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◆人が感じる不安と真正面から向き合う思考/手に入れたものは一過性の幸福/選択肢が増えるのは良いことなの?

◆誰でも孤独であることには慣れるもの

【1】独りでいる時間は孤独に非ず

 特別仏教に関して詳しいわけではないし、これから書くことは般若心境で書こうとしているわけでもない。これは、あくまでも私個人がこれまでの人生で体感としてそう思うというだけのこと。

 なぜ独りでいる時間が孤独ではないのか。まずここでどういうことを意味しているのかを想像してほしい。一般的な意味では、孤独というものへのイメージは、字のごとく独りであり、さびしい印象もある。

 私がなぜそのように思うのか。それは、独りでいる時間というのは、単純に周りに誰もいない時間のことで、何一つ制約されることのない自由な時間のことでもある。そのため、孤独というものを「さびしい」という感情とリンクさせるのは間違った認識であるというもの。

 では、私が意味する孤独とは何か。それは、どんな環境であれ、周りに大勢の人がいる時に感じる「心の孤立」や「心が感じる疎外感」のこと。家庭、学校、会社、その他様々な人間関係において感じる心の孤独こそ、本来さびしく感じてしまうもの。

 コロナ禍が始まってから2年あまり。もういくらか諦めもついてきて、独りの時間を過ごしている人たちも慣れてきているだろう。ただ、中には、そのことに寂しさを感じ、耐えきれなくなっている人たちも少なくはない。逆に、新学期が始まってメンタルが弱っている学生もいるかもしれない。

 いっそのこと、授業は在宅にしてしまえばいい。安心して授業を受けられる。それも、動画再生形式なら、授業を受けたい時に受けられる。ただこれも、現代ならではの課題を多く孕んでもいるような気はする。

 小中学校時代に学校ではなく在宅で授業を受けることが当たり前になってしまったとしたら、対人スキルの面では普段学校でしているような友達同士のやり取りをする機会が減ることになり、小さいうちからそういう経験をすることで大人になってから誰もが問題なく人と直接話せるかというと、そうではないケースも出てきても不思議はないかもしれない。

 でも、孤独感の面で言うと、今は小中学生でもスマホやタブレット端末でゲームをしたり動画を観たりして楽しむのが常態化している時代。それだけでも孤独感は紛れるだろうと思う。将来的に現実社会に馴染みにくい世代になりそうなケースも出てくる可能性は否めないけれども、時代の流れ、社会の変化の影響を避けて通ることは難しい。

 こういうご時世だからこそ、家庭内でのコミュニケーションは重要度を増しているのかもしれない。子供は子供で、家にいても何かしら感じ取ったり、考えていたりするもの。それを声にして聴こうとする姿勢は、今最も必要とされる要素の一つになっているだろうと思う。

 特に、子供が何かに対して不安に感じていることがあるとするのなら、それを気兼ねなく話してもらえるような親子関係を第一にすることで、励ましになったり勇気づけになったりするかもしれない。家庭内で孤独を感じるというのは、小さい子供にとってはつらく悲しいこと。後になってから自分の子供にそういう思いをさせてしまっていたことに気付いても、なかなかそういう過去を上書きするのは難しい。子の成長過程でこそ、不安へのケアは怠ってはならないものだろうと思う。

 幼少期の家庭環境によって、成長と共に形成される人格や性格はおよそ決まってくる。生まれ持ったもの以上に、物心ついてから受ける様々な影響や体験のほうが、その子の将来を良くも悪くもするし、希望かはたまた絶望か、未来に対して抱く思いの種類も決まってくるのだと思う。

 どうしてこういう視点で文章を書いているのかというと、自分は生涯において自分の子供を授かることはもうないからだ。だから、そこを敢えて、親と子の両側面から孤独について考えてみようと思い立った。

 大人になってから人間関係に悩んでいる人たちはきっと想像以上に多いのだろうということは、世間の様子を見ていて感じること。一体どれだけの人たちが神経を擦り減らしながら働き、一体どれだけの人たちが精神を患ったかを実体験や日々飛び込んでくるニュースなどから想像するに、メンタルが疲弊しやすい社会であることは間違いないのだろうと思っている。

 もちろん、強くあろうとすることは大事なことかもしれないし、精神的な弱さが顕著であれば、何をしていても不安に駆られたり楽しくなかったりして毎日が憂鬱になるのかもしれない。私自身としては、どちらかと言えばメンタルは言うほど強いほうではないため、不安に感じていることもあるし、時に体調を悪くすることもある。

 それでも、今以上に弱くならないようなメンタリティーは維持していきたいと思っている。孤独に対する認識をアップデートしたのはもうずっと昔のことで、下手したら小学校時代には独りでいてもさびしいと思わなかったし、周りに人がいて感じる心の孤独にも慣れていたかもしれない。

 比較的、近所の子供たちと遊ぶことよりも、一人遊びしていることのほうが常だった幼少期だったため、複数人とつるんで遊ぶということには少なからず抵抗感を覚えていた。地方の田舎のため、標準語でしか話せなかったこともあって方言の友達との会話には常に抵抗があったのが最大の要因で、きっと周りの地元の同級生も自分に対して抵抗感は感じていたかもしれない。

 そうこうしているうちに「友達って案外面倒だし疲れるなぁ・・・」と思うようになっていった。で、これって別に珍しいことではなくて、似たような思いをしている人たちって口に出して言わないだけで結構多いと思うんだよね。ところが、大抵の人たちは周りに合わせて無理をして演じているんだよね。演じるということには精神的なスタミナを要するため、私なんかはすぐに疲労感を覚える性格だった。

【2】人間関係で感じる精神的ストレスはフィルターの役割を果たしてくれる

 初対面でも2~3言葉を交わしただけで「なんかイヤだ」と感じたり「なんか落ち着く」とか「普通に楽しい」と感じたりできる人というのは基本的に繊細なメンタルだろうと思う。本来は、そういう人ほど自分が話したい人と話したくない人の内心的な仕分けは上手なはずなんだけど、そういう人ほど相手に合わせてしまうんだよね。

