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【#岩波文庫300冊読む】第2回:126~130冊目(2024/4~6月)

 前回からだいぶ間が空いてしまった。単純に活字に触れる気力・体力に乏しかったのに加え、読むのも他レーベルの紀行文や日本史の新書などで、岩波文庫に親しむ機会がほとんどなかったのも要因だろう。それでも4月~6月に5冊読んだので、それぞれ所感を記しておきたい。
 単に読むだけではつまらないから、点数を付けて、90~優上、80~89優、65~79良、50~64可、~49不可と評定をしている。そのうえで優上は全体のうち1割、優と優上を合わせて全体の3割という制約をつけている。

【126冊目】 島崎藤村『春』 (緑二三・二)

 青木はもう世の戦いに疲れて、力屈したという人のようであった。

島崎藤村『春』(岩波文庫・132頁)

 4月より藤村を読み始めた。20歳の折に『破戒』を読んだきりで、その時はプロットも充分、風景描写にも満足ができたが、物語としては最後に転んでしまう印象で、以来藤村を敬遠していた。もっとも、藤村の岩波文庫は均一棚になかなか並ばず、手許にないという事情もあるのだが・・・
 5年も読まなかった藤村をなぜ今頃になって読もうと思ったかというと、平野謙の藤村論を均一棚で入手したからである。平野謙の藤村論は安吾のデカダン文学論に影響を与えているから、安吾の在野研究者を僭称する私にとっては、必読なのだが、そもそもそこで扱われている藤村作品を読んでいないのではお話にならない。そこで、『家』『春』『新生』くらいは読んでおこうと思ったという次第。
 『家』は岩波文庫だと上・下巻だが、在庫がなく、一巻完結の『春』を駒場生協で買って読んだ。
 藤村や北村透谷といった、明治二十年代の『文学界』に集った若き文学者たちの群像劇である。それぞれの抱える葛藤と実生活における苦吟とが切々と伝わって来て、私には『破戒』よりも良いと思えた。とりわけ透谷は、好きな明治文学者の五指に数えているから、彼を模した青木の作中での姿には、胸を打たれる。文学の同志の間にあってもなお、いや、むしろその中にあるからこその、絶対の孤独。そうした境涯にもがき、そして必然的な自死へと結ばれていく青木の姿は、主人公である岸本(藤村自身を模している)の姿に勝るとも劣らず感興を与えてくれる。全体としても起伏や陰翳に富んでいて、『破戒』よりも滋味がある。
評定:82優


【127冊目】 島崎藤村 『千曲川のスケッチ』 (緑二三・六)

死地に引かれて行く牡牛はむしろ冷静で、目には紫色のうるみを帯びていた。

島崎藤村『千曲川のスケッチ』(岩波文庫・149頁)

 引き続き藤村。隠居しているわが北関東の辺土には、新刊書店にも古本屋にも『新生』や『家』はなかったので、仕方なく数年前に均一棚で拾ってあった『千曲川のスケッチ』を読む。藤村の小諸時代の記念ともいうべき小品集で、市井の人びとや農村風景をよく描いているのは『破戒』にも通じている。
 しかしながら、こういうふうな作品は、藤村と青年期を共にした柳田國男の紀行文、たとえば『雪国の春』や『豆の葉と太陽』の方が圧倒的に巧い。柳田はそこで詩的感性と、学者の分析的視点とをみごとに止揚しているのだが、藤村には、対象に分け入ってさらにその奥を突き止めるような分析が乏しくて、物足りない。ゾラの作品を読むとよくわかるが、自然主義の本質は「自然科学的手法」で対象を解剖するところにある。だから表面的なありのままを写生することを重んじた藤村よりも、かれらの自然主義文学から離反し、分析的な視点を導入した柳田こそが、むしろ真の意味での自然主義を体現していたとも言える。
 もちろん印象に残るところも充分にあり、たとえば冒頭に引用した牛の屠畜の描写は、『破戒』にもあるものだが、藤村の映像的描写力が確かなものであったことをはっきりと示している。やはりこの本は『破戒』の前日譚、あるいは背景として読むべきで、そうするとなかなか面白いだろう。
評定:70良


