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【職場改善note有料マガジン】No.0014・・・上司ができる仕事はどんどん部下に任せると同時に、やったことのない事を任されるのが「仕事」。できることだけやるのは仕事ではない。

【1】頭の良いバカな上司を持つ部下、頭の良いバカな部下を持つ上司、アホなフリをする人間を野放しにしてはいけない

 なんとなくね、怒りに近い感情を抱くことがあるんだよね。 部下に仕事を教えることを面倒くさそうにボヤき、ちゃんと教えることもできないでいて、わからなくて部下が質問をしてくると「教えたでしょ」とか「それくらい自分で考えろ」とか言って上司面する人いるでしょ? 部下に仕事を任せるという事は、「できるまで教え見守る」が前提条件ではないかね? その条件を満たしていないにもかかわらず、部下の出来が悪いだなんて嘆いているのだとすれば、それは同時に、自分の指導力の無さを露呈しているに等しいことになるんだけど、そのことを自覚していない人が多い。 部下の愚痴や文句が絶えないのも無理はない。

 でもね、その逆も然り。 どんなに熱心に指導教育しても、教わる立場としての部下の態度や姿勢が相応ではないケースもある。 上司が仕事を教えてくれないからって「教わってないのでできません」と言い返す部下は早めに切り捨てたほうがいい。 なぜならば、それは上司部下の関係性における悪影響だけではなく、組織全体が目指す目的に著しく反する愚言であるからだ。 しかし、切り捨てると言っても、「仕事以前の社会人教育」をしても一向に理解を示そうとしない場合に限る。 上司が部下に仕事を任せたり作業を指示したりするのは「自分が楽をしたいからではない」ということを、上司は部下に教え込まないといけない。

 上司部下のコミュニケーションそのものが不足していると、部下は簡単にそういうことを口にする。 「上司が何も仕事をしない」と。 部下にそういうことを裏で陰口として言わせていることは、上司にも責任がある。 本来、上司が部下に仕事を任せたり指示命令をしたりする場合には、部下に「目的意識」を持たせるように発言しなければならない。 では、目的意識とは何か、根本としてそれを上司が正しく認識し、部下に指導教育することは、業務上、最も重要視すべきことのようにボクには思える。 ただやれやれ言うから部下が不貞腐れるのであって、言葉を以って理解させるように努めれば、部下だって不用意に「なんでこんなことをオレがやらなければならないんだ・・・」なんて思わないでしょ。

【2】人材教育の完成形って何?

 上司が無能だと揶揄することも、部下が使えないヤツだと見限ることも、あなたの周りでは日常的に見聞きできることかもしれない。 人材教育というものは、その型をしっかりと認識できていなければ成立することがない。 部下Aには浸透するが、部下Bには浸透しない、そういう人材教育方針があったとすれば、それは間違いなく改善の余地が残されていることになる。 しかしそこを顧みず、部下の覚えが良くないことを言い訳に「オレはちゃんと指導した」と言って逃げるのは、上司の器ではない。 得てしてこういうことを平気で言える上司というのは、部下が何か失敗をしても責任を取らず、そのまま部下に責任を被せる。 これは世の常ではないだろうか。

 また、上司の指導教育に不満があるのであれば、部下は部下で考えなければならない。 上司を責めるような愚痴や文句を言うことは簡単で、誰にでもできることだ。 しかし、そんな時こそ、上司との距離を詰める必要があることを重視しなければならない。 もし、上司が自分ではやったこともないことを部下にやらせようとしているのであれば、部下は「一度やってみせてもらえませんか」と指導を仰がなければならない。 その上、「自分で考えてやれ」と言うのであればムチャ振りもいいところで、そんな上司が部下からパワハラだなんだと騒がれても文句は言えないかもしれない。

