見出し画像

N の砦 前編

あらすじ
 男性にも女性にも性的関心が無いノンセクシャル怜。その中でも彼女は、恋愛感情も欠如した「アセクシャル」という希少な存在だ。ノンセクたちが集まったウェブサイト「Nの砦」で知り合った二太郎は、秘密を共有する親友。子ども好きの怜は、接触なしで家族をつくる同志を探している。二太郎は恋愛感情のあるノンセクだが、子どもは望んでいない。ある日、尚人というノンセクが「Nの砦」から怜にアプローチをして来た。二太郎を立会人に結婚話が進むが、すれ違いが生じる。尚人の職場を訪ねた怜は、彼のもう一つの顔がノンフィクションライターであることを知り、自分たちがネタにされていたショックで怒りに燃える。

…………………………………………………………………………………………………………………………

「ウケ狙いのつもりなら、い、ま、い、ち、だな」
 二太郎が、カフェオレをスプーンでぐるぐるしながら、歌うように言った。
「真面目な要求だってば。どうせスルーされるだろうけど」
ブレンドのカップを置いて、私はため息をついてみせた。ここで待ち合わせる前に、ランジェリーショップの店員とやりとりした話。ゼロカップのブラジャーは、なぜ無いのでしょうか。理想の形はアイマスクです。あれに肩ひもをつけた感じのものを、是非商品化していただけないものか。と、主張して来たわけで。
「カップと胸の間の空間は、パットで埋めるものだって譲らないんだよね。そもそも意味のない空洞をつくりたくないって言ってるのに。なぜわかんないのかな。これから薄着の季節になるから、ブラが透けて見えるじゃない? だから、お洒落なレース仕様とかの平面ブラが欲しい。それだけなのに。あ、アイマスクには、ウケてたから。下向いて笑ってたもん」
「性同一性障害か、レズの男役に勘違いされてるかもな。怜はさ、顔がキリッとしてて、背が高いし。髪も短いから」
「世間の貧困なイメージだと、そっちに行っちゃうかな。LGBTの人たちも、苦労が多いから大変だよね。お互いに辛いけど、私たちよりずっと認識されてるもんなぁ。私たちって、マイノリティーの中のマイノリティーだもんね」
「LGBTの一部が、情熱持って発信してるからだよ。けど、俺たちって、知ってもらいたかねえだろ。存在理解のふりでもされたら、もっと頭に来るっていうか」
 喫茶「ゆとり」は、安心して話せる場所だ。私が住む駅から、バス停ひとつぶんほど歩いた住宅街にある。扉に店名の小さなプレートが下がっているだけの、茶色い木造一軒家。一階が店で、おそらく二階が住居になっている。年季の入った店内は、大抵ガラガラだ。店主は七十くらいの銀髪が似合う女性で、注文のやりとり以外は、カウンター横の小型テレビを見ている。どう考えても趣味でやっているとしか思えない。どうせテレビで聞こえないだろうが、私たちは、内容が漏れないように、いつも一番奥のテーブルに座る。
 二太郎は、スプーンを乱暴に引きあげてソーサーに置いた。タブレットを出して、ネットを開く。
「それよりさ、掲示板に、怜と結婚希望のカキコ来てるよ」
 向けてくれた画面には、「Nの砦」の見慣れた飾り文字が浮かんでいる。
《 ゼロ子さん、はじめまして。あなたと同じ三十四歳。Nセクです。セックス経験は無く、もちろん今後もしたくありません。世間にカミングアウトすること無く夫婦となり、接触なしで子どもを持ちたいという希望は同じです。ゼロ子さんはAセクなのですね。同じ仲間同士わかりあえると思います。親戚の子どもたちからは結構人気で、良い父親になれると思います。周りからは、癒し系と言われるんですよ。無宗教。病気なし。ギャンブルやらず。お酒は嗜む程度。身長百七十六センチ。安心してください、筋肉ムキムキとか胸毛生えたりしてません。お返事いただけたら、幸いです。ナオ 》
 どうよ? と、二太郎が返事を促す。           
「出来過ぎじゃん。フツーにモテそうだよね」
「顔のこと書いてねえぞ。オコゼみたいなヤツかも知んない」
「癒し系のオコゼか。ま、いいや。問題は、条件だから。すぐ返事しないで、ちょっと様子見る」
 私はタブレットを二太郎に返して、ブレンドをごくりと飲んだ。                   
 小さい時から、違和感はあった。小学三年生だったか、仲良しの女子に「好きな男子、秘密で教えて」と言われ、「倉田くんと、大原くんと、谷崎くんと」と、並べ始めると、「うっそ」とのけぞられ、「きゃ~。そういうの、恋多きっていうんだよ。すごぉい」と、目をまん丸にされた。
「だって、倉田くんは給食当番の時、お皿に分ける分量がびったりだし。大原くんは図工が得意だから、学級文庫の棚がボロボロしてるところを紙やすりで」
「違うよ。近づくと、ドギドキしちゃう人だよ」
「え。好きなのに、具合が悪くなるの?」
 聞き返すと、「だからぁ」と言いながら、ほっぺに手をあてている。何だかわからぬまま、ひとり舞い上がる彼女をじっと見つめていたら、「ありえない」と呟かれ、「うそじゃないよね」と念を押され。「今にわかるよ」と勝ち誇ったように言われた。
 五年の時。体育館の裏まで、男子二人に呼び出された。
「あのな、こいつがお前のこと、好きだって」
「何言ってんだよ。おまえだろ」
「ちげーよ。おまえだろ」
 ニヤニヤしながらもみ合う姿がコントぽかったので、ゲラゲラ笑って、「なーんだ。そんなことなら、教室で言ってくれればいいのに」と、返したら、次の日から遊んでくれなくなった。
