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吃音の通級指導、続き。のびしろしかない親として。

来年小学一年生になる3番目の子、ミコを、通級指導に通わせるのが不安という記事を書き、その後の話。

私がひっかかっているのは「通常授業を休まなければいけない」という点だけであって、じゃなんで通常授業を休ませるのが不安なのか?という考えに至る。

その不安はまさに、私が「普通」の呪いから抜けきれていないことの表れだった。

二番目の子、ニンタは知的障害があるから普通のレールから外れても良い。

或いは、障害があってもなくても、学校が合わなかったらフリースクールだか塾だか、好きなところで好きに学べば良い。

私はニンタを育てる過程と、昨今の風潮に乗って、そう考えていた。だからもう、「普通」なんて言葉は乗り越えたと思っていた。

でも違う。

「学校に通えなくなるほどつらいなら」フリースクールなどに行けば良い。「授業に全くついていけないなら」普通のレールからはずれても良い。

そういう条件付きの「普通じゃなくていい」は、寛容なようでいて実は偏狭だ。私が許せば道を外れてもいい、と言っているようなもの。私にそんな権限があるわけもないのに。

私は、ミコに「普通」を求めていた。知的に障害がないあなたは、普通に、全部授業を受けてほしいと、そう思っていた。

ニンタに障害があると確定してから五年ほど経つが、その間に今までの価値観がどんどん矯正されていくのを感じていて、私も少しは成長したと思っていた。

でも、まだまだ。

学校がつらくなくても、行きたい場所があれば行けばいい。義務教育全てを網羅することは、手段であって目的ではない。

そんなことも、まだ私には分からなかった。

もう公開してしまったnoteで、自分の頭の固さをさらしてしまったけれど、恥ずかしさよりも安堵の気持ちが強かった。

私は頭の固い、古い人間だ。こどもを自分の思い通りにしようとしたりする。偏見もある。それがきちんと文章になって証拠として残っている。何度も読み返して自戒できる、良い教材だ。

自分の至らなさを何度も確認して、私は多様性を尊重する人間だ、なんて勘違いしないようにしたい。私には私の知らない世界があって、一生かかってもその全てを知ることは出来ないと、謙虚に生きていきたい。

当然だけれど、障害者の親だから人間が出来ている、なんて事はない。今回のことで身に沁みた。でもこの事実と向き合うことは、これから成長する可能性と向き合う事でもある。

頭をガンと後ろから殴られたような気付き。

親として、のびしろしかない。




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