 ただね、ここ最近の社会的風潮として、ちょっとしたことでハラスメントを口にする若者が増えたことも否定できない事実ではないかなとボクは思っている。 働いて給料を稼ぐためには、会社組織として「適正な厳しさ」は指導教育の要素として必要なはずである。 それを、注意指摘されたからと言ってパワハラだと喚き散らかすのは、業務上の弊害にしかならない。 ストレス社会? 冗談じゃない。 適正な厳しさを欠いたが故に、なんでもかんでもストレスに変換するようになったのが最たる原因ではないかね? 普段仕事中だというのにふざけてゲラゲラ笑ってしゃべり倒しているような若者たちは、注意されただけで反抗心を表出させる。 何が「しゃべってないとやってられない」だ(笑) 業務時間を私物化することを許していては、組織全体の目的は達せられない。

【3】パワハラ・ペナルティー・アホなの?・ポンコツ?=PPAP?

 仕事が楽しいと感じる人とそうでない人の違いってなんだろうね? なんでも、日本の労働人口の96%は「仕事が楽しくない」と感じているようだけれど、なんかもう、そうやって回答している時点で「仕事が楽しくないのは会社(もしくは上司その他の人間)のせいだ」と言わんばかりではないか。 そういう負の個人的感情を抑制しない限り、仕事が楽しいなんて感じられる日は未来永劫やってこない気がするけどね。 そりゃーね、実際にその会社に入って働いてみて、いろんな人たちと関わってみないことにはわからないことだらけかもしれないけれど、仕事に関して自分にとっての都合の良さばかりに意識が向かえば、ことごとく都合の悪いことにブチ当たり、期待感は数カ月もしないうちに打ち砕かれることになる。

 いろんな会社で仕事してきて思ったよ。 自分に都合の良い職場なんてどこにもないって。 もし、自分が期待するような働き方をしたいのであれば、それこそ自分で起業するしかない。 「給料さえ良ければいいや」くらいに考えてるから不満タラタラになるんじゃないかなーと思うんだよね。 かつてはドップリ残業させてもらって手当をたくさんもらってきた労働環境も、今や国の規制がガッチリとかかってしまい、それを守らない企業組織は政府から業務改善命令が下ったり、課徴金を課せられたりする。 働きづらい仕事環境を作ってしまったのは、これまでの社会ではないかね? 根底がおかしかったために、日本企業の働き方はいよいよグラつき始め、労災問題があちこちで浮上するようになり、挙句の果てには労災隠しまで平気でやるようになってしまった。

 すると、会社組織内部では、上司が部下に矛盾ばかり突き付けるようになり、上司が間違った判断をしてしまったがために生じた損失を部下の責任にしたり連帯責任とかいうワケのわからないペナルティーを課したりするようになり、負のループから脱出する機会を喪失するようになった。 あのね、無能な会社役員に対してミスへの再発防止対策にただルールを付加するだけでは再発防止にはならないってことにいい加減に気付けよってボクは言いたい。 そうやって事ある毎にルールを付加し続ければその場凌ぎにはなるかもしれないよ? でも、そこで働く従業員たちは委縮して窮屈になっていく。 ルールを付加するけれども、廃止するルールの選定はしない。 どうかしてるよねまったく(笑)

 組織の体質がそんな状態では、従業員のモチベーション管理なんて2の次3の次になって、仕事の精度や質に直結するんだけどなーって思うんだけど、本当に打つべき対策はペナルティーを課すことでもルールを付加することでもないってことに気付けなければ、ずっとそのまま。 結果的に人離れが起きても、慌てふためくだけで何一つ解決しない。 従業員が減り続ければ組織全体の労働力は当然減退していく。 すると、一人当たりの負担は徐々に増大していく。 穴埋め要因として新たに人を採用しても教育に力が入りにくく成長しないためすぐに辞めていく。 負のループが起きていると判断される時には、従業員のモチベーション向上に力を入れるべきではないかな。 不満タラタラな状態で良い仕事ができるわけがない。 面倒なことはどんどん後回しにされていくし、次々と問題は山積みにされていく。

