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21歳、古畑任三郎を観る

 

1. 何気ないドラマ鑑賞のお時間に


  古畑任三郎第3シーズン初回の再放送を母が録画したらしく、私はゴロゴロ、ぼーっとしながら観ていた。ただ、途中で個人的に設定している夜の集中タイムの刻となり、結末も見ずに抜けてきた。母にネタバレされないか心配。

 このドラマが放映されたのは私がまだまだ赤ちゃんの頃。モノマネ番組でよく真似されているイメージが強く、田村正和(古畑任三郎)が出てきた(彼は最初コインランドリーで寝っ転がってて正味声しか聞こえなかった)時、「モノマネの人や!!」と御本人なのにモノマネ芸人を見るような目でしか観られなかった。

 でも、数時間経つと、だんだん慣れてきたようで。田村正和が演じる時はこんな風になるの? でも、「オリエント急行」(これも「古畑任三郎」と同じく三谷幸喜脚本)で野村萬斎(主役)、完全に声や仕草、作ってたもんな。。。。。と、平成後半しか分からない私は、このような何の結論も出るはずもない問いを頭に浮かび上がらせ、画面に映る「昔」をじぃっと見詰めていた。

 さて、このドラマを観ていて気づいたことは色々とある。以下のことは、果たして、時代のせいか。

(以下、古畑任三郎初回のネタバレ(犯人への手掛かり等)があるかもしれません。多分、核心を突くようなものは基本ないです。)




2. 飛び散る薄緋色

 こんなに血が飛び散る画を観たのはいつぶりだろうか。「カメラを止めるな」ぐらい? いやでもかなり最近やん、、それよりも前は? 「地獄でなぜ悪い」? いやいやあれは画面全部赤色やん。噴火し過ぎで可笑しくなって、笑てまうから。

 でも、ファンタジー世界の外で、現実世界に設定を置いた作品で血を噴き出てるとこを観たのは大河ドラマ「平清盛」以来だろうか? いや、むしろもっと昔の方が酷かったかな? 

 ほとんどの「古畑任三郎」の前半部で、犯人の顔を明かしつつ、事件が起こる。私が見た回では、絶命の瞬間が覆うことなく、きちんと描かれていた。犯人は確実にナイフで被害者の首の真ん中を横に斬っているし、断末魔をあげる被害者の首からは元気よく血が噴き出している。その場面を文で描写できるほど、確かに画面に映されていた。

 最近は血が嫌いな人や暴力が嫌いな人はごまんといる。もちろん、私もできることなら見たくない(それは私が生きる現実世界での話に限るけれど)。本物と結びついて、フラッシュバックする方だっている。

 最近の描写として、殺人者にどんな狂人が出ても、「潰れていく過程は見せない」「傷口はひどくぐしゃぐしゃにしない」「血が噴き出たと思われる場面は事件から経過した現場を見せ、死体の周りは血が垂れている程度にする」などの配慮が見られる。上手い時代だなあ。


3. 語れ語れ任三郎


 「古畑任三郎」、脚本にすれば現在の刑事ドラマよりもシーン数が少ないのでは? 現在はかなり過去シーンのフラッシュバックが入ることが多い。

 そう思って他の観点で原因がないか考えてみたが、圧倒的に古畑任三郎の一人語りが多かった。(どうやら倒叙式、というらしい)

 現在のドラマのようにフラッシュバックが挟まれないぶん、これまで見つかった証拠で喋る内容や、作者のいたずらとおぼしき古畑任三郎の推理と閃きによって語りは紡がれる。ロジカルでブロックが積み上げられて行くような、しかも無駄のない語りの運びは視聴者の耳を離さない。

 倒叙式ができるのは古畑任三郎の自信によって支えられているのではないか。

 古畑任三郎は、犯人の男と出会った時から、犯人の不審な点に勘づき、その人物を疑いだす。それからは犯人と出会う度、「あなたを疑っている」と思われるような言動を繰り返す。そうして、犯人は古畑に暴かれないよう、必死にミスリードを行う。

 そう、「犯人はお前しかいない」と目星をつけたことで、雄弁的に語ることができる。万が一、古畑任三郎が他の線を脳の片隅で考えていたとしても、最低限自身のなかで犯人を決めているように見せているのだ。

 このように提示すると、古畑任三郎と犯人の対戦局面が出来上がる。

 これも一種の見せ方として評価すべきだろう。

 現在のドラマは、冒頭に犯人の顔を明かしたとしても、解決シーン前に主役は一人の世界に入り、脳内でぐるぐるこれまでの証言や証拠をフラッシュバックさせ、BGMは決まってかっこいいテーマが流れているのが主流である。それまでに主役は犯人に疑いの目のサインを提示しない。

 

 ただ、犯人VS任三郎の構図には問題点がある。

 任三郎が犯人に疑いの目を向けるシーンで、下記のように思った人は多いかもしれない。

 「こんな早く決めつけるなんて、有り得ない! 冤罪の源だ!」


 だからこそ、堅実に証拠を積み重ね、色々な選択肢を与えるドラマが多くなったのだろう。

でも、上のような言葉を当時の人にかけると、こう言うかもしれない。

「イイじゃん、古畑任三郎は天才なんだからさ」


4. 「多くの人に優しいドラマを」

 現在、「様々な人が楽しめますように〜!」ということを願ってドラマは作られている。そのための技術は蓄積されてきて、多くのドラマ関係者はその技術を知ろうと努力や勉強を積み重ねているのだろう。

 ただ、その技術を追い求めるあまり、遊べなくなって「新鮮み」がなくなる時がいつか来るのではないか。その「新鮮み」は案外昔に落ちていて、新たな発見が出来て面白い。現在の主流から落ちてしまった「演出」は、時代の流れのせいであることが多い。もしかすると、その「演出」は工夫すれば功を奏すかもしれない。



 21歳、一人のドラマファンの見解でした。まだ私には知らないことが多過ぎます。何か意見やご指導があればコメ欄へよろしくお願いします。



 


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