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『鬼滅の刃』遊郭編で考える そろそろレイティングを真面目にしよう

 『鬼滅の刃』「遊郭編」がらみの考察が無駄に長くなったので、置いておきます。『鬼滅の刃』「遊郭編」は、むしろ悲惨な歴史を描いており、悪いものではないと思います。むしろ秀逸です。

 「日本スゴイ!」と繰り返すような大人向けの本よりも、むしろ良心的であるとすら思える。『ゴールデンカムイ』の尾形百之助設定のように秀逸です。

 しかし、子どもが見せる作品であるという点はやはり避けて通れません。

「子どもに遊郭を舞台にしたアニメを見せるってどうなの?」

 そういう疑念は理解できます。むしろ避けて通れないと思うのです。

海外では対策済み、そんな避けられない【レイティング】問題に直面した

 『鬼滅の刃』は、HBOドラマのような要素があると私は常々感じておりました。実写版の想像もなされることが多い作品ですが、日本よりも海外のVOD(ビデオオンデマンド)が向いている気がしなくもありません。リメイクも決定した『トゥルーブラッド』とかなり類似点が多く、鴉によるメッセージ伝達は『ゲーム・オブ・スローンズ』(以下GoT)を連想させます。パクリというつもりはない。むしろインプットが豊富で素晴らしいと思います。『トゥルーブラッド』は『鬼滅の刃』ファンには是非ともおすすめしたい。世界観が似ています。まあ、R18なので大人のみで。

 そう、そんなHBOの特徴といえば、【レイティング(=年齢制限)】をしていること。

 だって『GoT』は、過激な描写のオンパレード。大量死、暗殺、遺体損壊、そして性的な場面が頻出します。未成年が被害者および加害者になる殺傷場面もあります。少女アリアが少年を殺害する場面は、アメリカ史に残るものとなりました。未成年女子による殺人はそれまでなかったのです。

これについては、こんな誤解混じりの認識があります。

「ポリコレを無視するからこういうことができるんだ! やっぱりポリコレを無視することがトレンドなのだ!」

これは違います。HBOが好き放題できるのは、【レイティング】を遵守しているから。18歳未満が試聴しないという前提のもとで制作しています。子役から出演している役者の場合、成人するまで自分の出演するドラマなのに見られなかったこともあるとか。

 映画『デッドプール』主演のライアン・レイノルズは、ファンから「4歳の息子に私がむっちゃ好きな『デッドプール』を見せたいんですけど!」と問いかけられ、こう返しています。

「『スパイダーマン』見せて「これが『デッドプール』やで言うとけや。それが子どもに対して取るべき態度やで。嘘つく時は真っ直ぐ目ェ見てな。がんばりぃ!」

 子どもの理解が及ばないようならば、そこは避けておいた方が無難です。『鬼滅の刃』がもしも深夜アニメならば、ここまで問題にはならなかったことでしょう。なまじ人気が爆発し、小学校入学前の子どもまで楽しみ、キャラクターグッズも売られるようになった。そのことにより、【レイティング】という壁に直面している現状があります。そこは避けて通れないでしょう。

 なぜならば、避けて通った結果の果てが、この問題であると思える。『鬼滅の刃』の場合、劇場版はPG12とされています。

 日本では海外と比較すると【レイティング】の定義が厳格ではないと指摘されています。テレビの場合、夜間放映にするような配慮はあったものの、配信が増えてくるとそれも難しくなってきます。

 少年漫画やゲームにせよ、明確な線引きがされていません。今まで見過ごされてきたことが、表面化してきたのが、2020年代という時代だと思えるのです。

【表現の自由】とは何か?

 漫画のレイティング、子どもへ見せることを考慮すると、話が脱線してしまいがちです。その理由を考察してみました。

 まずは【表現の自由】の問題です。漫画ばかりが問題視されたというのは誤解で、これは創作物が直面し続けてきた問題と言えます。印刷技術がが発達し、商業として流通し、人間の思想に影響を与えるとなると、そんな動きは出てくるものなのです。

 中国の場合、「四大奇書」のうち『水滸伝』と『金瓶梅』は禁止令が出されています。

 江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』では、当時の事件ではなく、南北朝時代の話だと検閲のがれをしています。