 私はというと、話していてイヤだと思ったら何度か間接的にでもジャブを入れて相手が離れていくように誘導する。ジャブ程度で通用しない場合には、何かしらのきっかけと同時に思いっきり右ストレートを入れて嫌われに行く。(※実際に手を出すのではなく、言葉のやり取りで相手との心に距離を持たせるという意味)

 そして、その相手の周りにいる人間たちをも一掃する。なんでもいいんだよ。「あいつムカつく」でもいいし、「あいつヤバい」でもいい。そうやって相手が言いたいように思いたいように誘導してやるだけで、向こうから話しかけてくることはなくなるから、ここぞという時は思いっきり遠ざけることができる。そうは言ってもそこまでやることなんて滅多にないけどね。

 あまりにもこちらが興味のない自慢話や愚痴しかしない人とか他人の噂話が好きな人の会話に時間を食われるのはホントにつらい。そういう種類の人間たちから嫌われるよりもつらい。話が終わった後に「時間を無駄にした」と思うのがイヤだし、無理して付き合うと確実にメンタルが疲弊するから、そういう割り切りはしてるかな。

 それをするには、「お人好しな人」とか「人から嫌われたくない人」にはちょっと難しいだろうね。グイグイ来る感じの人で言うと、性格の良いチャラ男と性格の悪いチャラ男なら、どちらもチャラ男だからマシンガントークは基本うるさいんだけど、性格の良いチャラ男なら会話に付き合ってもいいかなと思ってしまう。そういう人のおバカっぷりは良い意味で面白いからね。

 自分のメンタルフィルターのままに、自分が話したい人を振り分けるってのはできるのであればやったほうがいい。

【3】労働環境の悪化と就労・納税の義務の間に生じるジレンマ

 上記リンク(Yahoo!より引用)は、改正労働施策総合推進法により、中小企業においてもパワハラ(=パワーハラスメント)対策を義務化することが明記されることになった、というもの。

 昨今の世界情勢の急速な悪化や乱れに伴う各国の経済状況は深刻さを増しているわけだけれども、コロナ禍が始まって以来、およそ2年4か月が経過する中で、様々なことが同時多発的に社会問題視されてきたように思う。

 政府のコロナ対策により飲食業界は痛みを伴い、ロシア軍のウクライナ侵攻により世界各国が国防面で緊張度を高める中、ロシア国内の諸外国企業の撤退が相次ぎ、ロシアへの度重なる追加経済制裁などにより、小麦の物価上昇はまず真っ先に騒がれた。医療分野では、銀歯の原材料であるアマルガムや金銀パラジウムの価格高騰により歯科医師会では、銀歯に代わる素材の開発が急がれているとか。

 何より、一般市民の生活を大きく圧迫している石油価格高騰や食品関連の物価高騰は、長期景気低迷しているこの日本では二重三重苦を強いるものとなっている。円安が進む中、米ドル購入や仮想通貨への資金移動が顕著に表れていることは、日本から膨大な資金が他へ流出していることを意味している。

 では、そういう状況下にある様々な企業や店の職場環境はというと、治安の悪化も相まって、全く影響を受けずにはいられないような状況を物語っている。日々、ザックリとYahoo!のヘッドラインをトップから最下部まで見るだけでも、実にいろんなトラブルや事件が全国的に起きていることがわかる。

 直近で不可解な事件でいうと、道路に100m置きくらいに釘を打ち込んであり、走行した20台ほどの自動車のタイヤが相次いでパンクするというニュース。こうした無差別事件もあれば、職場内のパワハラやセクハラなどといった身体的精神的な加害事件の発生件数も増加傾向にあることが見て取れる。

 生活のためには働かないといけないし、働かないと税金を払うこともできない。しかしながら、自分が働いている職場の環境が過剰なストレスを感じるようになったとしても、簡単に転職できるほど身軽な人などそうそういるものではない。家庭持ちの人であればなおさら、安易に決断できることではない。

 今や独身者とはいえ、転職すれば給料が上がる(かも?)という不確かな求人情報に流された結果、現実を目の当たりにする人も珍しくはない。実際、こういう社会環境で“働く”ということについて、コロナ前の認識のままでいいのだろうかと思えてならない。むしろ、身の安全を最優先に考えるのであれば無理すべきではないし、無理した挙句ケガをしたり病気を患ったりしたとしても後の祭りで、常に誰かが責任を負ってくれるわけでもない。

 今、誰もがそういう不安を突き付けられた状態で仕事をしているのだという認識はおおよそ間違ってはいないのではなかろうか。

 「働かないと生きていけないのだから、働くのは当たり前のことだろう!」という一方通行な思考で、働いていない人(不労者)を侮辱・蔑視する言い方をする人たちがこの日本には極めて多いと感じられる。より税金を多く払っている者が優位であり、不労かつ税金を払っていない者は社会のゴミ扱いをするこうした風潮は、一体いつから生じたものなのだろうか。

 その風潮だけで見ると、特別近現代の話ではなく、日本のみならず、世界のどの国でも似通ったものは古い時代からあったわけで、「働かざる者食うべからず」とはどこでも誰でも言っていそうなことである。

 職業選択の自由はあっても、就労不労選択の自由はなく、“働けるなら働け”が社会通念として根強い。そして、そのことを当たり前のこととして認識している人たちが大多数だというのが現代社会。

 では、「安心して働ける場所」とはどこにあるのだろうか。現実的な話、求人サイトや人材派遣会社は、労働希望者を紹介して紹介先から得るマージンを収益源としてはいるものの、果たしてその職場が安心して働ける場所であるかどうかは保証などしていない。