【4】できることだけやっていて認められようなんて甘い

 そんな状況下で、肩書が関係あるんだろうか?と思えてしまう。 統率力を欠いているためにこんな状態に至ったのだから、肩書とか立場を気にしてる場合ではないと思うんだよね。 そんなこと気にしてると、会社はあっという間に倒産する。 本気で声を発することのできる環境整備が急務ではないかな?? 一切の線引きを撤廃して、会社を良くしていくために全員が全力で声を挙げられる職場環境をね。 会議で本音をブチ撒けてみればいいのにって思う(笑) 物議を呼べば変わるさ。 保身? それを気にして自分を押し殺すのならば、現状の仕事に対して文句垂れるなよって話ね。 誰でもやってそうなことをやり、誰でも言ってそうなことを言うだけでは、何も生まれないよね。

 できることをやることは、仕事上は基本的に求められることではある。 でもそれは、あくまでも基本であって「できることだけやる」というのでは、自分で上限を決めてしまっているわけだから、そんな人間に上司は新たに仕事を任せようとは判断しないよね? 意欲が感じられないから。 もしかしたら、多くの人たちが「意欲の示し方」を知らないのかもしれないね? そして、意欲を示した結果として起こり得る仕事上の新たなチャンスに対する期待値が低いのかもしれない。 その上で「仕事が楽しくない」などとボヤいているのでは話にならない。 確かに、中には上昇志向に欠けていて、「リーダーになりたくない」とか「出世したいとは思わない」とか思っている人はいる。

 でもさー、仕事ってね、立場が下っ端であっても、組織全体を俯瞰することのできる物の見方ができるだけで、働き方にものすごく影響するものだと思うんだよね。 部下でも上司の立場から仕事に向き合える視点を持てるようになると、いちいち上司の指示命令にブツクサと文句言ったりテンションを下げたりなんてこともなくなるんじゃないかな?? 下っ端根性もいいけれど、下っ端のままでいいなんていう身勝手な考え方で仕事をすれば、職場環境が納得のいかない空間になったとしても文句言う資格はない気がするよ、ボクはね? そういう意味では、縦社会ってのはぶら下がり人間量産型の社会なのかもしれないね。

【5】資本主義社会が崩壊すると地位も名誉も金では何ともならなくなる。それでも高齢の役職社員は部下に席を譲らない。そして「YouTuber科」は爆誕した(笑)

 上に昇った者だけが私腹を肥やす、そういう社会。 上の人間たちの権力は正しく行使されていないのだとわかれば、下の人間たちは物言いをするよりも黙って従っていたほうが自分の身は保たれる、そういう社会。 選挙に行けって言われても、誰に清き一票を投じればいいかなんてわからないでしょ。 それでいてなぜ投じることができるのかがボクにはわからない。 大体ね、未だに年功序列で昇進システムが稼働していること自体バカげてるとしか思えない。 年齢が若くてもリーダーシップを発揮できる人間はいるのに、経験が足りないからっていつまでも抑え込もうとする。 この会社大丈夫か?って思ったことは今まで務めてきた会社でも何度もある。 若い世代の人材が育たないのは、50代60代の大先輩たちがいつまでもその席を譲らずにしがみついているからに他ならない。

 今となっては天下り先までご年配者で埋まっていて、天下る先すらない状態。 完全飽和状態。 時代を恨めば気が済むってもんでもないでしょ(笑) これからは、人がどこで働くかというのは社会の変化と共に決まったいくつかの方向に流れていく気がする。 現実的に、就職しなくても収入を得られる働き方をしている人たちが増えている中で、これまで通りに会社に勤め続けるということに疑問を抱く人も同時に増えていることだろうと思う。 確か代々木エンタメ学院に「YouTuber科」なんていう学科が新設されたけれども、社会の変化は大学の学問さえも増設するのだなと面白く拝見している。 もし今後、いろんな大学や専門学校がYouTube関連の学部学科を新設すれば学生が流れ込み、社会全体の人材職種バランスは崩壊するだろうな。