 中学になると、クラスメートの変態が加速し始めた。女子が体操服の胸を揺らして走る。男子が裏返った掠れた声を出す。鼻の下にうっすら髭が生えて来る人も。小学生から、成長が早めの子はいたが、それは一部だった。中学になると、男子の変化は特に激しく、気持ちが悪いったらありゃしなかった。なのに彼らはそれを嫌がる様子もなく、もしかしたら自慢しているようでもあり、ぞうきん臭い教室で奇声を発していた。
 生理が始まっても平坦な胸。硬く小さなお尻。私はそれを、清潔の証として何より誇りにしていた。なんて運がいいのだろう。たとえばあの子のように胸が張り出していたら、切り落としてしまいたくなるだろう。少年のように薄い体のまま、一生過ごせますように。
 男性は、女性の胸だのお尻だのにむらむらすると( そもそもこの感覚がわからない )知識として覚えたから、絶対にそんな対象になりたくなかった。それにもかかわらず、ある時、身に覚えのない噂がたった。「女子のあこがれ園田くんを振った、タカビーな女」。まったく思いあたらない。私は何もしていない。納得いかないので彼の友人をつかまえて問いただすと、「おまえ、あいつが転校する時、これからも会いたいねって言ったのに。遠いから無理だよねって答えたじゃん」と、呟くように言われた。「どこか間違ってる? 私の何が変?」女ともだちに、真剣に訊ねた。「園田君の気持ちにもなってみなよ。私、羨ましい」。なんだか怒っていた。
 ああ、面倒くさい。ついていけない。疲れる。こいつら全員、理解不能。もう誰にも質問するもんか。しても無駄だとはっきりした。
男女が混じらない場所なら落ち着けるのか。不安定な磁場にいたくないと、ランクを落として入った女子高では、入学早々「男嫌いだから来たってほんと? レズ疑惑あるよ」と、耳打ちされた。当時、マジョリティーだのマイノリティーだのという言葉は知らなかったが、少数派に対する面白半分の発言に反感を持った。自分は、レズではないが、レズ側に共鳴する立場にいる、と。結局、ここも安住できなかった。バレンタインデーに自宅までチョコを贈ってくれた後輩がいたので、翌日その子の教室に行って「チョコ、ありがとう。あんなに豪華なヤツ、悪いね」と、ドア越しに叫んだら、「ひどい」と大泣きされた。
 大学は共学に行った。成体として落ち着いた男女と、友情の輪を広げたかったからである。「好き」と言われた時、どう反応すればよいのかわからない苦難については、「世にも珍しい奥手な女」というレッテルを甘んじて受け入れた。そのほうが、楽だったからである。男ともだちは、たくさん出来たが、つき合って欲しいと言われると、きっぱりと断った。合コンの目的を知り、出席することは一度もなかった。「ひとりっ子だから、男女交際や門限が厳しい」という理由を押し通した。実際、一人っ子だったが、厳しい親ということもなく、どちらかというと家族仲の良い家庭で育った。
 さすがに二十代後半に入ると、両親がいい人はいないのかと探り始めたので、「そうだね。孫の顔を見せなきゃね」と答えたら、やけに安心した顔に変わった。特に、母が。「いろいろ心配してたのよ」胸に手をあてて喜ぶ姿を見て、私が表に出さない瑕疵を察知してきたのかもしれないと、初めて思った。母は、私をどう勘違いしていたのだろう。
 私が何者であるのか。はっきりしたのは三十二歳の時だ。LGBT──レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの理解を求める声が増し、社会認識が深まり始めていた。この区分けが、私をまた混乱に陥れた。自分は女性が好きなわけではない。両刀でもない、脳と体の性別が不一致なわけではない。どこにもあてはまらない。でも、私は性的少数者だ。広義の愛はわかるが、相変わらず恋はわからない。性欲ってどんな感じなのかわからない。あえて考えないことにしていた疑問が、また頭をもたげた。同類はどこにもいないのか。仲間はいるのか。私は、ひとりなのか。
 自分の症状を、パソコンに打ち込んで検索を始めると、予想範囲内の答えが並んだ。
 二十代前半くらいまでは、経験不足による思い込みの可能性。
 ホルモン異常や精神疾患。
 性的虐待などのトラウマから。
 アダルトチルドレンの一種。
 違う、違う、違う、違う! 
 それでも探し続けると、見慣れない文字に目が留まった。
「アセクシャル」
「男性にも女性にも性的関心が全くない人のこと。ノンセクシャル(非性愛者)に属する。恋愛感情はあるノンセクシャルの中で、更に恋愛感情すら無い者が、アセクシャル(無性愛者)である。Aセク、エースとも呼ばれ、人口の一パーセント存在するとされる。男女どちらの性別にも現れる。遺伝に関係あるという指摘もあるが、根拠がないとされていて、原因は不明」
 ──これだ。自分の感覚、これまでの人生とぴったり重なる。
 私は、アセクシャルという人間に分類されるのだ。やっと、名前がついた。
 いる。仲間が。百人にひとりも? ほんとうに? イギリスのデータとあるから、日本の確率と違うのかもしれないが。でも、いる。同類はいる。とにかく、仲間がいる。
 キーを叩き続け、「Nの砦」というノンセクシャルのコミュニティにたどり着いた。二太郎は、そこにいた。恋はするが、性欲ゼロのノンセクとして。
               ◆
             
