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バックレスト

 事の始まりは2月14日だった。

「好きです」

 真っ白くなった指が、インクで擦れて汚れたアームカバーを摘んでいる。男の手には個包装されたチョコレートが収まっていた。
 男は拳から両肩へと、震えを辿どるように彼女を見ている。目の前には幼気な旋毛があった。
 男の薬指は光っている。俯いている彼女はそれを見つめている。通りかかる学生が彼らをちらりと見る。
 ひとりの女子高生が事務員の男に縋り付いていた。

「じゃあ、1度でいいからデートしてください。映画見てお茶するだけでいいですから」

 彼は彼女の好意を不意にした理由を訊かれ、結婚していると告げたが、彼女はそんなこと告白する前から知っていた。
 彼女が彼に一目惚れしたのは、3年前の冬だ。その日は受験日で、電車が遅延していた。
 当時、彼女は第一志望の進学校に行けなかった喪失感に襲われ、さらに彼女の弟が難関中学に合格したことで、家の話題は弟のことばかりだった。
 遅延した時点で連絡を入れているため、試験は確実に受けられるようになっている。
 なんで私、必死に走っているんだろう。
 たかが、滑り止めなのに。
 もう帰りたいと思いながらも彼女は改札を出てからずっと走り続けている。やけに足取りは軽く、裏腹な現実を感じながら、彼女は息を切らし、憤っていた。
 校舎の前には、彼が立つ。
 冬の朝、蒸気機関車のように駆けてくる彼女を見て、彼は会場はここだと大きく手を振る。その時の彼を彼女は今もふと思い出すことがある。
 案内係を押し付けられたため彼はそこに立っているだけだ。それでも彼女の瞳には、自分を待ってくれている人のように映った。
 校舎に駆け込む彼女て彼の視線が一瞬だけ交じる。
 あ、泣いてる。
 校舎の階段を駆け上がる彼女の足音に呼応するように、気づけば彼はがんばれと叫んでいた。
 二人は、二駅先にあるショッピングモールに併設されたシネコンで、邦画のホラー映画を見た。それは酷く退屈だった。
 彼女は、この人が父親だったらよかったのになぁ。
 彼の右肩に彼女がもたれかかった。

「ねぇ。あの時みたいに一言でいいからさ、『がんばれ』って言ってよ」

 彼女に2度目の受験がやってくる。
 彼女の成績は学年で言うと10位以内ぐらいで、中学の時よりは志望校に受かる確率は高かった。
 それでもトラウマは消えることなく、彼女の中で今も鼾をかいている。内申点が良くても、進学塾の模試の結果が良くても、どこか安心はできなくて、彼女はひたすら机に向かった。
 事務室の小窓の前に立つ彼女が彼の眉間あたりを見つめている。彼は彼女の鼻の先あたりを見ている。
 映画館デートの後、彼と彼女は中庭でよく昼食をとるようになった。
 彼女は決まって餡子とマーガリンが挟まれているコッペパンを頬張っていた。
 友達と食べないのかと彼が訊くと、彼女は昼食は好きな人と食べるのが一番おいしいからと答えた。
 真っ直ぐにそう言い放ち、彼女は彼の足元に置いてあったパックの牛乳を一口飲む。
 何を決断するにしても迷ってばかりで、自分の意見をなかなか主張できない彼にとって、彼女は眩く映る。墨で引かれたような眉は微動だにせず、見惚れているうちにチャイムが鳴った。
 開いた小窓越しに彼は彼女を鼓舞した。事務室からはプリンターの作動音が聞こえていて、彼の同僚は一言も発せず、キーボードを打ち込み続けている。彼は同僚の視線を背中に感じていた。
 それでも彼は彼女にお守りを手渡した。
 本当はもっと早く手渡すつもりだったが、どこが一番効力があるのかを調べているうちに遅くなってしまったお守り。
 大切と思う相手程、時間をかけてしまうのは彼の欠点であり、また魅力でもある。
 伸ばした右手を彼女が手繰り寄せ、両手で包み込んだ。
 その手はあたたかく、彼は泣いていた。そんな彼を見て、彼女は笑っていた。
 翌日、彼女は共通試験を受け、見事第一志望の大学に合格した。

「この学校に入れたのも、卒業できたのもあなたのおかげでした。だからさ、ありがとね」

 彼女が通う高校には指定の制服がない。そのためこの日の卒業生は、それぞれの家庭が買いそろえたスーツやブレザーを身に纏っている。
 卒業式が終わり、校舎前は写真会の会場と化していた。溜まった事務作業に見切りをつけて、外へ出ると彼女は多くの在校生に囲まれていた。
 この時彼は初めて彼女が学校の中でそこそこ人気だったのだと知り、なんだ別に孤独というわけじゃないんだと勝手に思った。

 まだ蕾の桜の樹を彼が見上げていると、彼女が駆けてきて、言った。
 ありがとねと言われたので、頭を下げると彼女が泣いた。スマホのインカメラに収まった彼はぎこちない笑顔をしていた。

 縋って、
 もたれかかってきたかと思えば、
 勝手に離れていく。

 まるで椅子の背もたれみたいだと彼は思う。
 それでも、誰かの支えになれたという経験は彼の足元を照らしていた。

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