 これを社会的汚染とするか、社会的進化とするか、それはこの変化を見る者それぞれの捉え方による。 ただ、これはほんの1例に過ぎないということであって、次なる社会現象は必ずやってくる。 といっても、そう遠い話ではなく、特に人工知能の発達によって、ボクたちの生活環境も仕事環境もめまぐるしく変化していく。 もう、それほど時間は残されていないのかもしれない。 どうだろう、あと10年か、15年か、働いて生活する時代もいずれは終焉を迎えると言われているくらいだから、それまでの過渡期をどのように働くか、自分の仕事とどう向き合うかを考えるなら今しかないように思う。

【6】仕事における失敗を懼れない挑戦意欲は一番重要視されるべき。学歴が優秀であるか否かが全く重要ではないとは言えないが2の次だ。

 まさかね、この時代を生きることになるとは全く予期していなかったし、誰も予想していなかったことだろうと思うけれど、それでもどこかこう、気後れしそうな感覚がある。 もし、今ボクを雇い入れてくれている会社が人材を欲しているのであれば、この会社の一員としてできることをやろうと考えているが、それはできるかどうかわからない未知の領域の思考であって、確実にできると断言はできないし、させてもらえるかどうかもわからない。 それも、出来たからと言ってそれが如何ほどのものかも想定できない。 また、これに限らず、やってみたいこと、やったことがないこと、できなかったことを一つ一つ着手しトライしていくことで、自ら可能性を拡大することができる。

 成功とか失敗とかいうものは、過程における小さなイベントに過ぎない。 それは、行動に移した者自身が自分の目で見てわかることであって、結果に対して誰がどのように評価するかは気にするところではない。 それを、他者の評価を良くするために起こした行動というのは、実質的に可能性を拡大させる結果には繋がらない。 しかし、それでも何かしらの可能性を生み、他者からの評価が高かった場合には、およそ自身の力量以上の評価をされてしまうことになり、そのあとが大変になる。 だからね、認められたいがために、評価されたいがためにやる仕事なんていうのは、本来意味がないもので、誰のためにもなっていない場合がほとんどだと認識して間違いはないと思うんだ。

 自分の上司たちをよく観察し、学べるものは何でも学んでおくほうがいい。 尊敬できるところは尊敬し、そうでない部分は教訓にすればいい。 人の存在というのは、ただ短絡的に良い悪いで見るものではない。 人には誰でもその双方がある。 良い部分しか見られず、印象が良い人間というのは、悪い部分を隠す才能に長けているのかもしれないが、ボクはそう言う人間を心から信用したいとは思わない。 それよりも、自分の不足をちゃんと認めた上で、感謝・謝罪・気配り目配りができる人間のほうがよほど信頼できる。 それに、人はウソを吐くものだからね。 それを見抜けるか見抜けないかは相手と接する自分に責任がある。

【7】あなたは「主役か」、それとも「脇役」か。あなたにとって「仕事」とは何か。

 学ぶ姿勢は、人を敬い感謝する心の姿勢でもある。 少しでも、相手の口から人を見下したり貶したり蔑んだりするような言葉が発せられるのであれば、感謝が足りないと判断できる。 仕事人生を豊かなものにしたければ、人を批判したり非難したりするような「脇役人間」となるよりも、人を敬い人に感謝し人から学ぶような「主役人間」となることが近道であるとボクは思う。 

 もう、人間の心に関する研究は、多くの心理学者によって解明されていて、特質的なケースを除いては、一般的な性質や人が選択する行動、そして感情やクセに関しても細かく示されている。 学術的な難しいものをわかりやすくまとめた書籍や漫画図解も多く世の中に広められている。 人間が人間である以上、心は必ず関係するものであり、それを無視するような如何なる言動も行動も、ただ不快感を与えたり、傷付けたりするものでしかない。 しかしどんなに人の心について知識を得たとしても、それをどのように扱うかは、これもまた知識を手にした人間の意思に因る。 

 仕事の意味は、今も昔も一貫して変わることのない普遍的なものであるため、与えられた仕事であろうと、自ら生み出した仕事であろうと、誰かに任せる仕事であろうと、全ては「不特定多数の誰かのため」に行われなければならない。 何かを理由に、仕事が個人の私利私欲のため組織の面子や保身のために成されることにでもなれば、その普遍性に逆らう愚行になる。