【128冊目】 ホーソン『ホーソーン短篇集 七人の風来坊 他四編』(赤三〇四・二)

「でないと私の胸はあの泉のように氷の如く冷たくなり、全世界はこの雪の積もった丘のように荒み果てることであろう。」

ホーソン「泉の幻」『ホーソーン短篇集 七人の風来坊 他四編』99頁

 ホーソンは『緋文字』しか読んだことがないが、私にとっては英米文学のなかでも特に印象に残る一冊だ。ギリシャ悲劇のような、無駄のない張りつめた構成と、森の場面に代表されるような幻想性とが、互いに侵犯することなく調和しているところに、作者の確かな力量を感じさせられた記憶がある。
 さて、この一冊はかれの短編集だが、やはり特有の幻想性はそこかしこに見て取ることができる。ホフマンやポーのような、都市的幻想文学は私にはどうも苦手だが、ホーソンのような自然のなかの幻想を描くものは好きだ。  
 2~3月に新潮文庫版の『モーパッサン短編集(一)~(三)』を読んでいた* せいかもしれないが、ホーソンの短編は、モーパッサンの短編に割合に似ている。ただ、ホーソンのほうがより静謐で、空気の流れもずっと穏やかだ。そういった意味ではおとぎ話、昔話に手ざわりが近いかもしれない。特に「人面の大岩」などはそんな趣がある。
 冒頭に引用したのは、末尾の「泉の幻」の一節で、これはまぁ他愛もない短篇と呼ぶべきものだろう。この短編集にもよく出てくる泉、あるいは水の表現は、ホーソンの自然的幻想性のかなりの部分を担っているように思える。
評定:79良

【129冊目】チャペック『ロボット』(赤七七四・二)

それはふたたび愛から始まり、裸のちっぽけなものから始まる。

チャペック『ロボット』194頁

 チャペックの『園芸家の一年』を再読していて、ふと未読の『ロボット』があることに気が付き読もうと思った。小説ではなく戯曲である。 
 古典は今日にこそむしろ新しいということが往々にしてあるが、その代表格だろう。発表から100年以上の時を経ているが、けっして古びていない。ロボットに制圧される人間たちの緊迫感は、小説ではなかなか出せないもので、そうしたところにも戯曲という形式が十全に活かされていて見事に感じる。冒頭の引用はラストシーンだがきわめてきわめて皮肉だが、しかし一縷の希望で締め括られているところも、読後感を深くする。のんきな園芸趣味者というわがチャペック観が覆った一冊でもある。

評定:98優上


【130冊目】『左川ちか詩集』(緑二三二・一)

彼にとって過去は単なる木々の配列にすぎぬように、また灰のように冷たい。

左川ちか「The mad house」『左川ちか詩集』53頁


 相当久しぶりに岩波緑帯の詩集を読む。私は基本的に小説が読めないが、詩はそれに輪をかけて読めない。そもそも読もうとすることが詩に対する向き合い方としてはよくないのかもしれないが、大手拓次や伊藤靜雄といった詩人とその作品はなんとなく好きな割に、詩の読み書きは苦手だ。
 左川ちかの作品は、私が読んだごく狭い詩の範囲では、大手拓次に近いだろうか。そこかしこに死の香りが横溢している。そうして死にぬぐい難くまつろう渾沌や暗さが全篇を覆っているなかで、そうであるがゆえに立ち上がる鮮烈な生、というのが彼女独自の主題であるように思える。私の場合、詩というのは一読だと十分に鑑賞できないものらしい。なので評定も暫定的なものである。

評定:73良







*モーパッサンの短編を読みたいならば、岩波文庫にも2000年代の新訳で『モーパッサン短篇選』(一巻完結)があるが、30年以上古い三分冊の新潮版のほうが良い。岩波版には入っていないような猥雑なものや、あまりに他愛もないものが入っていて、それも含めてモーパッサンの短編の醍醐味だと思う。


以下投げ銭コーナーです。筆者、若輩者ながら隠居生活を送っており、古本1冊分、お恵みいただければ、この企画も継続でき、ありがたい限りです。
 

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