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【中編小説】金色の猫 第20話(全33話)#創作大賞2024

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 思わぬかたちでアルバイトが決まった。ちょっとした娯楽施設のような店内に大きな喋る鳥、社長は不機嫌な顔の猫で、店主はなんだか底知れない。すぐにはすべてを飲み込めそうにないが、数日前から居座っていたみじめはひとまず去った。
 しかしまだ喉元へつかえたわだかまりは取れず、呼吸は浅い。東京が冷たい雪に覆われた一月の初めから、ただ日日の上を滑っているような居心地の悪さがあった。
 なにはともあれ琴乃が帰って来たら報告しよう。今日彼女は休日だったが、前に働いていた店の先輩へ会うために昼過ぎから出掛けていた。夕食は要らないと言っていたので、たぶん二十二時くらいになるだろう。俺は冷蔵庫にあった余り物で簡単に済ませ、リビングのソファで寛いでいた。
 つい数日前にケージから出て過ごすようになった金之助も、ソファの背もたれで香箱座りをしている。金之助の顎を撫でたあと、テーブルへ手を伸ばして文庫本を取った。

 真新しい本の表紙を見れば、冴えた緑の背景に『中原中也詩集』とある。羽衣石がくれた本だ。帰ろうとしてスツールから立ち上がったところへいきなり渡され、「読んどいて」そうぶっきらぼうに言われた。何気なく捲っていたら、覚えのある語句が目に入る。「ゆやゆよん」何気なく声に出してみて、二匹の大きな猫が記憶を過った。
「はは、それで、ゆやと、ゆよんか、へえ……」愉快になって頁を捲る。㈠
 それから俺は日照りを歩き続けた象のように、こんこん湧き出る語句を浴びて時をふやかした。
 だから、玄関からした物音へ気づくのに少し遅くなった。琴乃ひとりにしてはやけに多い物音に振り返ると、「……みさん、いいから、ね、やめて」廊下のほうから懇願するような琴乃の声が聞こえる。
 不審に思ってソファから立ち上がれば、「あ! いた! おまえだな」嗄れ声で叫ぶ小さな女——琴乃より二〇センチほど小さいだろうか。——がリビングへ現れた。驚いた金之助が飛び退き、カーテンの裏へ逃げて行く。「芽美めみさん……!」琴乃は女の肘の辺りを遠慮がちに掴んで叫んだ。
 ソファの横へ佇む俺と目が合い、「思ったよりもイケメンね……」芽美と呼ばれた女は憎憎しげにつぶやく。
「や……でもね、あんた……イケメンだからって許されないよ! 琴乃はねえ! ん……もう三十六! 三十六なの! 都合よく考えてもらっちゃ困るわけ。いやなのよ、あたし、琴乃がしんどいのはもう、いやなの」芽美は息を切らし、円い目から零れ落ちた涙を拭う。
 琴乃の歳が俺より十四も上だった衝撃で、そのあとの嘆きはほとんど入ってこなかった。年上な気はしていたが、離れていても五つくらいかと思った。
 思いがけず年齢を暴露された琴乃は、沈痛な面持ちで芽美の震える肩を支えていた。「ごめん……この人、泣き上戸で……」琴乃は目を伏せたまま、俺の脇を通って芽美をソファへ座らせる。俺はキッチンへ行ってグラスへ水を注ぎ、芽美の前にそっと置いた。
 彼女はしばらく不貞腐れていたが、琴乃がグラスを渡すと勢い良く飲み干した。そして虚ろな目で「あたし認めないから。ぜったい、認めない」とだけ言い残し、ソファへてふんと倒れた。
「桂一、クローゼットから布団持って来てくれる」琴乃が俺を振り返り、力なく笑った。
 こんがりとした色のくせ毛に濃い睫毛、わずかに上を向いた鼻先につんと突き出た唇。それなりに歳を重ねているようには見えるものの、幼さが滲む芽美の寝顔は可愛らしかった。
「ふふ……なんだかお話に出てくる妖精か魔女みたいじゃない、芽美さんって」
 そういう物語は知らなかったが、それでもなんとなく想像がつく。
「憎めない人なの」
 琴乃は布団を掛けてやりながら、愛おしそうに目を細めた。その横顔からふたりの関係がただの先輩後輩ではないのが伺い知れる。
「そっか、心配になるよな……」
 つい思いが口から零れ、琴乃が躊躇いがちに俺を振り仰いだ。

