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あなたが必要としたときに、必要とした形で届いていて欲しい

結成27年目にして、このバンドはなんちゅう曲を作ってくれたんだ、と思った。この「なんちゅう」の中身をどう言い表したらよいのだろうか。

BUMP OF CHICKENというバンドが今までに歌い上げてきた百何十曲が、全部この曲の中で息をしているような。それでいて、新しい境地に私たちを連れていってくれるような。

作詞作曲を担当する、ボーカルの藤原さんは、この「窓の中から」という言葉について「昔から僕が音楽制作をする時の根本にあったイメージ」だと話している。

人は外に出る時、自分だけの不可侵領域を心の中に持った状態でお出かけしていると思うんです。
それは屋内にいたとしても同じことですね。家族と一緒に過ごしている時でも、その家族と全く共有し得ない自分だけの不可侵領域を持った状態でいろんなことを話したり、あるいは話さなかったり、そうやって過ごしたりしていると思うんです。
その一人ひとりが持っている不可侵領域についている窓のことを歌ってます。その不可侵領域から世の中を覗き込んでいるような、そういうイメージ。(中略)

魂の在り方なんて、その人の状況次第で移り変わっていくものだし、もちろん世の中の状態によっても移ろいゆくものだと思うんですけど、ただ、不可侵領域だけは変わらないんですよね。(中略)
世の中がどういう状況でも、自分がいくつになっても、その中にいる自分がそこについている窓から世界を見ているーーそれだけは変わらないんです。

「MUSICA2023年8月号」P63 FACT

人が誰しも心の中に持っている「不可侵領域」。その中にあるものを大切に見つめながら、そこについている窓から世の中を見つめ、「君」とともに生きようとする。この曲はそういうことを歌っている。

「窓の中から」に対して、「窓の外から」と呼びたくなる写真集がある。「窓の中から」のリリースから2カ月ほど後に発表された、写真家奥山由之さんの『windows』という作品だ。

これは、東京の「すりガラス」の写真だけを集めた写真集。コロナ禍の2020年4月から2022年11月、2年半にわたって撮影した10万枚という膨大な写真の中から、半年間かけて724枚をセレクトし、写真集にまとめたもの。

すりガラスは「曇りガラス」とも呼ばれる。表面にでこぼこした加工がされ、不透明になっているガラスのこと。目隠しをしつつ採光だけはでき、窓を開ければ換気もできる。お風呂などによく使われている。

世界的に見て、東京はすりガラスが特に多い都市だという。そこには日本人の心理的な性質が現れているのではないかと奥山さんは話す。

世界的に見ても
東京ほど建物や住宅が密集した地域は
なかなかないんです、統計上。

でも、日本人の性質として、
露骨に
隣家との心理的距離を置いているようには
感じられたくはないけれど、
立ち入られたくない領域もある。
そういった曖昧模糊とした心理的境界線が、
「フロストガラス」「型板ガラス」
と呼ばれるすりガラスや不透明なガラスに
表れているんじゃないかと思って。

「奥山由之さんが東京のすりガラスの窓を10万枚も撮ってわかったこと」ほぼ日刊イトイ新聞

露骨に自分たちの家の中を隠すと、ご近所さんの井戸端会議で「あの家ずっと雨戸閉まってて、一体なにやってるのかしら」みたいなことを言われかねない。

でも建物や住宅が密集した東京という街にあって、生活の中には当然、他人には見られたくない領域もある。

そんな曖昧模糊とした境界線を持つ日本人の心が、東京のすりガラスとして表出しているのではないか。そういう意味ですりガラスを「東京のシンボル」と捉え、撮り続けてきたという。

引用したインタビュー記事に、写真集に収められた作品がいくつか載せられているので、ぜひ見てみてほしい。(全5回)

東京のみならず、日本で生活したことのある人であれば、誰もが一度は目にしたことがあるのではないだろうか。道を歩いているとき、通りかかった家の半透明の窓から、家の中にあるものが透けて見える光景である。

洗濯物が乾してあったり、窓辺に置物や花が飾られていたり、家財道具や日用品が並べられていたり。そこに映し出されるのは暮らしであり、文化であり、社会でもあるかもしれない。見た人が自分と通じ合うものを感じて、心が動かされることもある。

ただ、そんなお行儀の良い言葉では括られないような、おそらく人には見られたくないであろう部分が見えることもある。見る側からしても、そこで暮らす人の深いところが容易に想像されてしまって、目をそらしてしまうような。