 漫画登場より前の推理小説も、「こんなものを読ませたら模倣犯が出る!」と論争になりました。

 発禁になってコソコソ読むくらいであれば、それでもまだよいもの。こんな検閲を許してはいけないと人びとを思わせたことといえば、昭和初期の苦い経験が背景にあります。

 1925年(大正14年)、「治安維持法」が成立しました。ロシアで革命を引き起こした共産主義の台頭。ジャーナリズムの興隆。そういった思想を封じ込めるために、拡大解釈と運用がなされてゆきます。ただでさえ、日本の近代警察制度は思想統制や監視に適しているフランス式でした。

 かくして日本では、命の危険すら伴う表現の弾圧が行われます。1933年(昭和8年)に拷問死を遂げた小林多喜二が、その犠牲の典型例です。1930年代には、日本のプロレタリア文学は終焉にまで追い詰められました。

 第二次世界大戦時ともなると、さらに弾圧が強められてゆきます。特定の思想、特定の国の作品を所持しているだけで、陰惨な目にあう人々が多く出たのです。

 「表現の自由を守る」といえば、本来はこのような悲劇への反省を立脚点していたはずでした。戦時中、ジャズレコードを泣く泣く捨てざるを得なかった。そんなこと二度とあってたまるか! そんな反省があったものです。そこに原点回帰してみてはいかがでしょうか? 映画『パンケーキを毒味する』のアカウントが凍結される。香港の「リンゴ日報」が廃刊になる今ならば、尚のことでしょう。

 それが1970年代以降の経験を基に語られることが増えてゆきます。『ハレンチ学園』のブームがスカートめくりを流行させたといった現象が、批判されるようになっていくのです。

 これはデマだという意見もインターネットにはありますが、作者の永井豪さん自身が「漫画を使い健全な形で発散させる」ことを意図していた旨の発言をテレビでしております。

 次に、1980年代末期に起きた「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」があります。この事件は犯人が“オタク“とされ、彼と同じように漫画を好む層がメディアによりおもしろおかしく取り上げられたのです。

 こうした状況を受け、「オタクは差別されている」という意見が根付きました。オタクを少しでも貶すようなことがあれば、許されることではないという空気が醸成されたのです。

 と、ここで話を終わりにしもよいのですが、冷静に考えつつ、論点を整理しましょう。

オタクは本当に“差別”されているのか?

 あなた自身の経験も考えてみてください。

 漫画やアニメやゲームが好きだといっただけで、何か差別や侮辱をされた経験はありますか? あると答えた方に思い出していただきたいのです。

 それは趣味だけが原因でしょうか? あなたの態度、性格、言動その他の原因はありませんでしたか?

 こう書いておいて、「ヘイトだ!」と指摘をありましたので、条件提示をします。

・あなたはいじめられたことがありますか?

・あなたの原因はアニメや漫画の愛好が原因であると、当事者に確認しましたか? 確証はありましたか?

 最低限、この二点をクリアできなければ「オタクだからいじめられた」とは言い切れないのです。申し訳ありません。そして、この問いかけはこういうことでもない。

「あなたがいじめられた理由は、オタク趣味ゆえだったのか? 他に理由はなかったのだろうか?」=「性格や言動が悪くていじめられたんでしょう!」

 いや、そうは言ってませんってば! 

 はい、話を進めますよ〜。

 オタクの差別とは何か? その“差別”とは、例えば選挙権が剥奪される、特定の職種につけない、賃金格差があるといった類のものでしょうか? 性別、人種、国籍由来の差別と同じでしょうか? 趣味を言った途端に採用を取り消されたとか。賃金を安くされたとか。賃貸物件に入居できないとか。そういう差別でしたか?

 差別とは? 偏見とは? そういう定義が曖昧なまま「オタクを下にみる傾向を感じるから“差別”!」と主張されますと、話が噛み合わなくなります。

 オタクだからキモがられる。アニメ好きだからモテない。そういった類の不快感は、“差別”とは別に考えるべきではないでしょうか。

 と、ここで話をずらします。

オタクは帝国になったのではないか?

 そもそも令和において、オタクは迫害されている弱者なのでしょうか?