「一緒に行っていい?」
 二太郎は、棒つきキャンディーを口の外に出して、私を覗きこんだ。ピンポン玉くらいしかないのに、舐め終えるまでに三十分かかるやつだ。チョコバニラの香りが、鼻をかすめる。お腹が減ったから、電車の中でずっと舐めてきたという。バイパス路線で三駅ぶんの時間だから、キャンディーはだいぶ残っている。
「来てくれると、助かる。『ゆとり』に、今度の金曜の夜なんだけど」
同じ高さの、ちょっと柴犬っぽい目に答えた。私はヒールのある靴を履かないので、並んで歩くとちょうど良い。
「お見合いってことだよね。なら、俺って立会人?」
「そういうの、立会人っていうの?」
「じゃあ、チェックする人」
 初めて会った一年半前、彼は無精ひげを生やして現れた。「髭、気持ち悪い」という言葉がするりと口からこぼれた。普段の私なら、我慢して言わないことなのに。
「なら、剃る。怜と現実世界で仲良しになりたいから」
 教えたばかりの本名を呼び捨てにされた。それが、男同士で投げ合うような言い方で、心地よかった。あとから聞くと、童顔をごまかす髭と別れるのは嫌だったが、「一生の親友を逃すな」という声が、脳内に響いたからだそうだ。二太郎とは、直に会うまで半年に渡るチャットのやりとりがあった。私が「Nの砦」に入ってから数えれば、二年の付き合いということになる。彼がひとつ年下。同世代とあって、急速に親しくなった。「Nの砦」にアクセスして、彼とお喋りする時だけ、本当の私になれた。秘密の共有。楽に息ができる、大切な時間。そう遠くない街の住人とわかった時、会うしかないじゃんとなったのは、当然といえば当然であった。会う前から、親友になっていた。
 二太郎は、同類と結婚を望んでいるが、私と違って子どもは望んでいない。その違いさえなければ、私たちは世に言う「夫婦」の仮面を被ってしまえるのだけれど。
「あっついなぁ。このまま海、行っちゃおうか」
「やだよ。人だらけだもん」
「なんだよ。結局、『ゆとり』かよ」
 二太郎が、踵を返しかける。
「『ゆとり』だと、ご飯ものがないからさ。も少し歩いて、どこかでランチしよう。突っ込んだ話は、無理な環境だけど」
 私が住んでいるここは、あるバンドの歌に頻繁に登場する。街の通りにも、ビーチにもそのバンドの名前がついている。駅メロもしかり。湘南の観光地のひとつになっていて、海に降りれば、歌でメジャーになった烏帽子岩が波から顔を出し、遠く江の島が見える。
 改札を出て左の、海側エリア。年中通して人出が多いのに、こんな季節に海に向かうなんて余計暑っ苦しい。テレビや雑誌で取り上げるのは、海側ばかりだから、海のイメージの街になっていて、山側は知られていない。改札を出て右、山側に向かうのはそちらの住人だけだ。海側の住人は山側に行かない。洒落た施設や素敵なレストランは、みんな海側にあるから。金持ちの豪邸も。ちなみに、私の家は地味なマンションだし、海側のプライドとかは、まったくない。昔。高校の帰り道。電車から降りて、出口をいつもと逆に曲がった。あたりまえに背を向けてみたくなって。静かな住宅街をむやみに歩き回っていると、家並みにさりげなくはまり込んだ古い店を見つけた。やっているんだかやっていないんだか。小さなプレートが下がっていた。そう、「喫茶・ゆとり」は、山側にある。
「今までもさ、掲示板で結婚しませんか、のやりとりがあって消えて行った人たちいたじゃない。あれって、どうなったのかな。セックスレスで、無事に子どもが持てた夫婦、アドバイス下さいってカキコしても、ノーレスなんだよね。すっごい不安」
「成立したら、砦から去るだろ。結婚してさ、子どもがいれば世間の目は簡単にごまかせるじゃん。バレるはずがない」
「あのさ、喋るたびに、飴を出すのやめてくんない?」
「わかふた。このまま、はなふ。このままれ、いいんらな」
「このままじゃ、だめなんだよね」
 前を向いて再び歩きはじめると、二太郎は同じ歩幅で横に並んだ。
 焼けたアスファルトが、遠く逃げ水で揺らいでいる。
               
 いよいよの金曜だ。「ゆとり」の重い木の扉を開けると、店主がカウンターから「いらっしゃいませ」と微笑んだ。待ち合わせの場合は、必ず私が先に来て、二太郎が少し遅れて来る。店主は心得たもので、二太郎がドアを押して来るまで注文を取りに来ない。彼が席に着くや、二人分の注文をまとめて取りに来て、「ごゆっくり」と、カウンターに戻ってゆく。おしぼりと水を置いて、いったん去ろうとした彼女に、声をかけた。
「ブレンド下さい」
「ああ、はい。ブレンドね」
 いつもの人は? という顔をしている。親しくなったりすると面倒なので、「ええ」と短く答えて、スマホに熱中する振りをした。とたん、ドアベルがカロカロリンと鳴って、男性が入って来た。スラリとした体躯にこけしのような頭が乗っている。こけしのように頭が大きいのではない。顔が、こけしなのだ。柔和。私を認めると、まっすぐに歩いて来て正面に立った。
「ゼロ子さん、ですよね」
 ──癒し系、ね。そうか。この人か。
「はじめまして。ナオです。目印の青いブックカバーはもとより」
 テーブルの文庫本を指したあと、
「それらしき人は、あなたしかいないから」
 失礼します、と静かに椅子を引いた。
 店主がメニューを持って来ると、
「おすすめのコーヒーは、どれですか」
 発音が、柔らかい。
「はい、マンデリンでこざいます」
 いつもと違う展開に、彼女の声のトーンは少し上がっている。「ゆとりオリジナルブレンド」じゃないのかよ。今までそうだとばかり……。心で突っ込みを入れつつ、猛スピードで二太郎にLINEを送った。
{ オコゼじゃなくて、こけしが来た。今どこ? }
「ここ」
 スマホを握った二太郎が、ドアから顔を出した。
 
