今後の見込み

リンパ輸注の可能性については、相変わらず平行線である。

実際のところ輸注による副作用で私の命が途絶えることも十二分にあり得る状態であることから、今の状況からして急いでその対応を望まなければいけない…というわけではなさそうである。

もちろん弟に承諾を得てリンパ球の採集をするなどの手続き的な問題は少なからずある。

…とは言え一応選択肢がまだ残っているという状況は、なるべくポジティブに捉えようとは思っている。

ただここまで具体的に話が進まない理由としては、やはり私の身体の状況が大きいと思われる。

『体力』という名の具体性を欠く根拠が万全ではないからである。

「体力って何なんだろう」と改めて思ったりもするのだが分かりやすく『100mを何秒で走れる』とか『重たいものを何キロ持ち上げられるか』とかそういったものでもなさそうである。

体力を回復させるのに歩いたり階段を上ったりということは日常生活に取り入れているが、過去の自分のイメージと重なるようなレベルまでもっていけそうな気がしない。

「自分の頭と心が合致した理想とする体力が戻るということは無いのではないか」とも感じている。

ただ、治療にはこの『体力』というものは間違いなく必要なのだ。

複数回の治療を経て、どんどん衰えていく自分を経験しているからこそこれは強く言えることである。

▼ 失った筋力や体力

病気に罹患する前から比べて体重は20キロ以上落ち、それなりに鍛え上げてきた身体は見るも無惨な状態である。

ただ、一方で勝手な想像にしかならないのだが、その鍛えてきた筋力や体力のおかげで今の生命があるとも捉えられなくもない。

無くなってしまったものは残念であるが、私の生の犠牲となり盾となってくれた…なんて見方も出来なくはないのである。

例えるなら戦国時代の大将を私自身がやっていて、病気という強力な敵兵の奇襲を受けた際に様々な『筋力』や『体力』といった家臣が自分の身を犠牲にして私を守ってくれた…そんなイメージだろうか。

勝手な想像ではあるが、それくらい筋力や体力は何かしらの大きな意味をもっていると感じる。

自分の命が何とか繋がっていると、失ったものに固執しそうになる。

その中の一つが思うように動けなくなった自分自身にどうしても向けられてしまうのであるが、私が「延命するための犠牲となってくれた」と考えるとほんの少しだが自分自身への慰めとなっている様に感じる。

費やした努力の日々や金銭的な支出はこの際どうでもいいのであるが、かつて出来ていたことが出来なくなることへの喪失感に意味を持たせるとして『未来への尊い犠牲』だと考える様にしている。

ここまでの考えに至らせる要因として「それぐらい治療と向き合う『体力』というのは大切なことである」と伝えたいからである。

意思や気持ちがあったとしても、身体が持たなければ先に進めない。私の未来でもその様なことが来るのかもしれない。

だからこそ少しでも体力を戻したいのであるが、なかなかそうもいかない。恐らく私の体はそこまで来ているんだと思う。

この事実を受け入れながら、進まなければいけないんだと思う。

▼ さいごに

治療には結局薬との相性やタイミングなども含め、様々な要因が複雑に混じり合っている。

体力もそうだしメンタルも重要な要素で、どれか一つでも欠けるとうまくいかないことが往々にしてある。

この様な文章を綴っている身からすると、『未来への選択肢を残すために努力をすること』が『今までの過去の自分達が未来に向けて残してくれた想い』だと感じる。

簡単に裏切ることは出来ないし、簡単に諦めることも出来ない。

…ただの悪あがきにしかならないかもしれないが、生きると決めたからにはもう少し抗わなければいけなそうだ。

ジタバタするしか出来ないなら、ひたすらにジタバタするのである。


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