 2005年にはオタクを好意的に取り上げた『電車男』がブームとなりました。2010年代ともなれば、アニメの絵を用いた広告や宣伝が定着し、もはや少数派とは言えない状況になっています。

 これは日本だけのことでもありません。海外でも、オタク=geekはスクールカースト下位とされ、ファンタジーを読んでいるような奴は暗くてどうしようもないとバカにされるものでした。しかし、状況は変わっています。

◆「オタク文化はもはや帝国側」SF作家の指摘が話題に——その真意とは…? https://virtualgorillaplus.com/topic/geek-culture-is-the-empire/

 献血なり、自治体のポスターにオタク絵が使われると炎上する。これぞまさにそれだけ大衆文化の中に溶け込んでいるからこそ、使用できたがゆえの問題ではないでしょうか? 差別されているとなれば、それこそ大騒ぎになるのではありませんか?

 話を戻しましょう。オタクは“差別”されているとします。あなたが悲しい目にあったことは認めることとします。

 けれども、そのことと【レイティング】への配慮は関係ではありませんか?

 「オタクが差別されている!」ということと、「場や状況にふさわしくない表現は配慮すべきである」という議論は本来別物であるはずなのです。

 広告、本の表紙絵があまりに過激である。こういった抗議があり、変更された例は、漫画やアニメ以前にもあります。山田風太郎の場合、文庫の表紙絵なんて古本屋にいけばそれこそ何種類もある。抗議を受けて差し替えているのですよ。
 こうした事例は「頭の固いおばさん連中がそうしたのだ!」とされますが、抗議した側の性別や思想は不明であることが多いものです。『くノ一忍法帖』の初期バージョンなんて、男性だろうと「これはダメだろう」となると思いますよ。佐伯俊男画伯、いいですよね。けれども、それとこれとは別。

漫画のエロは本能に根差した表現なのか?

「うるせー! エロは本能なんだよ! 三大欲求だ!」

 こういう意見は当然のことながらあります。これについては反論ができます。

 空腹のあまり、食べ物を盗んでしまうこと。睡眠不足で、ミーテイングで倒れて寝てしまうこと。

 それとどんな時でもちょっとエッチなポスターが見たいこと。これは並列にできないでしょう。

性欲は抑制できないというけれども、交番の前で痴漢行為を働く犯罪者はいるのかどうか? こういう論争に突入します。

 そして甘露寺蜜璃で考察しましたが、エロいと感じる表現や容姿は、時代によって変わるものです。


 見て、感じて、きっちり頭の中で判断してこそ、人間は反応するものなのです。

「エッチだとフェミが決めつけた二次元絵を引っ込めるな!」

 こういう反論は、本能のような素朴なものではなく、さまざまな論理展開をしています。そこを考えてみましょう。

 エロチックなもの、派手なものが有用とされている場合もあります。
 
 カジノを思い浮かべてください。バニーバール、ネオンサイン、派手な音響……こうした刺激が強いものは、人の欲求を刺激し、財布の紐を緩くする効果があることがわかっています。そういう原始的な本能にロックオンするわけです。

 それでも、「こういう表現はよくない」と言われた瞬間、不愉快になってしまうかもしれない。エッチな表現をすることで感じる喜び、それを制限されることで感じる怒りの正体は何でしょうか。

「うるせー! そうはいっても、フェミがガタガタ言うとイラつくんだよ!」

 そんな意見は当然あります。ここで、ちょっとその構図を考えてみましょう。

 歴史をみていてもわかることですが、性欲の発露というのは権力者の特権です。

 皇帝なり王が、後宮に美女を大勢置くこと。それは世継ぎをもうけるという意義もあります。しかし、顔すら覚えられないほど大勢の美女を置く、異国からまで献上させるとなれば、それは意味のない浪費の類になります。結局のところ、こうなってくると権力の行使と誇示になるのです。

 そうはいっても、現代ともなればそんな無茶苦茶なことはそうそうできません。それでも構図は変わらない。

 ある特定の層に訴える性的な図版を誇示すること。自分が何かの表現を「エッチだ!」とアピールすること。それは無意識かといえども、権力の誇示になり得ます。そしてこれは何も男性だけの問題でもないのです。

 2021年、大河ドラマの感想でこうしたものがありました。二次元じゃなくて三次元をせっかくだから引っ張っておきましょうね。三次元で、アニメではなく、騒いでいる主体が女性。それでもダメなものはダメでしょう。

 ◆「青天を衝け」大河名物!?吉沢亮のふんどし姿に反響 「大河恒例の裸」「大河のふんどしタイム」― スポニチ Sponichi Annex 芸能 https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2021/02/21/kiji/20210221s00041000569000c.html