【8】「万人のためになる仕事」は「特定の人のためになる仕事」よりも少ない

 ところが、ところがだ。 これまで経済を支えてきた全ての仕事が本当に全ての民のために行われてきたかと問えば、決してそうとは断言できないのが人間社会における人間による仕事だと言わざるを得ないのが現実でもある。 科学の発展には犠牲が伴うのと同様に、仕事にも犠牲が伴う。 この解釈は「正義と悪」のそれともよく酷似しているようにボクは思うんだ。 正義が必ずしもすべての人にとって正義ではないのと同様に、仕事も、誰かにとっては意義のあるものであっても、一方ではそれを望まない人たちもいるわけだ。 「全て(の仕事)は不特定多数の誰かのために行われなければならない」と表現したのは、必ずしも一つ一つの仕事が全ての人たちのためになっているわけではないという意味を含んでいるからだ。

 需要と供給の関係性を成立させるためには、需要する者たちと供給する者たちが一定以上に存在しなければならない。 とある商品が欲しいと思っている消費者たちが5000万人いても、供給する側の人間がわずか数人しかいなければ生産が追い付かない、そういう状況をイメージするとその商品を作るための仕事やそれに関連する全ての仕事も維持しようとすれば莫大なお金もかかるし、命を削るほどの労力もかかることになる。 たとえ誰かのためになるとわかっている仕事でも、その仕事に携わる人たちが疲れ果てて働くことが困難になるようなものであるならば、そんな仕事はやるべきではない

【9】命を賭してでも使命を果たすべき仕事は本当にあるのか。「働き方改革」の真実とは?

 過重労働による自殺が労災認定されるようになってきたのは、人間が働きながら給料を稼ぎ生計を立てていくことが必ずしも幸福につながるものではないのだということを、社会が、国が認め始めたことの証だと言える。 働きすぎて命を落とすようなことはあってはならない。 何のために仕事をしているのかわからなくなってくる。 また、命を落とさないまでも、社会には精神を患い、後遺症に苦しむ人たちも大勢いる。 諸外国から見れば、「よく働く国民だ」という評価もあるかもしれないが、ほとんどは「日本人は働きすぎだ」という酷評だ。 その圧力が今年4月から施行された新しい制度として働き方改革関連法案に影響し、残業規制法に定められた「残業上限月45時間」が労働災害を抑制する目的という名目で国会で採決された。

 しかしこれは、ボクの父から言わせれば、「現場を知らない国会議員の屁理屈でしかない」という見解だ。 製造業も建設業も、医療関係も運送業も、人手不足の中これまで通りの業務をこなすというだけなら多少残業を規制されても問題はないのかもしれないが、現実的に仕事には「期限」がある。 にもかかわらず、これまで通りの業務量、これまで以上の業務量を規制の範囲内でやらなければならないとなると、今後おそらく行政処分を受ける企業が後を絶たなくなることになるだろうという至って明解な予測からそのような見解を持ったと言う。

 企業はこの不合理な法案に全力で抗議しなければならない。 この上ない矛盾を国が企業に突きつければ、企業組織内部でも更なる矛盾を生じさせることになる。 実のところ、働き方改革とは名ばかりで、一億総活躍社会は安易に国民に対して期待を抱かせるだけでなく、多くの労働者をこれまで以上に厳しい状況に追い込むことになることを、今年以降、企業も個人も体感することになると推定できる。 自動化社会はまだ先の話で、向こう10年以上はそうした変化に耐えて生きていかなければならない。 その点に対する説明責任を、現職の国会議員が果たせているとは到底思えない。

 おそらく、今年は昨年以上に倒産する企業が続出するだろうと考えられる。 昨年が8300件ほどだから、1万件の企業が新たに倒産すると予測しておいてもおかしくはない。 もう何年も前から社会はバランスを崩し始めているのだから、法律1つで制御できるとも考えにくい。 「今後期待すべきは、貧富の格差を緩和し、権力の暴走を許さない社会を実現することだろうと思われる。 力に屈して今を生きている人たちがどれほどいることか。」 いやいや、それはあまりに極端な言い分だろう。 そんなことは期待すべきではないとボクは思う。 富裕層が全国民の1%で、貧困層が99%だからといって、それをちょうどいいように緩和できるとも考えにくい。

【10】これからを生きるボクたちが選択しなければならない賢明な手段とは?

