【第1章】青年は、淫魔と出会う (22/31)【学舎】
【亀裂】←
「あいたぁ──」
『淫魔』は、顔面から地面に突っこむ。乾いた土の平らな地面だった。
「う……げほっ、げぼおっ!」
激しくせきこみながら、異形の触手が残していった病的な体液を、のどの奥から吐き出す。呼吸を整えながら、顔をあげ、あらためて周囲の様子を見回す。
先ほどまで自分がいた、魔性の蛸脚に蹂躙された空間でも、黄昏に照らされた路地裏の商店街でも、あるいはそれが破壊されたがれきの山でもない。
整地された広いグラウンド、その周囲を囲む植木とフェンス、無個性で平べったい箱型のコンクリート建造物……『淫魔』は、学校の校庭に転がっている。
少なくとも、周囲に動くものの影も、人の気配もない。『淫魔』は、とりあえず、服についた土埃を払いながら、立ち上がる。
服──?
身につけていた衣装は、あの異形どもに、下着ごと引きちぎられたはずだ。にもかかわらず、『淫魔』は裸体ではない。慌てて、自身の身体を確認する。
「……げ」
その身にまとっていたのは、『淫魔』のトレードマークである (と本人が思っている) ゴシックロリータドレスではない。
三角形の独特な濃紺のえり、それと対比するような真紅のリボンタイがついた、白地のブラウス。下半身は、えりと色を合わせたプリーツスカート。
『淫魔』が身につけていたのは、学校制服と思しきセーラー服だった。
「やばいのだわ……このセーラー服、たぶんだけど、ここの学校の制服よね……」
天を仰ぎつつ、『淫魔』はつぶやく。商店街にいたときよりも、さらに日が傾いている。制服姿の影が、異様に長く校庭に伸びる。
「私の存在が、侵食され始めている……このままだと、この内的世界<インナーパラダイム>に取りこまれてしまうのだわ……」
様子をうかがうように、『淫魔』は背後を振り返る。敷地の校門は、閉まっている。まるで、『淫魔』が外へ出ることを拒絶しているかのようだ。
あらためて正面を向くと、校舎の正門は大きく開かれているのが見える。
「……誘われているみたいだわ」
うんざりした様子で、『淫魔』はつぶやく。とはいえ、無人の校庭で手をこまねいているのが一番まずい、とも同時に思う。
慎重な足取りで、『淫魔』は校舎の正門に近づく。用心深く、内部をうかがう。
「入ったとたん、触手がうにょうにょ……は勘弁なのだわ」
覗き見した先は、下駄箱が並ぶスペースだった。校庭同様に、人の気配はない。
「虎穴にいらずんば、虎児を得ず……だっけ?」
『淫魔』は、校舎内の探索を決意する。正門から踏み入り、下駄箱の狭間を通り抜ける。さいわい、物影から触手が飛び出してくる様子はない。
土足のまま、『淫魔』は廊下にあがる。まっすぐ歩きながら、教室の様子を眺める。無数の机といすが整然と並び、しかし、人の姿はまったくない。
廊下の突き当たりまで進むと、階段を登り、次の階で廊下を折り返して、教室のなかを眺めていく。『淫魔』は、これを最上階にたどりつくまで繰り返す。
「学校の怪談、みたいな都市伝説が産まれるのも、理解できるのだわ」
太陽が、都市を囲む山の頂に接吻し、空は夕暮れの赤に染まっていく。照明を切られた無人の校舎内は、薄暗く、ひどく不気味な気配に満ちている。
一通りの教室を確認し、そのすべてが無人であることを見届けた『淫魔』は、さらに階段をうえへと登る。
突き当たりは、屋上へと出る扉だ。『淫魔』は、ドアノブに手をかける。
「こういうのって、普通、施錠してあるものだっけ?」
予想に反して、ドアノブは難なく回転し、わずかなきしみ音を立てて開かれる。『淫魔』が屋上に出ると、夜の気配を含んだ冷涼な風が吹き抜ける。
「──ッ!」
『淫魔』は、息を呑む。屋上のフェンス前に、男子生徒と思しき制服姿の少年が、こちらに背を向けて立っている。
ゆっくりと、できるだけ自然体な足取りで、『淫魔』は少年へと近づいていく。相手は、すぐに気配に気がついて、こちらへと振り返る。
少年と『淫魔』の視線が、重なる。『淫魔』の脳裏に、目前の男子学生の表層意識がスキャンされる。
なにを考えているのか、やや不明瞭なところは、ある。しかし、異常な妄執や狂気のようなものは、ない。
商店街の連中に比べれば、ひどくまっとうな人間の精神だ。
(『淫魔』ともあろうものが、人恋しさ、なんておぼえるとはね……)
安堵の念を覚えた『淫魔』は、人知れず胸をなでおろす。そんな様子の女子生徒を、男子学生は怪訝そうな表情で見つめ、首をかしげる。
→【救出】
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