同回には、吉沢さん扮(ふん)する成長した栄一が、本を読みながら歩いていて溝に落ち、泥だらけになってしまうシーンが登場。姉のなか(村川絵梨さん)に着物を脱がされ、半裸状態の栄一やふんどし姿で着物を洗う栄一が画面に映し出され、SNSでは「吉沢亮の半裸だなんてそんなご褒美」「お亮の腹筋見て死んだ。まさかあんな姿を見れるとは」「吉沢亮の半裸&ふんどし姿。鼻血出そう」「吉沢亮の尻が見れるのは青天を衝けだけ」「吉沢亮のお尻なんてえっちすぎますぅ!!」とファンの興奮を誘った。

 SNSで裸体に興奮したと、なぜ表明したいのか? 私にとって謎めいた感覚でした。こうした不用意な発言をどうしてしてしまうのか? そのことをおかしいと指摘すると、激怒される心理は何か? 個人的にはごめん被る。この大河が嫌いだからでもない。未成年の裸体を窃視して盛り上がることそのものに嫌悪感があります。たとえこの大河が好きでも、こういう盛り上げ方はして欲しくありませんけどね。『麒麟がくる』で「おいで砲」だのなんだの、別ドラマファンが無理矢理こじつけて盛り上がっているニュースにはどうかと思いました。

 で、これを引っ張ることで大河ファンにヘイトしているって? だったらこういう余計な憎悪を買わない程度の配慮は必要ではありませんか? 簡単ですよ! 未成年(※役者の年齢でなく、劇中設定であっても)の裸を出さなければよい。それだけ。

 さて。いろいろと考えていくうちに、理解できてきました。

 彼らにとって、男性を性的に消費することとは、男女平等の実現であり、自分たちの社会的地位があがったと実感できることなのかもしれない! 無意識下でのことかもしれませんが、「女だって男のように振る舞ったっていい!」という心意気の発露と言えるのではないでしょうか。

 けれども、冷静になってみましょう。そうした妄想にせよ、欲求にせよはルールが必要です。それを破れが批判されることも、覚悟が必要なのです。

 要するに、エッチな表現を楽しみ、それを表明することは本能ではなく、権力を発露できる喜びがある。それが制限されることには、社会から抑圧された不満がある。

 そういうことです。本能ではなく、社会性による感情が湧いてくるのです。

“そっちこそどうなんだ主義” whataboutism

 論点がずれていく。悪いくせだ。“そっちこそどうなんだ主義”を考えましょう

 なんとなくモヤモヤする。不快だ。楽しんでいただけなのに、不当な制限をされた。そんな不快感を解消したい側。

 不快とか、そういう話でもない。見せるべきであるのか、制限すべきなのか。そう問いかけている側。この手の論争は、議論が噛み合わないまま、憎悪だけが煮詰まる結果になります。

 その原因は、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の反対にあると言えます。

 論争になる側が、どうしてそう主張しているかもわからなくなる。この手の話になると、議論がよくわからくなることがよくあります。

 お互いが議論すらしようとせず、“どっちもどっち論”へ向かう。“そっちこそどうなんだ主義”(Whataboutism)とも呼ばれます。

「このポスターがエロいっていうけど、この女性誌の表紙はどうなんだ!」
「遊女がつらいっていうけど、当時の男だって辛かったんじゃないか?」
「遊郭編がダメだというなら、あの描写だってよくないのではないか?」

 結論から言いますと、論点ずらしをしているだけで、何の意味もありません。そのうちポジショントークに陥り、「フェミが悪い!」「いいや漫画アニメファンが悪い!」となって、何もよいことはないのです。

 そういう論争に疲れ果てると、こういう結論に陥りかねません。

「結局のところ、昔から言われていた荒らしはスルーが圧倒的に正しいwww」

 果たして、それはどうなのでしょうか? 少し考えてみましょう。

臭いものに蓋をした結果を直視する

「スルーw」

そういうインターネットスラングに頼らずとも、説明する言葉はあります。

「臭いものに蓋」
「みてみぬふり」
「お茶を濁す」

等。その結果の果てが大人であることも考えましょう。こんな悩みがあります。

◆「子どもに遊郭ってどう説明する?」 年内放送「鬼滅の刃 遊郭編」、嬉しいけど困ったというママたちの声(たまひよONLINE) https://news.yahoo.co.jp/articles/2ab54e0d4a3283b8acddebbf5daebd9000490153