「ハンドルネーム、ナオこと、尚人です」
 私と二太郎は、顔を見合わせた。
「ゼロ子こと、怜です。えと、彼は私の親友で、今日来てもらったのは」
「ニッタこと二太郎です」
 二太郎が、ピースサインとともに、けけっと笑った。
「ええっ! ニッタさん。あなたが。イメージと違うなあ。けっこうシビアな書き込みしているから、もっと怖い感じかと。二太郎さんかあ。なんか、かっこいい名前ですね」
「そう? あのさ、俺には生まれてすぐ死んじゃった、太郎っていう兄貴がいたわけ。で、数年後に生まれた俺が、二太郎」
「だったら、次郎でもいいのでは」
「跡継ぎと言えば、太郎だろうっていう脈絡のない理由で。あ、俺んち八百屋。ちなみに、家族は俺がノンセクだって知らないから、今後面倒なことに」
「わかります。親にはとても言えませんよね」
「でもさ、妹がいるんだよね。だから、なんとか婿でもとってもらって」
「希望があるじゃないですか」
「そう言ってもらえると」
 話が横道に逸れそうなので、割って入る。
「あの~。今更説明してもあれですが、二太郎は、私たちのお見合いの立会人で来てくれました。予告なくこういう展開に巻き込んですみません」
 頭を下げると、
「いやいや、びっくりしたけど、かえって良かったです。同性の仲間にも会えたし」
 尚人が手を振ると、「ふたりとも、いい人ぶってんなあ」と二太郎が茶化した。続けて咳払いをすると、
「では。おふたりの特性確認から始めたいと思います」
 ノンセクシャルを、一括りにするのは無謀である。老若男女すべてに性的無反応。これだけは、全員共通の定義だが、接触反応に関しては、個人差がある。一切拒絶の人。手を繋ぐまでなら平気。ハグまでなら大丈夫など。私たちにとっては、重要なチェック項目だ。
「チャットでも知らせましたが、僕は恋愛感情のあるノンセクです。実は、今までにふたりの女性とお付き合いをしましたが、初期の段階でフラれました。理由は言うまでもありません。ハグまでなら、できるのですが。やはり、ヘテロとは無理です」
 尚人の言葉に、二太郎がうなずいている。二太郎も昔、ヘテロの女の子を好きになって同じ経過をたどったと聞いたことがある。
「私はアセクシャルだから、恋愛感情のやりとりっていうのは不可能です。わかってもらえると思うけど、人類愛はあります。恋はないけど、愛はある。そういう意味で、握手は大丈夫。ハグはどうかな。大学の時、文化祭の打ち上げで女の子がハグして来たんだけど。胸があたってきて気持ち悪かった。もちろん、その子が嫌いってわけじゃない。子どもなら、性別関係なくオッケーなんだけど」
 尚人がにこりと微笑んで、ますますこけしっぽくなった。
「僕、子ども科学館のナビゲータースタッフしているんです」
「へぇ、そうなんだ。私は学童で働いてるの。子どもっていいよねえ」
「学童って、学童保育の?」
「そうそう」
 ふたりとも前のめりになって、気づくと友だち言葉に移行していた。
「子どもって、そんなに可愛いか?」
 二太郎が、ぽそっと呟いたので、
「可愛いっていうだけの、上から目線の人は、わかってないんだよね。子どもってさ、身近で接すると賢くてほんとにびっくりするよ。大人よりずっと柔軟で、感性豊かで、吸収早いもん。参った、って思ってばかり。子どもをあなどるなかれ!」
 つい、力説すると、
「同感。はっとするような質問をしたり、発想が自由だし。教わること、多いよね。大人は山の上にいるんじゃない。子どもと同じ平野の先を歩いているだけに過ぎないって、僕は思う」
 尚人とは、うまくいくかも知れない。二太郎にオッケーサインをおくると、目を逸らして、カップを引き寄せた。
 家に帰って、パソコンを立ち上げる。「Nの砦」を開いて、掲示板の「結婚相手、さがしています」の私の投稿を削除しておく。もっと、いい人がいるかも知れない。ううん、ノンセクで子ども好きで、年齢も同じで遠距離じゃない人なんて、もう現れないかも。尚人とうまくいかなかった時に、また募集すればいい。
ついでに、ほかの人の書き込みを覗く。
《 首都圏在住で登山が趣味。非性愛の男性です。共通の趣味の方か、アウトドア派の方、友だちになりませんか。 ケン 》
《 十六歳の女子高生です。共学ですが男子にまったく興味がありません。女子にもです。友だちの恋ばなを聞くのが苦痛です。一度も人を好きになったことがありません。男子に告られた時に、無反応だったので、冷たい人という噂が立ちました。私はアセクシャルでしょうか。それがわかる検査とかあったら教えて下さい。それと、アセクシャルとノンセクシャルって、どう違うんですか。 るり 》
《 うげ。何、ここ。超キモイんですけど。WWW 》
 スクロールしていく。
《 カウンセリングを続けた結果、アセクシャルがほぼ完治しました。卒業します。みなさんも頑張ってください。ゆみりん 》
 治るだと? 私たち真のアセクシャルが、一番イラッとする言葉だ。あのね、アセクシャルは病気じゃないから。LGBTと同じで、診察とか薬とかで治せるもんじゃないっての。生まれた時から──もっと前、お腹の中にいる時からなんだよっ! ほんとにカウンセリング受けて、治ったと言われたなら、こいつのカウンセラー、資格剥奪すべきだ。この書き込みには、じきに二太郎の怒りコメントが入るだろう。あいつは、私と同じくらい真のノンセクとしてプライドを持っている。「フラれたショックでAセクになりました」とか、「好きな女とは出来ないノンセクです。そこそこのブスとならやれます」とか、ボーイズラブや二次元アイドルしか興奮しないという自称ノンセクたちに、鉄拳をおみまいする。ノンセクの定義もAセクとの違いもわかっていないのに、自分をさも特別な人間のように勘違いしているのが許せないのだ。純正じゃないくせに。
《 性欲というものがわかる奴は、ノンセクシャルを名乗るな! ここはお前の来るところではない。去れ!! ニッタ 》
 二太郎が偽物をぶった切るたびに、私の胸はスッキリする。ほかの仲間からも、つもりの人には同じように批判が来るが、二太郎の捌きにはかなわない。
 十六歳の彼女に、コメントを入れる。
《 るりさん、こんにちは。三十四歳のAセク、ゼロ子です。あなたの場合は若いので、まだ好みの男の子に出会えてないだけかも知れません。まわりからも同じことを言われて憤慨していたら、ごめんね。私の場合はアイドルに疑似恋愛をするという気持ちさえ理解不能だったし、激しい性嫌悪に悩まされたので、早くから自分は違うとわかりました。るりさんはどうですか。質問形式でAセクチェックできるページをリンクしておきます。ここである程度の診断は可能です。専門医に相談するのは、もう少し待ってみては。ノンセクシャルとの違いについてですが── 》
 彼女の不安がわかる。叫ぶ場所を探している。だからって、いきなり引き込みたくはない。もしも純正のAセクなら、専門医に行かなくても確信できるはずだから。いずれ砦の住人になる人なら、少しでも力になりたい。
十六歳の時の記憶が、フラッシュバックした。
「これ、怜にプレゼント」
 仲良しグループの括りになっている彼女が差し出したのは、『ようこそ初恋』という本だった。ごみ当番の時、焼却炉に投げ込んだ。
               ◆
              