 「多少厳しい環境かもしれないけれども、頑張って下さいね!」と、あくまでも自己責任として処理する傾向にある。非正規労働契約を可能にした労働派遣法が施行されたのは1986年。その時から、正規雇用の門は狭くなり、特に就職氷河期世代である1970年~1985年生まれの人たち、現在40歳前後の人たちは、自動的に低賃金労働を強いられることとなったわけで、働くこと一つとっても満足に手取りが残らず、生活そのものの難易度は極めて高まったと言える。

 安倍政権下で囁かれた「同一労働同一賃金」も今となってはどこへ行ってしまったのかというほど全く耳にしなくなってしまった。働く意欲を削がれる環境でどうして頑張ろうと思えるのか、甚だ疑問でならない。厚労省の統計では、「働いていて楽しい」と回答した人は全体のうちわずか4%ほどしかいないというのはこの日本のリアルな実情である。

 「仕事は楽しい必要はなくて、あくまでも会社に利益をもたらすためであったり、稼ぎを増やしたりするためのもの」と割り切れる人はいるらしいけれども、大半は毎月の給料やボーナスをもらうために会社にしがみついているのが現実だろう。本来、誰もそんな仕事人生を望んではいないだろうに、およそ30年間に及ぶ長期景気低迷はそういう働き方を強いる反面、なかなか景気回復しない日本経済にずっと苛立ちを感じながら、いつ倒産しても不思議はないような環境が続いている。

 日韓大陸棚協定について少し調べてみたところ、2028年に満期を迎えるらしく、九州の日本海側沿岸の北緯33度から36度付近にある大陸棚に眠る天然ガスや石油の行方が昨今取り沙汰されていることが分かった。なんでも、埋蔵量は日本円換算で2000兆円にものぼるとされている(Wikipedia/日韓大陸棚協定より)。共同利益を模索する意図で策定されたであろう同協定は期限切れを迎えると同時に、対馬や尖閣諸島の領土問題があと5~6年の間に再燃することは間違いないだろうと思われる。

 これに、中国が介入してくると話はもっと複雑化することは自明の理。しかし、中国も黙って見過ごすことはしないだろう。南シナ海に建設されつつある人工島の軍事基地は今後の脅威となることは間違いない。中国と台湾の軋轢も深まる中でのロシア軍のウクライナ侵攻である。

 韓国も中国も、日本が世界最大の産油国となることを妨害してくる可能性は極めて高い。とはいえ、人工島に軍事基地を建設している中国は、南シナ海の領有権がどの国にあるかについて法的根拠はないとして我が物顔でいる。もはや言葉でなんとかなるような相手ではない。国際法が機能することを祈るしかないのだろうか・・・。

 何にせよ、あと10年という過渡期をどう耐えていくかが日本政府の正念場となることはハッキリしているけれども、現首相である岸田総理大臣はエネルギー価格の高騰について国民に理解を求めるに留まっているような状態。この痛みを乗り越えた挙句、同海底石油資源まで奪われるようなことは避けてほしい。いや、避けたいはずである。それでも、そのための外交力は今の日本政府には不足していると言わざるを得ない。

 日本の未来を大きく左右する問題を先延ばしにしてはならない。日本の領海であることは決まっているのだから、断固として譲ってはならない。唯一の日本の希望なのだから。中国ほどとはいかなくても、先手を打つ意味でいつでも採掘できるような体制を整えてもらいたいものだ。

 日本の景気回復は、ただそれ一つでこれまで湧いて出てきた様々な問題をいくつも上書きしてしまうだけの力となるはずで、その先にあるのは、それこそ「安心して働ける場所」だろうと期待したい。

【4】不安に苛まれるばかりでは知るべき情報を見落とすことになる

 前回の投稿で、「日本にも優秀な人材は多く存在するはず・・・」といったようなことを述べたけれども、優秀な人たちでさえも日本の経済状況を回復できないのはなぜなのかというのは、今日本が抱えているあらゆる問題の一つとして議論されなければならないと思う。

 結局、一部の人間たちが既得権益を貪るような国も企業も、仮に彼らが本当に優秀な人物たちであろうとも、多くの人々を不幸にする元凶であることは間違いない。悪行を擁護する気はさらさらないものの、全国的に特殊詐欺事件が横行していることは由々しき問題ではあるものの、これに手を染める人たちがどうしてそのような選択をするに至ったのかについては、自己責任論では到底片付けられない根深い問題が他にいくつも転がっていると考えるほうがいいだろう。

 非通知でかかってきた電話に出てみたら、最初は健康食品の音声ガイダンスが流れていたのに結局は詐欺案件だったり、ショートメールにAmazonやauを名乗った偽の注意喚起メールも最近では珍しくなかったりする。Amazonもauも結局のところ添付のURLへ誘導して個人情報を入力させてクレジットカード情報を盗み取ろうとする内容で、ある意味で分かりやすい注意喚起になっているのが現実。それでも引っかかってしまう人が後を絶たないのはなぜなのか。

 一理あるのは、人の感じる不安に付け込む心理的な策略であるために引っかかってしまうというところ。普段かかってこない番号からの着信、普段使うことのないショートメールに見慣れたよく使う企業名を名乗った偽のメール、これらは間違いなく人の不安に直接働きかける要素が含まれているため、その点で言えば計算されたものだと言える。

 でも、事、詐欺メールが誘導したいであろうURLへのアクセスは、若い世代のスマホユーザーにはなかなか引っかかりにくい。アドレスを見る限り、Amazonやauのものではないことが明らかで、知っていれば引っかかることなどほとんどない。むしろ、普段から届くメールに無頓着な人のほうが自然と詐欺予防になってしまっているというところもあって、何とも時代遅れな手法だと言わざるを得ない。

 大手ECサイト運営会社名を名乗った偽メールが届いた時には、昨今そういうスパムメールが届く事案が相次いでいるといったような注意喚起が公式HPに掲載されていたりするので、自身がよく使うアプリの公式サイトはたまに覗いておくというのも大切だろう。