 ならば、ボクたち働く者がしなければならないことは、社会の変化に対して上手に順応していくことではないかと思うんだ。 だからと言って、言いなりになるということでもない。 やはりここで、個人として身の周りのことを改めてみる必要があると考えるほうが、社会の変化に抗うよりも「賢明な手段」と言えるかもしれない。 賢明な手段とはどういうことなのかを考える癖を身に付けておけば、仕事上、周りに合わせるだけなどという無能な選択はしないだろうと思う。 

 事実は、自分が黙って見過ごそうと思えばできなくはない。 でも、それだと、自分にとっての事実さえ他の誰かに勝手に書き換えられてしまいかねない。 せめて自分と関わる人との事実の連続は、真の事実、所謂、真実として認識できるようでありたいと思う。 自分が思っている以上に世の中はウソで溢れている。 仕事においてもそうかもしれない。 ウソを吐いてでも真実は隠し通さなければならない、そういう瞬間はどこの職場にもあることだろうと思う。 バレたことの裏には、バレていないこともある。 社会は小出しにして真実を暴いてきてはいるが、真実と共にウソも存在しているのもまた社会。 ウソがウソのまま真実と捉えられていることも多いだろう。

 だから、世の中のいろんなことを自分とは無関係だと切って捨て、考えないようにするという都合の良い思考回路は、極力持つべきではないように思う。 しかしどうしても、今いる場所に居座ることができないほどに悩み苦しむくらいならば、自分の身を別の環境に移して再出発するという選択肢があることも忘れてはならないと思う。 人の精神にも心にも限界がある。 何も、そんな苦しい思いをしてまでそんな場所に居座って働くこともない。 でも、それほどまでに切迫するような事態というのは滅多にない。 ならば、うまくその場で生き抜く手段というものを身に付けることが必要になるが、ある程度の精神力や図太さは備えておかなければならないだろう。

【11】力のない者は力を持つ者を頼ってしか生きられない。今も昔も、人は皆「弱者」である。

 どんなに優秀な人間でも、心が弱く精神がブレやすく、そして挑戦意欲に欠けていれば、そのことが要因になり失敗する可能性は十分に考えられるし、ただそれだけでチャンスを棒に振ることになり、最悪の場合、人生を棒に振ることにもなり得る。 人間というのは元々弱い。 だから力ある者に首を垂れるし、金を頼る。 元を正せば、現代社会に生きるほとんどの人たちがこうした社会のメカニズムの中で生きている。 そう言うボク自身もその一人であり、派遣登録で今の会社に拾っていただき、3か所目である今の派遣先企業にお世話になり、さらには正社員へしていただいた、社会全体で言うところの99%の貧困層の中でも下のほうにいる「弱き人間」だ。

 働いて給料を頂き、毎月なんとか暮らせる状態。 過去を振り返れば、湯水の如く時間とお金を無駄にしてきたようにしか思えないと言うこともできるが、それはそれでいくつもの気付きを得るための勉強になったとも言うことができる。 人生のドン底と言っても、自分以上に過酷な状況を経験している方は少なくはないだろうと思うが、それでも「支え」がなければ立ち上がれなかったかもしれない。 今でこそ強く生きるべきだという思いを言葉に乗せて発信活動はしているが、もっと弱ければ、こうして文章を書くということもなかったかもしれない。 社会の犠牲にならなければならない道理はない。 少なくとも、生きられる社会なのだから、簡単に諦めてはならない。 身体に異常はなく、働けるのだから、あとは自分の思考を鍛えて身体を動かす糧にしていくだけだ。