 職場の学童は、自治体が運営する「放課後子どもクラブ」だ。そこで、子どもたちの安全を見守りながら、一緒に遊んだり、宿題をみたり、季節のイベントを企画実行して、毎日を過ごす。旧制度は三年生までが対象だったが、新制度になって六年生まで拡大された。と言っても、五年生を越えると、ぐっと人数が減る。子どもたちがやってくるまで、環境整備をして待ち、放課後にやってくる彼らを受け入れる。
「怜ちゃん、来週に落語の発表会があるんだよ」
 駆け込んできた四年の翔太くんの髪が濡れている。
「二学期になったのに、プールの授業あるの?」
「九月だもん。もうないよ」
「ありゃりゃ。汗か。まだ暑いもんね。ほら、水。飲んで」
 タオルで、頭をグリグリと拭いてやる。子どもの汗は汚いと思わない。それにしても、子どもって、どうしてこう大量に汗をかくのか。
 翔太くんは、拭かれながら「ひとはしつけて、うまいのなんの。おお、さんまとは美味なるものじゃのう」とぶつぶつやっている。
「目黒のさんま、だね」
「あたり! もうほとんど覚えた。帰りの会のあと、同じ班の子と練習したから」
「だから今日、遅かったのかぁ。心配したよ」
大人より暗記するの早いよねぇと感心していると、二年生の美咲ちゃんが、ねえねえねえと、割り込んで来た。
「今から、イリュージョンをやります。私、消えちゃうんだから!ちょっと、後ろ向いてて」
 ええっ、すごいね! 周りにいた子たちと職員を呼び集めて、美咲ちゃんに背を向けた。
「いいよ!」
 甲高い合図で振り向くと、カーテンの真ん中から下あたりが丸く膨らんでいる。 
 こういう子たちが。自分の子どもだったらと思う。我が家に、ただいま、と帰ってくる。お腹すいた。遠足のしおり、もらったよ。上履き、きつくなっちゃった。──お帰り。こら、ランドセルを投げちゃだめでしょ。手を洗ったら、いっしょにおやつ食べよう。遠足どこだっけ? ママにも見せて。もう小さくなっちゃたか。すぐ新しいの買わなくちゃ。
 いいなあ、この子たちが本当に帰ってきてくれる親たち。
「あのね、ピアノを習うんだ、あたし。もうすぐ。お姉ちゃんと同じ教室」
 春菜ちゃんが、体を左右に捩じりながら私のTシャツをひっぱる。
「ねえ、うちの子にならない? うちはね、ふっかふかの絨毯の上にピッカピッカのグランドピアノがあるんだよ」
「えええ! すごーい」
「うそ」
「怜ちゃん、嘘つきは泥棒の始まりなんだよ」
「泥棒かぁ。誰を誘拐しようかな。ひっひっひっ」
 魔女のお面をあてて、おどけて笑ってみせた。
「好きになり始めてるけど大丈夫? やっぱり、恋愛感情を持てる人と結婚したいから」
「接触してこない安心感があるから、平気」
 お見合いしてから半月。二太郎抜きで、時々尚人と会うようになった。秘密にしているわけではない。「ゆとり」で会っているのだから。結婚を前提として、相談しなければならないことがいろいろある、というだけ。
「子どもの問題となると、親にカミングアウトするべきかどうかなんだけど。怜はどう思う? ちゃんと擦り合わせておかないといけないことだから」
「カミングアウトする気ない。尚人もそうして欲しい。話した時の親の顔、見たくない。どうなふうに動揺するのか、実は見たくもあるけど、やっぱり嫌。ね、不妊カップルを装って、子どもを授かろうよ」
「方法は、他にもあると思うけど」
「どうすれば、いいのかな。産婦人科に行って、人工授精だか体外受精だかをお願いすればいいのかな。処女膜破りたくないんで、帝王切開にして下さいって」
「う~ん」
 尚人が、唸ったきり考え込んでいるので、勝手に続ける。
「前から何度も書き込みしているけど、ノンセクシャルの人で子どもを持てた人に呼びかけてみる。家庭をつくって隠れちゃった人も、アドバイザーとして砦に残って欲しいよね」
〝LINE!〟
 突然の着信音に、ふたりで飛び上る。
「二太郎からだ」
 私は、スマホに浮かんだ通知画面を尚人に向けた。
{ どこ? 俺、今から自由 }
 二太郎のうちは、家族四人で店に立っているから、交代で休みをとれるのだ。
{ 尚人と、ゆとり。おいでよ }
 送信ポタンをタップした。
    
