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是ことり(ここ ことり)
2018年1月23日 15:06
大坂夏御陣大光君軍功之私記ラストです。これまでのものはこちらから▽大坂夏の陣の後の恩賞について。興元も宗茂・長重のように戦功によって加増されるかと思いきや…?というかんじの内容。後半のほうで、『茂木町史』のほうに表記されていた漢字でどうしても変換できなかった箇所がいくつかあり、そこは□表記としています。虫食い文になっていますがご容赦ください。 後末、高名詮議の時、土方左源太一番
2018年1月23日 13:57
大坂落城前後の興元についてです。単身落城した大坂城に潜入したり家臣に出迎えられたり。飢渇してるとか言いつつ首二つとってるパワフルさ。①と②はこちらから▽ 七日夜、陣小屋定し大光君は、出羽守と参会、出羽守働、尤も勇壮なり、其の証人となるべし言上あらむとあるに出羽守答て曰、左はかりの働にあらず御尋ねあらば言上せん、此の方より言上致すべきにもあらずと、大光君曰、将の言誠にしかりたれど、角今そ覚
2018年1月22日 19:45
細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。興元が大坂夏の陣に参戦したときの軍功記について紹介していきます。①はこちらから▽軍法通りの備えにしないまま合戦が始まり、土井方の戦況と興元隊の高名について。あとまた馬の話がでてきました。関ヶ原の時といい馬の話が多い。 河又武左衛門出陣の朝、佐藤勘兵衛と甲冑御身に増れり、我必ず功を立てんといふ、武左衛門笑っら行て制せずんばあるべからずと
2018年1月22日 18:59
細川興元は細川藤孝(幽斎)の次男、細川忠興の弟。興元が大坂夏の陣に参戦したときの軍功記について紹介していきます。『茂木町史第5巻 通史編』より引用。長いので、一部中略しつつ分けて投稿します。大坂夏の陣において興元がどのあたりに備えていたか、あとは勝手に備えの位置を変えて周囲から反感勝ってる経緯とか。大坂夏御陣大光君(細川興元法名)軍功之私記 慶長二十年乙卯年関東大坂の御ハ睦破れ