 疑問に思ったら・・・とよく聞くけれども、端からそういうものには目もくれないくらいの態度でいるほうがいい。届いたメールの内容に思考を働かせる前に、怪しいものは片っ端から着信拒否設定をしたり削除したりしていくといずれ届かなくなる。そもそも、ショートメールなんて今更使っているほうがおかしいくらいで、届いたメールの真偽を確かめること自体が無駄であることを認識したほうがいい。

 きっと、本物そっくりの偽サイトへ誘導できるだけの優秀なIT技術を持った人間なのかもしれないけれども、優秀な人間でさえそういうことをするに至るには、何かしら事情があってそうなったのかもしれないけれども、実にもったいない宝の持ち腐れでしかない。

◆手に入れたものは一過性の幸福

【1】手に入れたものを失う恐怖と向き合うということ

 優秀な人間たちとはいえ、誰の心の中にも鬼は宿る。身の丈に合わない行動をしたり、身の丈に合わない富を手にしてしまうことで、人は理性を保てなくなるのかもしれない。

 これについていえば、一度味わった過度な快感を人は生涯忘れることはできない生き物。感覚と共に刻まれた記憶はそれほどに鮮明に記憶に残る。欲に溺れて人生を破壊するのは他の誰でもない“自分”なのかもしれない。

 “元の自分には戻れなくなる”そういう選択は、できることなら生涯で一度たりともしてはならない。悪事というのは回数を重ねるごとに感覚を麻痺させる要素しかないように思われる。悪事が「バレなかった」という経験値は、おそらく罪を犯した人間の感覚を麻痺させるのだろう。

 悪事に手を染めて手に入れたモノもカネも快感も、結局はバレるのだと認識しているうちは人間らしくいられるかもしれないが、そういう理性が働かなくなれば、現状どんな地位にあって、どんな社会的ステータスを持っていても、誰だって最後には自分の罪と向き合うこととなり、その恐怖からは逃げることはできない。

【2】“知識”量に陶酔するナゼ・・・

 人は、真っ当に手に入れたものでも、失うことには恐怖するもの。失わないように気を付けていても失うことがある。私は昔から個人的に思っていることがある。「どうして人は手に入れたがるのか」と。これはモノやカネだけではなく、“知識”にも同様に考えている。

 世の中には、“知っていること”そのものを自身のアイデンティティであるかのようにその知識をひけらかす人が一定数いるもので、そういう人たちを見ていて純粋に「すごい」とか「かっこいい」などとは思ったことがない。「物事に詳しい」というのは、情報収集能力としては優れているだろうけれども、結局どんな知識も他からインプットした二次三次的な情報に過ぎない。

 現代における知識の価値というのは、その多くが使いまわしで、個人の発見による一次的情報というよりは、あちこちで使いまわされているものがほとんどではなかろうか。中には、参考文献を明らかにせず、論文の書き方のいろはも知らないような投稿もネット上には多く見受けられる。メディア関係の記事も例外ではない。中にはいつの時代の情報かというような古いものを比較対象にしているようなものもあったりする。

 でも、そういう知識の扱われ方をするようになったのは、インターネット上で簡単に手に入る知識が莫大に増えたことに起因し、ユーザーが自分の言葉で表現することの妨げとなってしまっていることも無関係とは言えない。少なくとも、どこから引っ張ってきたソースであるかを明記する癖くらいは身に付けておかないと、文章全体から漂う二次三次情報の羅列でしかないことに読者をガッカリさせるだけのものにしかならない。

 最近では、文章の一部分からどのソースから引用したものかが自動的に検出される機能もあるとかで、このnoteも著作権対策には抜け目がない。パクった文面はすぐにバレ、検出され次第投稿は運営側で非表示にされる。参考文献はちゃんと明記しようね。

 現代では、“知っていること”や“詳しいこと”そのものが価値を持たなくなっていて、何次情報であれ、それをどう料理して自らの見識を述べるかが重視されてきている。逆に言えば、参考文献の引用元はいくらあってもいいけれども、それらを明記した上で「如何に自分の言葉で見識を述べるか」を意識して知識を活用する能力を高めていくことが発信者に求められている。

 文章投稿だけではなく、音声や映像もすべて、完全なオリジナルに固執する必要はないけれども、オールパクり作品は明るみになればもう見向きもされなくなるため、それくらいのリスクを孕んでいるということだけは正しく認識しておきたいところ。

 そもそも、知識とは、今と昔では量も質も異なるわけだけれども、知っているからどうということもないし、知らないからどうということもない。知らなければ調べればいいわけで、どんなに常識的なこととされているようなことでも、調べて解決すればいいだけのもの。ネットのなかった時代と現代とでは、知識の価値は大きく変化している。

【3】暴露系YouTuberの出現に警鐘を

 人の悪事を暴く正義のヒーローを気取っているのか、失うものは何もないからという短絡的な理由で、昨今騒ぎの中心になっている“ガーシーch”は皆さんもご存じだろう。自身の特定の人物に対する恨みつらみを晴らすため、と本人は公言しているものの、どうして彼がYouTubeの収益化を実現できたのか甚だ疑問でならない。

 人には少なからず知られたくない過去の一つや二つはあるもので、敢えてそれを暴露することで社会的制裁を与えてやろうとする醜悪な目的しかないように見受けられる。

 ところが、ガーシーchの登録者数は100万人を超えて、一部のユーザーに注目されている。そういう動画を観たい人が大半だろうが、中には、同業であろう週刊誌関連の人たちのフォローも含まれているに違いない。

 すでにネタ切れと言われているガーシーchには、視聴者からの垂れコミ情報を元に動画配信をするようになりつつあるとかで、近い将来、名誉棄損やら何やらでアカウント削除に至るだろうとも言われている。本人は海外から配信していて自分の身は守られている状態で活動しているのだろうけれども、やっていることがあまりにも醜いためにどんなに話題になっていようと一切興味は向かない。