「すげーじゃん。そんなとこまで進んでるんだ」
 二太郎が小さく叫んだ。尚人がチラリと私を見てから、
「ちっとも進んでない。二太郎の意見を聞きたい」
 と持ちかけた。
「何言ってんの、おまえら。俺に何を言わせたいわけ? 頑張ってくださいとかそういう事? まったく意味不明」
 突然、キレ気味の返事が返って来たので、私も少しムッとする。
「ちょっとは助けてくれたっていいじゃない。同じ仲間として」
「仲間として、だべりに来ただけだよ。なんだよ、もう。ふたりで深刻ぶっちゃって。フツーの話で、盛り上がろうぜ」
 機嫌が悪い。何かあったのだろうか。
「わかった。じゃあ、仲間として盛り上がろう。で、何を話そうか。僕たちの普通の話題って、結局、何なんだろうね。考えると」
 尚人が話し始めると、
「理屈っぽいんだよ、おまえ」
 二太郎が、低く呟いた。
 妙な雰囲気になってしまった。様子を見ながら、ブレンドを少しずつ口に含んでいると、尚人が静かに続けた。
「時々、わからなくなるんだ。怜や二太郎と知り合えて居場所ができたけれど、ますます世間を拒絶しているんじゃないかって」
 腕を組んだままの二太郎が、尚人を見返す。
「それでいいんだよ。『Nの砦』にかかわらず、ネットっていうのはみんな、自分の見たい所しか行かない閉じられた世界だろ。そこだけの法律でまわってんだろ。何をいまさら。あったりまえの事を」
「僕は、子どもの父親になりたい。怜も母親になりたい。ノンセクでない人に、理解してもらえなくていいんだ。僕たちの脳みそを貸しでもしないかぎり、わかるはずないから」
「だから何だよ。割り切れよ」
「僕たちの子どもとなる人は、どうなるんだろう。秘密を知ったら何を思うんだろう。教えなくても親が自分と違うと気づくのかな。僕たちって、LGBTの人たちがパレードしたり、結婚を認めてもらう努力をするような気概に欠けてるよね。発信すれば、ノンセクでも子どもを持ちやすくなるのかもしれないのに」
「行進しようってわけ?」
「そういうわけじゃない。ああ、自分、ずるいな」
 尚人が、椅子をひいて立ち上がった。
「ごめん。自分でも何を言ってるのかわからなくなった。うちに帰って、頭を整理するよ。喧嘩をする気なんて、これっぽっちも無いんだ。僕たち、同じ部屋にいて、同じ窓から世界を見ているんだもんな」
「哲学者かよ。カッコつけやがって。あいつと結婚したら面倒くさそうだせ。切っちゃえよ。最初から、なんかいけ好かない感じではあったんだよな」
 尚人が帰ったあとも、二太郎の怒りは収まらない。
「そうかな。核心ついている発言に、グサグサ来てたんだけど。子どもは親の持ち物じゃないからさ。重要な問題だよ。っていうか、あんた最初は尚人と意気投合してたじゃない」
「──俺は、怜の親友だよな」
「な~にを、いまさら」
「おまえ、アーリーレッド、好きだったよな」
「ああ、紫玉ねぎ。好き好き。って、何よ、いきなり」
「仕入れたばかりの旬のヤツ、持って来ようと思ってて忘れた。これから、取り来る?」
「いいよ、次に会った時で。遠いもん」
「そんなに、遠くねえだろ。母ちゃんがさ」
「ん?」
「怜のこと、けっこう気に入ってるみたい」
「なんでだろう。店先でちよっと挨拶した程度じゃん。あ、だからガサツなところがバレてないのか」
「彼女? とか嬉しそうに訊きやがるから、親友だってはっきり言っといた」
 二太郎がおかわりしたカフェオレを飲み終わるのを待って、じゃあ、帰ろうかと店を出た。道すがら、二太郎の玉ねぎ薀蓄話と、私の玉ねぎレシピ合戦で盛り上がり、駅につくまで途絶えることがなかった。
 改札口まで送って、いつものようにじゃあねと手を振ると、くるりと向き直って、
「尚人のうちって、行ったことある?」
 まだ、行ったことないし、家族構成とかも詳しく知らないと答えると、
「ふ~ん。じゃあな!」
 走って、消えていった。時刻表ボードを見上げると、発車まで余裕がある。急がなくてもいいのに。まぬけめ。
                      
