【第1章】青年は、淫魔と出会う (23/31)【救出】
【学舎】←
「きみ、会ったことないよね。別の学年の子?」
「そういうあなたは、この学校の生徒、という認識でいいのかしら?」
「まるで、きみがこの学校の生徒じゃないみたいだね。もしかして、転校生?」
素知らぬ顔で、『淫魔』は男子学生と会話を交わす。言葉が、通じる。
(ああ……他人とコミュニケーションが成立することが、こんなに素晴らしいだなんて思わなかったのだわ!)
胸中で『淫魔』は喜びを覚え、思わず笑みとなって表情に出てしまう。対面する少年が、ふたたび怪訝な表情を浮かべる。
(……っと、油断するのはまだ早いのだわ)
まだ断定はできないが、この男子学生が、内的世界<インナーパラダイム>の主である可能性は高い。『淫魔』は、そう判断する。
己の気を引き締め直し、ゆるみ過ぎず、かといって真剣過ぎもしない、『淫魔』が考える『女子高生らしい表情』を繕い、コミュニケーションの続行を試みる。
「ところで、校舎に誰もいないみたいだけど……」
「ほんとうだね。みんな、帰っちゃったのかな」
「運動部とか、この時間でも練習しているものじゃないの?」
「あ。やっぱり、きみは転校生だ。今日は、運動部、遠征の日だからいないよ」
慎重に何気ない会話を重ねながら、『淫魔』は少年の警戒心をほどいていく。
魅了の能力を使って、手っ取り早く支配下に置くことも可能だが、この内的世界<インナーパラダイム>では、なにが破滅的なトリガーとなるかわからない。
「そんな誰もいない学校で、あなたはなにをしていたのかしら?」
「まるで、先生みたいな話し方をするね。まさか、新任の……なわけないか」
セーラー服姿の『淫魔』の姿を見て、男子学生は少しばかり笑う。
「……夕焼けがきれいだから、ここで見ていたんだ。もうすぐ、一番星も見えるよ」
「ふうん……」
少年の視線に引っ張られるように、『淫魔』も黄昏の空を仰ぐ。
太陽はほとんど地平線の向こうに沈みこみ、背後から夜闇が迫るなか、空の半分は地のような赤に染まっている。
落日の上天の色が、『淫魔』にはひどく不気味で不吉に見える。
そのとき、二人の頭上を一条の流れ星を走った──ように見えた。流星の尾は、時が止まったかのように空に残り続ける。
「……やばいのだわ」
『淫魔』はそれが、商店街で見た『空間のひび割れ』だと気がつく。まっすぐに上天を横切ったラインは、あのときよりも遙かに大きい。
「ねえ、きみ──ッ!」
とっさに、『淫魔』は男子学生へと声をかける。少年が反応するよりも早く、空に伸びた細線は放射状に伸び、砕け、天に巨大な裂け目が現出する。
──どろり。
粘性の強いタールが垂れ落ちるように、天の裂け目から大量のなにかが校庭と周囲の住宅街へと降り注いでいく。
赤黒い降下物が、異形の触手の群れだと『淫魔』はすぐに気がつく。
病的に膨れて脈打つ魔性の肉塊が、とどまることなく降り注ぎ、住宅街を呑みこんでいく。校舎の周囲は、すぐに見渡すばかりの触手の海と化す。
「やばいやばい……ッ! ねえ、聞いているの!?」
『淫魔』は、強く少年の肩を揺する。男子学生は、突然の事態に混乱したのか、身を硬直させて動かない。
屋上から校舎の下を、『淫魔』は見やる。ヘドロのうねりを思わせる触手の海は、見る間に水位を増して、屋上へと迫る。
「──逃げなきゃ」
砕け散った天を仰ぎながら、『淫魔』はつぶやく。『淫魔』は、硬直した男子学生の身を抱きかかえる。
「お姫様抱っこ、するよりも、されるほうが好みなんだけど……ッ!」
足の速い蛸脚が数本、屋上に這い出て、身をのたうたせる。巨大な肉塊が数個、びちゃり、と音を立てて、屋上に落下してくる。
片手で少年の体重を支えながら、『淫魔』はもう片方の手を天にかざす。白く長い指の先に、電光とノイズが走る。
すると、空中に浮かび上がるように木製の『扉』が現出する。
「よし……って!?」
足首に違和感を感じた『淫魔』が視線を落とすと、細い触手が数本、絡みついている。小柄な異形は、そのぶん、動きが素早いのか。
「こんのお……ッ!!」
『淫魔』は、背中に魔力をこめる。ばさりっ、と音を立てて、双翼が大きく開く。
足首に絡みつく異形を無視し、少年を抱えた『淫魔』は強引に飛翔する。ぶちぶちっ、と細触手が引きちぎれ、粘液質の体液をまき散らす。
男子学生と『淫魔』の二人を包囲するように、魔性の蛸脚が幾本も身をもたげる。
病的な触手の閉鎖網が急速に狭まるなか、『淫魔』は高速で急上昇する。獲物を捕らえ損ねた魔性の蛸脚が、空を切り、校舎に身を叩きつけ、破損させる。
進路をふさぐように伸びる触手に対して、『淫魔』は身をひねり、螺旋を描くような軌道で回避しながら『扉』へと突っこんでいく。
そのまま、少年とともに、向こう側の空間へと転がりこんだ。
→【起床】
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