 結局彼は暴露したいだけ暴露して対象の人物の人生を壊して満足できるのだろうか?どうもそうは思えない。むしろ、若い世代への悪影響のほうを懸念すべき存在でしかない。

 人間同士の足の引っ張り合いは、残念ながらどこでもあることで、今ではツイッターやらYouTubeやらで、あちこちでドンパチしているような有様。どうして日本のネットユーザーの民度はこんなにも低いのだろうかと思えてならない。ガーシーchはそう長くは続かないだろうから意識外に置いておきたい。

【4】成功に憧れて選択を間違えるのも人間

 もう情報商材に引っかかって数十万円を払うとかいう人は、本人が気付くまで引っかからないとわからないだろうね。こればかりは理屈ではない。そもそも、「〇〇すれば誰でも大金持ちになれます」みたいな売り文句を信じてしまう人たちというのは全員カモにされるだけだからね。

 「おいしい話ほど損をする」と思っていて間違いはなくて、“本当に成功している人たちはかつて誰もやったことがない分野で先駆者として成功しているわけで、市場が飽和しつつある中でマネしたところで成功できるはずがない”(青汁王子)というのが自然の摂理。マネはマネでしかない。

 真似るなら業界二番手になれるくらいの確信がない以上、中途半端に手を出してはいけないし、果たしてそうなれたとしても成功とは言い難い。

 いやしかし、なぜ人は成功したがるんだろうね・・・。「業界売上No.1」とかよく企業の広告宣伝で使われてたりするけれども、それで?という疑問しかない。たぶんこういう理屈だろう。「業界売上No.1だからぜひお試しください」と。それで飛びつく人しか集まってこないって話。これももう古いよね。

 それにさ、ただでさえ加速的に総人口が減っていて、母数のπが萎んでいってるんだから、もう日本国内では死語だね。一番売れてるよって言いたいのは売り手側の感情であって、消費者はそんなことを頼りに商品を選んでないってのが現実。強いて言うなら最初の興味に対してのみ効果があるだけで、リピーターを増やせるかどうかはそのあとのまた別の話になってくる。

 最近見られるのは、この高い商品よりこっちの安い同種の商品で代替可能みたいな料理動画とか。商品って「これでなければならない」っていう確信みたいなもので選んでる人ってたいてい騙されてるよね。ブランド志向の人とか特に。

 端末に関してはOS慣れがあるからね。Androidを使っていた人が機種変更でアップルにして、次の機種変更でAndroidにするとかいうことはほとんどないんじゃないかな。でも、Androidは、それぞれのメーカー端末の機能性に大差はないし、アップルも新シリーズを出してきたかと思えばカメラの解像度が上がったとか若干CPUの処理速度が上がったとか充電が少し長持ちするようになったとかその程度。

 そもそも疑問なのは、日本国内のアップルシェア率が50%近いということ(2021年MMD研究所調べ)。なんでも、若者の間では“型落ち”でもiPhoneが好きということらしい。正直、一時期仕事で貸与されたiPhoneやiPadを使ってみて思ったのは、使いづらい、OSアップデートが多い、文字入力が面倒、などといった具合に基本操作性能としてはAndroidのほうが圧倒的に優位性が高かったということで、少しも魅力を感じなかった。

 強いて言えば、画像やファイルの端末間移動に関しては簡単だったということくらいだろうか。特段これといって利便性に優れているとは感じなかったが、おそらく若者の間で人気なのはゲームアプリにおける処理速度がAndroidよりも速い、ということで選ばれているのかもしれない。確かに、ディズニーツムツムというパズルゲームをAndroidと比較してみると、iPhoneのほうが1.5倍から2倍くらいの速度差があったのを記憶している。

 どちらを選ぶにせよ、もちろん自分の好みに合ったほうを選択するというのが元々の消費者志向だと考えられるけれども、どうもスマホに関しては国内のシェア率が何年にもわたって影響しているのかもしれない。

◆選択肢が増えるのは良いことなの?

【1】選択思考時のストレス

 私なんかは外で食事をする時、店に入ってメニューに目を通し始めてからこれと決めるまでに3分とかからずに決めることが多い。よく行く店ならメニューなど見ずに決めることもあるほど。

 たまに、店側の事情でその日の販売が停止されているメニューの場合は、第2の候補としてすぐに決めたりもする。とにかく、“選ぶ”ということに時間をかけるのがあまり好きではない。服を買いに行く時でも、大してファッションにこだわりがあるわけでもないということもあって、ササっと売り場を見て回って「これとこれとこれとこれにしょう」と次々とカゴに入れてレジカウンターに向かうほどとにかく早い。

 おそらく、私みたいな人間と食事に行ったり買い物に行ったりしても、連れ添う人は誰であれきっとつまらないと感じるかもしれない。しかしこれはあくまでも自分用の買い物の時であり、相手のものを買う時には当然(多少は)配慮する。多少はね。ゆっくり選ばせてあげないと途中で怒りだして帰るなどと言い出されてはこちらも困る。

 ここではあくまでも私自身の選択思考をベースに述べていく。小さい頃、母親が何種類かのケーキを買ってきた時のこと、いつも最初に選ぶのは父親。次に母親。姉、兄、そして私の順だ。(※今回のテーマとは全く関係ないので、「家庭」「親子」「兄弟」については敢えて触れずにこのまま話を続け、また別の機会に書くことにする。)

 うちの家では、末っ子の私から選ぶということはなく、基本的には年功序列で、そうではない場合でも必ずジャンケンをして選ぶ順番を決めたりしていたものだ。そもそも私は、目の前にある数種類のケーキを見て、どれが食べたいといった感情はなく、どれでもいいというほどの見方しかしていなかった。残ったものでも全然良かったのだ。