「Nの砦」に、私あてのコメントがきていた。
《 ゼロ子さん。書き込み、拝見しました。夫、私とも、アセクシャルの夫婦です。結婚六年目で、二年前に女の子の母親となりました。いろいろお伝えしたいことがあります。チャットでやりとりしませんか。 すずめ 》
 来たっ! 待ってたかいがあった。私は、すずめさんに、コメントを入れた。
《 願ってもないことです。よろしくお願いします。すずめさんから日時指定して下さい。私は基本、夜は家にいます ゼロ子》
 急いで尚人にも、LINEを送る。
{ 砦の掲示板、すぐ見て! }
 すずめさんは、翌日の夜十時を指定してきた。
{ いきなりで申し訳ないのですが、チャットに誘ったのは、あなたのこれからが気になって、直接やりとりしておきたかったのです。私の体験をお話することは、きっとゼロ子さんのためになると思います }
{ わからないことばかりなので、どうぞよろしくお願いします }
{ こちらこそ。私の体験を文章にまとめておきましたので、それを貼りつけて送ります。まず、それを読んで下さい。質問には、そのあとお答えしますね }
 間髪を容れず、長い文章が来た。
{ 厳しいことから言わせて下さい。産婦人科に行って、理由も告げず検査も受けずに人工授精や体外受精を望むことは、まず無理です。結婚直後、私は、希望を胸に産婦人科をたずねました。人工的に子どもを持つためにです。ところがドクターは、「避妊せず通常の夫婦生活をしていれば、半年で七割、一年で九割授かります。ご主人も健康で、仲良く暮らしていらっしゃるのでしょう? 二年経っても妊娠しなかったら、不妊症と診断されます( 現在は一年です )。あなたはまだ若いし、気を楽に持って」と、話を打ち切られてしまいました。納得いかぬ私は、別の病院で結婚三年目と嘘をつきました。すると、内診や子宮卵管造影という検査をして、治療の方針を決めるというのです。説明を聞いただけで、気分が悪くなりました。では、体外受精でと食い下がったら、「それは人工授精で妊娠しなかった場合の、次のステップです。診察と処置は当然ありますよ」と首を振られました。呆然としている私に、「まず不妊の検査をしましょう。あなたに問題がなければ、御主人の検査を。基礎体温を測って、タイミング法からですね」。私は言下に退けました。
「検査はいりません。私たちは通常妊娠を望んでいません」
 男性ドクターの、奇矯な生き物でも見るような目を、今でもはっきり覚えています。
 ゼロ子さん、掲示板を見る限り、あなたは医者が簡単に人工的処置を進めてくれると思っていますね。甘いです。私たちの切実は、世間の非常識です。もしかして、ノンセクだとはっきり伝えれば、どうにかしてくれたのでしょうか。でも、言えますか? 私は、どうしても言えませんでした。お相手さんとも、よく話し合ってください。きついことを書いたのは、私と同じ思いをして欲しくなかったからです }
 ──光るディスプイを、しばらく見つめていた。
 喉が渇いた。喉が。とても。水が、欲しいな。
{ 読み終りましたか }
 すずめさんから、チャットが入った。そうだ……今、私は……。キーボードに指を置く。
{ すみません、お待たせしてしまいました。正直、何も知らなかったので、とても勉強になりました。ちゃんと考えたいと思います}
 勉強になった? 考えたい? 空々しい。今は、そんな。
{ 質問はありますか }
{ お子さんは、どうやって }                   { 義姉の四番目の子を我が子として、生まれてすぐ戸籍に入れました。結局、あれから病院へ行かず、不妊カップルを装って暮らしていたところ、条件が整って義姉の第四子を迎えることができたのです。( 義姉は、私たちがアセクシャルとは知りません )。そこまでは、大変な道のりでした。第四子が男の子だったら、( 一子から三子まで女の子です )あきらめて欲しいという約束もありました。私たちの場合は、運が良かったので、それに関してはあまり参考にならないと思います。ごめなさい。
 ゼロ子さん、体験に書いたように、人工妊娠と言えども、性的に不快な過程を通らなければなりません。私たちのように、拒絶反応が出る人間には無理です }
 すずめさんは、私を傷つけたであろうことを謝った。結婚してからは、「Nの砦」を覗いていなかったが、しばらくぶりに来たページで、昔の自分を見つけてしまった。黙っていられなくなったのだと繰り返した。
{ もう、ここには来ません。夫と娘と、世間に紛れて静かに暮らしてゆきます。どうぞ、質問があったら、今のうちに }
{ 娘さんは、今? }
{ 隣で寝息をたてています。私はスマホで布団の中からチャットしています。可愛いですよ。毎晩、眠る前に必ずぐずりますけれど。今は、いい子にスヤスヤです。ちなみに夫は、別の部屋です }
{ 貴重なお時間をいただけたことに、感謝します。おやすみなさい }
 喉が、乾いた。
 また、怒っている。と、呟く。世の中に怒っているのか。自分に怒っているのか。違う、怒ってるんじゃなくて。そうだ。尚人に連絡しなきゃ。でも、何て? どこから説明すればいいのか。
 喉が、カラカラだ。冷蔵庫から缶ビールを出して、立ち飲みすると口を拭った。
 尚人は、連絡を待っているだろう。ああ、なんだか嫌だ。
 いやだいやだすごくいやだ。
 