 これも主語が「ママたち」というのも奇妙な話でして。「たまひよONLINE」という媒体ならばそれも仕方ないとは思います。けれども、子どもの教育を担うのは親、特に母親だけではないことを思い出しましょう。

 織田信長の傅役である平手政秀の切腹は有名です。江戸時代まで、日本では男子は父、女子は母が教育をするものでした。

「男女七歳にして席を同じゅうせず」

 そんな儒教由来の教育がなされていたのです。

 それが明治維新以降、西洋由来の良妻賢母思想が根付き、「教育をするのは母親なんだ」と根付きました。今何かと話題の夫婦同姓や天皇家の男系継承同様、明治以降の新しい伝統といえるのです。明治当時はそれが脱亜入欧としてもてはやされたのかもしれませんが、今はもう21世紀です。考えをアップデートすることも必要でしょう。

 それに子どもの教育とは、親だけがするものではありません。社会は家族単位で構成されてはおりません。教育の範囲にせよ限界はあります。

 あなた自身の経験を振り返ってみてください。親の言うことは常に正しかったと言い切れますか?
 我が子の疑問に全て答えられる親になれますか? 子どもとは家庭だけではなく、社会全体が育ててゆくものです。そこも考えねばならないのです。

 そして私たち大人も、前世代の教育成果の結果であることも考えてゆかねばなりません。

「遊郭はセーフティネットだしw」
「遊郭はキャバクラだよw」
「遊女っていうのは会いに行けるアイドルみたいなものだねw」

 こういう説明を大人が堂々としているとすれば、それは何か教育段階で問題があったと推察できます。

 『鬼滅の刃』は、遊郭を肯定していません。遊郭が安全で快適なセーフティネットであったならば、妓夫太郎と堕姫は鬼にならなかったことでしょう。

 彼らのように幼くして生きたまま焼かれたような存在は、そこまで多くはなかったにせよ。
 彼らの態度や落ち度があったにせよ。
 それでも搾り尽くされ、苦しんだ人々がいたことは確かなのです。遊郭で命が簡単に消えていったことを描いているのです。

 それなのに、セーフティネット論のような過小評価が出てくるのだとすれば、これぞ前世代教育欠陥の大いなる証明と言えませんか?

 議論が堂々巡りになった結果、【レイティング】問題のようなことは話し合われないまま、有耶無耶になってしまう。それが繰り返されて、対処においてさして進んでこなかった。それが日本の表現周辺だと思えるのです。

 ここに至るまで、いくらでもエロなり暴力の表現と、それが引き起こす論争はあった。

 そこに向き合わず、批判されたら「三角眼鏡をかけたPTAのおばさんがうるさいんですよw」と、時代錯誤的な逃げ方をしてきた。言っている側は若者気分なのでしょうが、そんなPTAは過去の産物です。

 そうしてのらりくらりと臭いものに蓋をしてきた結果に直面していることを、まずは考えてみませんか?

「荒らしに反応する人は荒らしです」

 こういったルールが通じていたのは、個人サイトや大手掲示板の時代です。論争の拠点がSNSに移り、【フィルターバブル】や【エコーチェンバー】といった現象が発生し、議論が加熱するからには、むしろ危険なのでしょう。

 火縄銃が主力の武器になると、それ以前に作られた城では守りきれなくなった。そういう事例は歴史をたどればいくつも見つけられます。

 個人サイトや大手掲示板時代のルールを持ち出す人がいたら、百戦百敗をするつもりなのだと判断することも必要でしょう。

 『鬼滅の刃』「遊郭編」が、論争を引き起こすのであれば、それこそ天元のように派手にやってやるのもありだと思います。

 論争を通して得るものがあり、今後のためにもルールが定まるのであれば、むしろ結構なことではないかと思えるのです。

 ただし、それも議論のルールを踏まえた上でのこと。偏見で決めつけ、相手を傷つけ、不確かな情報を信じて、何も進歩がなければ意味がないのです。

 もう時間はありません。
 中国と韓国が伸びている。大手掲示板の住人はここで「ちょw」と冷笑しそうになるかもしれない。しかしネット漫画広告やゲーム広告を思い出してくださいよ。

 韓国の漫画。中国のゲーム。
 増えているじゃないですか。

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