 時間的余裕はある。 早番→遅番→早番なんていうランダムシフトで働いていた時にはなかった時間的余裕。 そんな不規則な労働形態を当たり前のこととして従業員に敷いてきたその会社は、ただそれだけで彼らの寿命を縮めることになっているなどとは想像もしていなかったのかもしれない。 科学的に立証されている傾向として、「一週間交代の昼勤夜勤シフト」も寿命を縮める労働形態なのだとか。 気になる方は自分で調べてほしい。 長生きしたいわけではないのだけれども、無駄に寿命を縮めてまで粉骨砕身の思いで働こうなどとも思ってはいない。 そんな思いと現状はマッチしているとも感じているため、言うほど不満もないけれども、満足もしていない。

 時間をどう使うか、そのことを真剣に考えて過ごし、人と関わっていけたらいいなと思う。 正直欲しいものなど何もない。 強いて言えば、自分を試す時があるのならば試してみたいという思いがある。 その時までに、学べる限り学んで、挑戦した結果、失敗しても納得できるようでありたい。 もっと若いうちに「挑戦意欲」を持てたらよかったなとは思うものの、今の年齢からでもできる挑戦だってたくさんあるから、全く諦めるつもりはない。 なかなか英語の勉強には踏み切れていないけれども、英語とMicrosoft Access(マイクロソフトアクセス)を難なく使いこなせるくらいにはなりたい。

【12】挑戦意欲と寿命の長短は無関係ではない?!

 人の老化現象を早める要因の一つに、ボクは「挑戦意欲の減退」を付け加えたい。 これには科学的根拠はまるでないのだけれど、実際に何かに挑戦しようと思うのであれば身体は健康でなければならないし、鍛えなければならない。 それは精神にも同じことが言えるわけで、挑戦意欲から起こす行動は老化を抑制する効果があるのだと信じ込んで生きても損はないだろうと思うことにしている。

 老化はともかく、挑戦意欲を持ってさえいれば、任された仕事をこなすための熱量も、任せたい仕事に関して(できるまで)部下を指導教育するための熱量も、自ら仕事を生み出すための熱量も自然と備わってくるだろうということをボクは言いたい。 ボク自身もそのように信じている。 失敗を懼れず、戦い続けているほうが、人は誰の目にも美しく映る。 失敗を懼れ、戦う前から弱音を吐いているようでは、人は誰の目にも弱々しく映る

 あなたがどちらの人間として生きていきたいかは、あなたが自分の意思で決めるべきことだ。 普通に生きていれば、ほとんどの人が、ましてや学校の先生たちがそのようなことは指し示してはくれないことであるため、「失敗」という言葉について考える機会とどちらの生き方を選ぶかという機会の両方を、今回のnoteを読んでくださった皆様と共有できれば幸いに思う。

【13】仕事で一番重視すべき「人材としての性質」を考えてみた

 仕事とは、実に多くの事に通じている。 その根本には、必ず「思考の重要性」を指摘することができる。 人のために仕事をするのであれば、思考を磨かないといけない。 思考が鍛えられていなければ、簡単に一方通行の、そして偏った考え方に自身が振り回されることになる。 個人的感情とは自分にとっても邪魔になることが多々あるのだとボクは感じてきた。 また、それによって失敗したこともある。 平静ではいられない瞬間もあるかもしれないけれども、仕事でむやみやたらに感情をむき出しにするようでは、自ら居場所を失くす可能性を高めるだけだということを、ほんの少し伝えることができればいいなと思う。

 ただ、実際には、自分で失敗しないことには気付けないことがほとんどで、人は常に失敗し、後悔する。 人間ほど不器用な生き物は他には存在しないのではないだろうかとも思える。 人間よりも、大自然で繁殖を目的に生きる多くの生物のほうが、人間よりも賢い生き方をしているのかもしれない。 知的生命体でも失敗する。 いや、「知的生命体だからこそ失敗するのだ」。 自転車を漕ぎながら人の失敗を笑っていると、足元の段差に気付かずに派手に転ぶことになる。(小さい頃、自転車で経験ありw)

 今回は以上とする。 またね?✋・∀・)バーィ♬

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