 一週間後、二太郎に電話した。
「未来小説じゃあるまいし。試験管の中で、人間の最終形まで出来上がるわけないじゃん」ため息だか、笑ってるんだか、ぼぼぼと、息を吐き出す音が耳で鳴る。
「てっきり、借り腹でもすると思ってた。そんな大金、どこから調達するんだろうって。怜、甘すぎるよ」
「あんたまで甘いって言わないでよ。最終形までなんて、そこまで馬鹿じゃないわよ。試験管でつくった受精卵を、お腹をちょっと切って入れて、産む時に、帝王切開すればいいと思ってたから。面倒な理由や、屈辱的な検査や、高額な処置をそんなにくぐらなければ
ならないなんて」
「そういうことって、先に調べない? 子ども欲しいなら」
「調べないよ。気持ち悪いから。昔、保健体育の生殖器官の図が怖くて、ホッチキスで綴じちゃった私だもの」
「そうか。俺は、友だちが、おお、とか興奮してるのが、不思議だった。──悪かったな」
「いいよ」
 少しずつ、落ち着いてくる。二太郎の声を聴いていると。
「尚人は、何て?」    
「同じように、呆れてたけど、なんか食い違ってる。人工的であれ、私を妊娠させるなんて最初から無理だろうと思ってたみたい」
「なんだよ、それ。なら、はじめから」
「言いだしにくかったけど、養子をもらわないかって」
「どこから」
「世の中には、恵まれない子がって。ちょっと、私、混乱してる」
 二太郎に、尚人の言葉を繰り返す。
「僕は、子どもたちそれぞれに敬意を持っている。それは怜も同じでしょ。居場所のない彼らを迎えて、家族を構成する仲間として一緒に高め合っていきたいんだ」
 なんだよ、それ。と、また返してくれることを期待している自分に驚く。
「次の日ね、学童で預かっている子のお母さんに会ったの。子どもの話題でやりとりした時、彼らの力を絶賛したんだ。そしたら、とてもありがたいけど、いいところだけしか見てないからですよ。そりゃ、学童でもいろいろ困ったことが起こるでしょうけど、自分の子として産んじゃうと、単純じゃないのよ。頭で考えてたのと、絶対に違うんだからって」
「だろうな。どっちにしても、おまえら結婚が先だろ」
「作為結婚に、計画の誤りは許されないのよ」
「怒るなって」
「怒ってないよ。ありがと、二太郎」
「今、冷静?」
「だと、思う」
「なら言うけど。お前たち、何か変だよ。ノンセクが家庭をつくって子どもを持つっていうことばかりに躍起になって。ヘテロの夫婦生活とは違うにしても、理想論より、お互いの普段の生活とか趣味とかさ。話し合って。そっからじゃねえの。あ~やだやだ。俺って
ば、こんないい人ふうのこと言っちゃって。こっちのほうが落ち込んできた」
 ムキになんなよ、と言って、電話は切れた。
 十月の日曜日。尚人の職場を、見に行くことにした。びっくりさせてやろうと、予告せずに「子ども科学館」をめざす。電車を乗り継いで、窓口でチケットを買い、中に入る。「重力体験コーナー」「宇宙の不思議」「実験教室」「おはなしプラネタリウム」などの入口が、青や緑に光っている。二十代から三十代くらいの、銀色のツナギを来た男女が、各ブースで説明をしている。親子連れの間をぬって、尚人を探した。どこにもいない。休憩中だろうか。案内カウンターに戻って、彼の名を告げた。
「申し訳ありません。本日はお休みをいただいております。ああ、もしかして、タウン誌の方ですか」
 コスチュームが似合うロングヘアーの女性が、左右対称の笑顔で見上げている。
「タウン誌? いえ、友人です。近くまで来たもので」
「失礼しました。紹介記事が載っているものですから、その件でいらしたのかと。御存知ですか」
 自由に持ち帰れるリーフレットラックから、薄いタウン誌を抜いて渡してくれた。パラパラとめくると、「ここです」と指さす。少しはにかんだ尚人の顔のアップが載っている。
「え、彼ってそんなに偉いんですか」
「いえ、こちらの仕事というより」
 彼女が続けようとしたところで、「早くしなさいっ」という声と共に、若い母親が男の子と走って来て、「実験教室の受付って、ここでいいのかしら。もう、始まっちゃってる?」と割り込んで来た。
「ありがとうございました。これ、いただきますね」
 タウン誌をバッグに入れて、受付を離れる。早く尚人の記事を読みたい。自販機コーナーでジュースを買うと、長椅子に腰かけてページを開いた。
 《 マイノリティーに寄り添うノンフィクションライター  
                      井原尚人さん 》
 
  社会的弱者、差別に悩む少数派を中心に取材を重ねて来た。対象となる集団、人物と行動を共にし、時間をかけて接してゆく。「短期間のやりとりだけで、腹を割ってくれるはずないですから」と、真摯に語る。受け入れてもらえず、取材拒否からスタートすることも多い。ケースによっては何年も寄り添うことがあり、「バイトで食いつないでます」と、笑う。もうひと  つの顔は、「子ども科学館」ナビゲーターのお兄さん。「もちろん子どもたちにも、真剣に向き合います」。穏やかな面持ちに似合わぬ熱い人である。
 街中を、ただ歩きまわった。ノンフィクションライター。取材。対象。インタビュー。マイノリティー。弱者。ノンセク同士わかりあえるね。家族を構成する仲間として、子どもを持とう。──嘘だったんだ。騙してたんだ。私を。二太郎を。仲間を。利用されたんだ。許さない許さない許すもんか。絶対に、許さない。
 ハロウィンのかぼちゃたちが、あちこちの店先で、嗤っている。目をつりあげて、ギザギサの口を歪めて。馬鹿め馬鹿め大馬鹿者め。

               ◆

 突風に煽られて、目を閉じた。
 障害物の無い土手下を、風がびゅうと抜けて行く。大声を出すと思うから「ゆとり」はまずいと、私たちは尚人を隣町との間にある河川敷に呼び出した。
 タウン誌を突きつけると、尚人は小さく呻いて下を向いた。
「何が言いたいか、わかってるって顔だな。この、スパイが」
 二太郎の目は、柴犬から土佐犬になっている。
 顔を上げた尚人は、ゆっくり息を吸って、時間をかけて吐くと、
「話を聴いて欲しいんだ」


⤵ 後編はこちら ⤵

             

#創作大賞2023

「公開時ペンネーム かがわとわ」