「年齢、びっくりしたよね」両手で持ったグラスの中へ琴乃は視線を落とす。
「……ん、まあ、うん、びっくりしてないつったら嘘になる」
「私たち、お互いの年齢も知らなかった」
「うん……」
「いずれ……いずれ桂一は行っちゃうんだろうなって思ってて……それでも私、たのしかったから、たのしいからいいやってなっちゃって。だめだよね、もういいかげん大人なのに」
「……」
 声の端へ本音を滲ませながらも笑って話す琴乃が痛痛しく、つかえたわだかまりが迫り上ってくるのを感じる。ひとつ声を漏らしたらとめどなく溢れ出してしまいそうで、俺はからからの喉で必死にそれを飲み下していた。
「私がしょうもないから、芽美さんを心配させちゃったんだとおもう。それで、今日うちへ行くって聞かなくって。止められなくて、ごめんね。都合よく、とか気にしなくて大丈夫だから」琴乃は顔を上げ、力なくほほ笑む。
 〈ごめんね〉〈大丈夫〉で縛る女を、俺はよく知っている。仕事を休みがちになって布団から出られない日が増えてきたころ、顔を合わせるたびに母親はそう言った。琴乃のようにほつれた笑顔で。何か返さなければと考えるほど、ごめんねと大丈夫が俺の脳味噌へ絡みついて声が出ない。それになぜか無性に腹が立ち、そして苛立ちの正体こそわからぬまま、いつしか母親を避けるようになった。
 このまま呪いを解かずにいたら、俺は琴乃からも逃げてしまうだろう。ずっとそうしてきたんだしそれでいいじゃん、数か月前の俺がふんぞり返る。しかし絨毯にぺたんと座る琴乃のつむじを見ていたら、たちまち呼吸が浅くなった。口内を満たす想いを舌でたしかめたら、しんと冷たい夜の透きとおった味がする。そっと噛み締めて乾いた唇を開いたものの、わずかに吐息が漏れただけだった。口にしてしまったらたちまち膨らんでしまいそうで、それを割れないように運ぶ自信が俺にはない。

 ふとソファの裏から悲愴な声が聞こえ、立ち上がって覗くと、脱ぎ捨てられたカーディガンの袖へ金之助が詰まっていた。ふっくら膨らんだ腕のほうから侵入を試みたものの、袖が思いのほかきつく出られなくなったらしい。「え」驚いた琴乃の声へわずかに笑いが滲んだ。
 金之助は情けない顔のまま、袖から前脚を出したり引っ込めたりしてもがいている。
 俺がソファの裏へ回って金之助の傍へしゃがむと、上からポコンという間の抜けた音がした。見上げれば琴乃がスマートフォンを手に、意地のわるい笑みを浮かべている。「おい」小声でたしなめたら、「だって……可愛くて……」と琴乃は両手を震わせた。
「金之助……大丈夫……だ、から、な……」
 釣られて笑いそうになるのを抑えながら、俺はそっとカーディガンを捲って脇の辺りから金之助を引っ張り出した。カーディガンから解き放たれると、金之助はふたたびカーテンの裏へ隠れてしまった。
「芽美さんのカーディガン、大丈夫? 伸びてない?」
「ん……うん、見た感じ、大丈夫だ、と、おも……う」左右の袖を見比べて俺は答える。
「きんちゃん、こういう素材好きだもんね」
 青いふわふわを指先で触り、琴乃はそっとつぶやく。俺たちは顔を見合わせ、ソファで眠る芽美を起こさないよう声を忍ばせて笑った。

「俺、ここにいるよ。いたいんだ。琴乃の……琴乃と、金之助の、そばに」
 喉の奥から錆びついた音が鳴り、俺は小さく咳払いをする。琴乃は切れ長の目を見開き、震える瞳でこちらを見つめていた。
「だめ……かな」
 琴乃は大きな長いため息を吐き、長い前髪を掻き上げる。そして目の前に立って上目遣いで睨めつけ、思いきり俺の頬を抓った。「ばか」気丈を装った顔がみるみる歪み、頬を伝う雫がぱたりと床へ落ちた。
 思わず両手で華奢な肩を抱き寄せたら、「好き……」胸へ潤んだ声が滲む。それは今まで聞いたどれよりも澄んだ音で、俺の真ん中を淀みなく流れた。噎せ返るような甘い香りに包まれながら、俺はカーテンの隙間から覗く青白い下弦の月を眺めていた。

■参考文献

㈠大岡昇平編.中原中也詩集.岩波書店,昭和五十六年,p18

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