 大人になってからも、普段購入する日用品なんかでも普段買っているものを買う傾向にあり、店側がチラシにしているお買い得商品目当てに買い物をすることはほとんどない。(本当は安く済ませられるのなら安いものを買えばいいという考え方もあるため、ケースバイケースで物によっては“安いからこっちにしよう”という場合もある。)

 というくらいに、“選ぶ”ということに関しては何も期待していない。どちらかというと男性よりも女性のほうが「選ぶ楽しみ」というものを理解しているのかもしれないし、男性はその辺に無頓着だったりするのかもしれない。

 食べ物に関する好き嫌いで言うと、私は嫌いな食べ物、食べられない物が一切なく、なんでも食べる雑食人間なので、高校生くらいになるまでには苦手なものもほとんど克服していたのではないかと思う。このことが私にとってはプラスとなったのはありがたかった。目の前に出された食事を見て、これは好き、これは嫌い、これは食べたくない、などといったごちゃごちゃと考えながら食事をすることを考えたら、これほどストレスなことはないだろうと今は思う。

 昔は、歯科矯正をしていたこともあって、病院で調整した日から3日間くらいは歯が浮いて痛みを伴うため、硬い肉や野菜を噛むことがつらかったし、特に、ゴムのような触感のほとんど味のしない“かまぼこ”は、幼少期の私にとっては天敵のような存在だった。ラーメン屋に行くと必ずといっていいほどトッピングにナルトが2~3枚乗っかっている。当時は嫌々食べていたものだ。かまぼこ好きな人からすればなんと贅沢な物言いだと思うかもしれないが、今は好きなのでご安心を。

 酒のつまみにかまぼこをワサビ醤油で食べるのが好きだったり、普通に笹かまも好きだったり、今は好きで食べている。

 毎日やることについては、当たり前のこととしてやることがほとんどなため、いちいち考えず無意識にできる。自分用の歯ブラシを二本置いて、歯を磨くたびに「今日はどちらの歯ブラシで磨こうか」などという意味不明なことはしないだろう。

 こんなふうに、毎日の生活において、なるべく「選択思考を使う必要のない習慣」を持つことで、多少、日々感じるストレスも軽減できるのではないかと考えている。2つ3つ、場合によっては5つ6つの中からどれを選ぶか・・・といったようなことは少ないにこしたことはないと思っている。あくまでも私の場合だが、どれを選んでも大して日常が変化するわけではない。固定できるものは固定して、選ぶ必要のないようにして、不必要に選択思考を使わないようにするというのは、私にとってのストレス軽減の手法の一つ。

【2】どんな資格を取ればいいかを考える

 もう、これ一つ取っても面倒だなと感じてしまう。多くの人たちは、資格を取得することで就職に有利で給料アップの材料になる、といった考えを持っているかもしれない。しかし、現実的な話をすると、誰もが目論見通りに成功しているわけではなく、結果的に取得した資格が仕事上の兼ね合いで役に立たなくなった人もいるだろうし、その資格を取得していたが故に従事していた業務で大ケガをしてしまったり、最悪のケースでは命を落としている方も少なくない。

 一番多いケースは何かというと、取得難易度が高い資格を取得している高給取りほど、実務における様々な問題に直面しているということが、長年見続けてきたニュースからも伝わってきている。

 日付としては昨日になるけれども、静岡県で中学校教師と消防士の男二人が18歳未満の女児を連れ回しているとの警察への通報により、誘拐の容疑で逮捕された、という記事が飛び込んできた。今、国家公務員、地方公務員の間に何が起きているんだろうね。あまりにも多すぎる。国民のために、教育現場を任されている教師や火災や救命のために従事している消防士が、どうしてそういうことになるのか。

 こういうことが起こると、所属する学校や消防署の長が“遺憾砲”を発射することの繰り返し。厳密には、「この度の事件において当学校職員(当消防署員)が逮捕されたことについては、現在警察にて事実確認を行っており、事実が明らかになった際は厳正に処分することを検討致します。市民の皆様の信頼回復につらつらつら・・・」といったことを、もう何度見聞きしてきたことだろう。

 本当に、この現状が各所ごとの指導で何とかなるものなんだろうか。なんともする気がないんだろうか。“誠に遺憾”を禁句にしなさい、と私は言いたい。端折って言うんじゃなくて、そこを具体的に説明・弁明しなさいよ、と。どこぞの国会議員みたいな文言をマネして手抜き謝罪をするんじゃないよ、と。

 地方・国家公務員すべての逮捕歴とか有罪歴とかは具体的には公表されていないけれども、例えば学校の教師は、元いた学校の同じ地域内での教壇復帰は今のところ不可能に近いらしく、市や県を跨いで復帰する時に戸籍上の名前や住所を変更するとかいうことをしているらしい。ところがだ、未成年女児系の犯罪歴のある教師は、またやるんだよね。行く先々で似たようなことをやっちゃうんだよね。

 どこだったかな、どこかの県の中学校関係者が、犯罪歴のある元教師の教員免許を永久はく奪して再交付を受けられないようにするための署名活動をして5万件以上の署名を県に提出したとかしないとか。親の立場からするとそりゃーいやだろうね。怖いし気持ち悪いしで、犯罪歴があるのを知っていて教師の家庭訪問(今もあるのかは知らない)で面と向かって話すとか絶対無理だと思うんだ。

 でも、一方では、“教員免許の永久はく奪と免許再交付禁止は、更生後の社会復帰の機会を失うことに繋がり、これはこれで、また別のところで被害者が生まれる可能性を孕んでしまうことになりかねない、”といった議論もあるわけ。(AbemaPrimeより)