たとえば、他人から見たら不要物のように見えるものが、うず高く積みあがっていたり、干されている洗濯物が肌着っぽかったり。

住んでいる人自身があまり使わないのであろう、家の入口と反対側についた窓を塀越しに見るとき、そんな光景を見ることが多いような気がする。

その家で行われる生活は、その家に住む人のものであって、見ず知らずの通行人にどう見られるかということを主眼に置いて行われるものではない。

玄関のすぐ横の窓だったりすれば、住んでいる人自身が頻繁に通りがかって、窓越しに外から中を見る機会が多いので、「すごい散らかってるように見える!片付けなきゃ」とか「目隠しのカーテンでも付けようかな」みたいな視点が働くこともあるだろう。

でも普段通らない道や、道すらない隣家との境界に出ていって、自分の家が外からどう見えるかをチェックする人は、あんまりいないかもしれない。

そんな「お行儀の良くない」光景が見えたとしても、それをいちいちあげつらったりすることもせず、「そういうもんだよね」とどこか見ないようにしている部分が、私たちにはあるような気がする。

もちろん、犯罪の疑いがあるとか、あまりに不審な様子がうかがえるとか、極端な場合には、然るべき対応を取ろうか迷ったり、ちょっと近寄らないようにしたり、なにかしらの行動を取ることもある。

でも『windows』で映し取られているような、人の衣食住がうかがい知れる「窓」を見たとき。それをことさらにさらし上げたり、非難したり、または大げさに賞賛するということもなく、「見て見ぬようにする」というのが一番よくある反応なのではないだろうか。

例えばの話、前日に友人の家の前を通りがかって、室内にTシャツが干されているのが、窓越しに透けて見えたとする。そして今日会ったときにそのTシャツを友人が着ていたとして「昨日そのTシャツ洗濯してたでしょ」と言うか言わないか、ということである。

ここから「すりガラス」の話から「心の不可侵領域」の話に戻ろうと思う。

「本人は見て欲しくないんだろうな」というような部分に触れたとき。それから「そんな部分を他人に見せないで欲しい」と思うような部分を見てしまったとき。

私たちが出来る対応は「その行動自体をやめるように働きかける」か「その行動を外に見せるのをやめるように働きかける」か「見ないふりをする」かである。

行動をやめさせるにしろ、他人に見せることをやめさせるにしろ、相手のことを否定するリスクを伴うし、働きかける方もカロリーを消費する。

「働きかける」か「見ないふりをする」かの行動選択には、その行動がどのくらい目に余るものなのかとか、相手との関係性がどういうものか、といったことが影響する。

あまりに倫理的に問題があるとか、自分にものすごい迷惑を被るようなときには、相手を傷つけるリスクがあっても、働きかけることを選択する必要がある。

もしくは、家族や恋人、親友など近しい間柄であれば、全くの他人には言わないような小さなことも、相手のことを思って働きかけることもあるだろう。

でも、そうではない場合、「見ないふりをする」というのは相手のためにも、自分のためにも、適切な対応であることも多い。『windows』が映し出す東京の窓には、見て見ぬふりをする、人の優しさが表出しているように思う。

私たちは、生きるために必要なものを詰め込んだ「不可侵領域」を携えて生きている。そこにはどうやっても塞ぐことのできない窓が開いている。その窓があるからこそ、私たちは誰かと出会い、ともに生きて行くことができる。

中から外が見えるのと同じように、外から中も見られている。見られたいような、見られたくないような。「こう見せたい」という願望はあれど、心は常に動き続けるもの。自分のものとはいえ、いつも自分の思い通りに見せられるかといったらそうでもない。

どうしたら外から見てステキかとか、みっともなくないかとか、あの人に好かれるには、どんな風に見えたらいいかなとか。一生懸命。

ときには考え過ぎてわけわかんなくなっちゃったり、疲れちゃったり。触れ方やモノの詰め方を間違えて、窓が割れてしまったり。

固いように見えて、思いがけず簡単に割れてしまう窓ガラスを1枚ずつ隔てて、お互いをのぞき込むような。それが人として生きるということなのかもしれない。

そのガラスは透明なものもあるし、すりガラスなこともある。窓ではなく、窓のように見せた、よく出来た絵だったなんてこともありえる。

それでも人は生きる。私もあなたも、生きている。孤独に震え、誰かと手を取り合って生きたいと願うときにも、もしくはそう願うことさえできないときにも、今、確かに存在する自分自身の鼓動を、ぎゅっとやさしく抱きしめたくなるような。私にとって本当に大切な曲。

最後まで読んでくれたあなたにも、いつでもいい、私と同じ形でなくてもいい。あなたが必要としたとき、あなたが必要とした形で、この曲がちゃんと届いてくれていたらいいなと願っている。


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