 完全に教育現場から追放することは可能にして、子供たちと接することのない部署の業務に就くことで社会復帰を成立させる方法も考えられていたりするけれども、どうなんだろうね。どんな方法を取ったとしても、プライベートの時間で野放しになるわけだから、教員として復帰するしないに関係なく、やる人はまた同じことをやるって考えたほうがよくて、社会復帰後も簡易的にでも監視対象としておく必要性があるような気がする。

 こういうことをさ、教育組織とか警察署とか消防署とか場所ごとの指導とかではなくて、そもそも地方・国家公務員としての資格を取得するにあたっての敷居が低いんじゃないのかなと思えてならないのよね。言ってしまえば自動車の運転免許だってそうじゃん?どんな人でも仮免・実地試験で合格すれば免許取って車を運転できるようになるけれども、人間性までは問えないじゃん。

 よくよく考えてみると日本の資格制度って、現実的に穴があり過ぎなんじゃないかね。医療現場でも“医療過誤”は時として起こることは仕方ないとしても、それを隠蔽したりカルテ改ざんしたりするようなこともあるわけで、医薬品メーカーと癒着しているお医者さんなんかも実際いたりするんじゃないのかね?ドラマの見過ぎだと言われそうだけど、みんな既得権益が好きなのかな?

 そう言えば最近の子供たちの間では「公務員になりたい」って言ってる子供が増えているみたいだけど、絶対親の入れ知恵でしょう。このご時世でも“毎月給料はもらえるしボーナスももらえる。んでもって共働きなら食いっぱぐれなく安心して暮らしていける”みたいなことを子供たちに刷り込んでるんじゃないの?

 ほんとね、残酷すぎるよ、そんなウソ。親がお金ベースで考えてるからそういうことを言い出す子供が増えてるんじゃないの?ハッキリ言うけど、それは子供の将来を考えてのことではない。親の腹黒い感情から出てることだと思うけどね。公務員なら安心だなんてそりゃーいくらなんでも言い過ぎなんでないかい?

 縦の関係が強い組織だからね、それに耐えられない子は向いてないでしょう。こういうことを刷り込んでる親はみんな甘いよね。現実的には、ストレスがすごい環境ばかりだと思うんだ、公職関係は。よっぽど胆力のある人間じゃないとやっていけない気がするよ。安易に子供たちに公務員になれなんて言うもんじゃない。ちゃんと現実に目を向けたほうがいい。中には自動化で人がいらなくなる職種だってあるくらいだからね。最悪、日本の国政も地方自治も機能しなくなる恐れもある。

 前回の投稿でも書いたけれども、子供がやりたいことはやらせてやればいいし、一度やりはじめたからといって最後までやり通せと言うんじゃなくて、時折子供たちの気持ちや意思を確認してやるくらいのことはしてやらないといけない。無理やりやらせたり、無理やり目指せと言ったりすると、やりたくない、なりたくないと思っている子供たちは将来かなり高い確率でグレる。結果的に自分の親を怨むことになる。自分の子供から怨まれてもいいならやらせればいいんじゃないかね。子供だって一人の人間だ。親が子供の意思を代替するような教育や躾はその子の未来を壊すことになる。

 資格の話に戻るけれども、資格にかかわらず、どんなことでも、選択する時というのは慎重になっていいと思う。現状、日本にどれだけの数の資格が存在するのかは知らないけれども、優に1000は超えるでしょう。安易に公務員になれと言うんじゃなくて、一緒にどんな資格があるのか親子一緒になって知ろうとする努力くらいはしたほうがいい。それをせずにただ資格を取れと言うだけなんてあまりに雑過ぎるでしょう。怖いよね、そういう親。

【3】職業選択の自由とは

 ※「職業選択の自由」の意味は検索して調べるとわかりやすく出てくる。エン転職のサイトにわかりやすくまとめてあるので、気になる人は見てみるといい。

Yahoo!Japan検索「職業選択の自由」エン転職

 昔は性別・年齢・出身・退職時期等によって、転職を制限されたり同業他社への転職を禁止されたりしていたんだね。それに比べれば今は随分と自由になったんだなということが上記サイトから見て取れる内容になっている。

 ただ、職業選択の自由という権利が保障されているとしても、残念ながら入社後のことは就職先企業に一任されているわけで、安心して仕事に従事できるかどうかは定かではないんだよね。そういう意味で、これは企業によってまちまちだろうけれども、内部環境の透明化や公表されている情報の真偽は不透明なことがまだまだ多いというのが現実だろうと思う。

 “入社してみないとわからない”というのは、入社する側にとってはギャンブルだし、採用する会社側も一人採用するのに数十万の経費がかかっていうわけで、人材仲介業者の役割が両者の不透明な部分を明確に紹介できているかと言えば一概にそうとは言えないのもまた現実。

 私も派遣会社で働いていたことはあるけれども、一時期とんでもない思いをしたことがある。建設会社の二次下請け企業で建築材となる鉄筋の溶接業をやっている小さな会社だったんだ。そこではね、1本1キロの鉄筋を正方形みたいな形(ほかにもいろんな形状の溶接あり)に溶接したものを30本束ねて、金属バンドで二か所縛る作業ってのがあったのね。

 わかる?一束30キロのものを荷台に移し替える時は一人で抱えて移動させるんだよ。毎日腰が悲鳴を上げたし、金属結束バンドも手に持つ機械は軽く5キロくらい。4~5回やっただけで握力持っていかれるくらいしんどい作業。これをおよそ100日間やってリタイアしたんだけどね、二度とやるかと思った。あの職場を紹介した担当者を怨んでたよね、当時は。

 派遣会社の担当者と関係がうまくいかないと、とんでもないところに放り込まれることもあるんだなーという良い勉強にはなったんだけど、あれが人材派遣業の闇だなって思ったよ。派遣会社って人材紹介してマージンをもらって利益にしている会社だから、一通りやってしまえば派遣社員が辛かろうがどうしようがあとは見せかけだけ心配している素振りだけ見せて働かせようとするんだよね。うん、間違いなく闇深いよね。

 実際のところ、労働派遣法が施行されてからというもの、派遣社員として働き始めた人たちに言うほどの自由があったわけではなく、行けと言われた場所に行って仕事を覚えて働くというものでしかないんだよね。うん、思い返してみればやっぱり闇が深いわ。結構辛抱強くなったかもしれないけどね。そのあと就いたキャッシュレス関連の営業職は比較的楽だった。毎日20キロ前後歩く日々だったけど、鉄筋工場に比べたら屁でもなかった。

 まぁ、職業選択の自由は働く人たちの人権を守るためのものではあるけれども、仕事人生は多少つらい経験を積んでおいたほうがあとが楽に感じられるというのも確かにあるから、あまり楽なほう楽なほうに行こうとしないってのももしかしたら大事かもしれないなとも思う。そうやって身に就く免疫もあるからね。

 いや、ほら、入社当初は大丈夫だと思っていても現実を目の当たりにして絶望するなんてことは最初は良くあることだと思うんだけど、最初はそれくらい無謀な感じでもいいと思うんだよね。つらい思いをしている瞬間はしんどいかもしれないけれども、あとから思い返せばネタになる。若いうちは多少つらくてもいろんな仕事をしてみるといい。

【4】いろんな仕事があるという幅広い選択肢は決して安心材料ではない

 何を基準に受ける会社を選択するか、という点は誰もが意識するところだろうと思う。でもね、一番やっちゃいけないのは「求人側が記載している月給やボーナス」を頼りに会社選びをすること。ホントね、これほど無謀なことはない。若いうちは無謀な感じでもいいとは言っても、これだけはオススメできない。

 月給やボーナスが高い仕事は目に見えないリスクを孕んでいるケースが多々あるから。特に、営業職の能力給として月給+インセンティブ系の職種は、そもそも働き手もその会社で正社員になろうなんて考えてる人なんていないし、ある程度稼いだらさっさと辞めていく人たちばかり。契約社員だからね。無論、愛社精神なんて育たないし、雇用側もそんなことは求めてない。一定期間数字を稼いでもらってバイバイするつもりでいるからインセンティブ支払ってるんだよね。

 なんかもう契約社員といいつつも実際のところは非正規雇用で、アルバイトの時間給とそう大差ないってのが現実なんよね。今、国内の大手企業も中小企業も、働き手を求めてはいるものの、安く働いてくれる人材しか求めていないってのが現状で、正社員で働いている人たちの優位性は有能無能に関係なく今も変わらない。

 ところが、そういう風潮も徐々に変化しつつある。今、自分で働く時間を決められる“フレックスタイム制”を導入し始めている企業が増えてきつつあるんだよね。月間、年間の累計労働時間を満たしさえすれば、規定に定められている休暇以上に休む日を増やすこともできて、週4勤務とかにもできちゃったりする。

 いよいよ?いやいや?労働環境も変化しつつあるのかなと思うけれども、就職先を選ぶ側からすればさらに複雑化してきたなとも言える。目先の生活のために就職することを急ぐ必要があるのは、今離職中の人たちすべてに言えることかもしれないけれども、今もっとも重視しなければならないのは、給料やボーナスではなく、労働環境がどうかってこと。

 良い会社だなと思える要素が一つでも多いほうを優先的に受けるようにしていったほうがいいのかもしれないね。昔は「日本人は働き過ぎだ」と諸外国から言われてきた日本も、昨今ではあまり働かなくなってきているといった変化も起きているようで、選択さえ間違わなければ良い就職先が見つかる可能性が今後は高まってくるかもしれない。

◆最後に・・・

 思い通りにならない、うまくいかない、どうしていいかわからない、そういう時こそ、冷静にネットでポチポチ検索してみるといろんなことが見えてくることもある。

 自分の人生の今後が先行き不透明なのは、世界情勢の先行きが不透明で、日本の未来もまた先行き不透明であるからこそで、今悩んだり落ち込んだり不安になったりしても当然のことだと思うんだ。

 誰かが自分にピッタリな道を示してくれるわけではないけれども、社会は多くの問題を抱えつつも変わろうとしているってことは、少し調べてみれば伝わってくるはず。

 そう信じて、ちょっとだけ今後のことについて考えてみるといいかもしれない。明るい未来ではないかもしれないけれども、進み続けた先に見えるものを見るまでは歩みを止めないようにしたいね。

 今回も2万文字に達してしまったけれども、このダラダラと長い文章を読んでみていかがだっただろうか。長過ぎ以外の感想であればコメント欄にぜひお寄せいただければと思う。皆さんのコメントには一つずつ返信させていただく予定。

 思ったんだけど、noteもだいぶ使いやすくなったね。ちょっと最近また書く気が湧いてきた。ただ、画像編集ができない状態に陥っているのでね、これをなんとか復帰させたい。MicrosoftのエクセルがWeb版になってしまったせいで画像編集ができなくなってしまったんだよね。

 うーむ、どうしたものか。何か良い画像編集ソフトないかな。ちょっとまた探してみようかな。もし何か良いソフトがあればオススメいただけるとありがたい。だいぶnote投稿をサボってきたけど、画像編集できるようになったらまた本格的に再開するかもしれないので、是非とも応援のほどよろしくよろしく!

※サポートしてくださる方へ/いつでもどんなどきでもサポートをお待ちしております(・∀・)このご時世なので投げ銭までは難しいかもしれませんが、皆様からの応援が私の発信活動の原動力となります。

 実は、画像編集の件もあって新しいパソコンが欲しいと思っているところで、予算15万円ほどを予定しているのですが、もし、応援してくださる方がいらっしゃいましたら、是非ともお願いいたします(・∀・)今の私には到底手の届かない金額なので、どうか助けてください。

 ではまた次回お会いしましょう☆ありがとうございました!

いただいたサポートは、今後のnoteライフ向上のために活用させていただきます!