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プライマリー・カラー 〈Gの章〉

 透香はエスカレーター式に大学へ上がる。
 住んでいるアパートの一階にはエントランスがある。緑の半キャップを首に欠けたまま、彼が慣れた様子で番号を打ち込む。
 チャイムが鳴り、透香が部屋のドアを開けると彼は玄関で靴を脱ぎ捨てた。靴箱横のスタンドに半キャップをかけ、彼はリビングへ進む。短い廊下に汗で出来た彼の足形がついていた。
 ローテーブルの上にはあさりとほうれん草のパスタがあって、微かにまだ湯気が上がっている。皿の両脇にはスプーンとフォークが整列していて、彼は洗っていない手でパスタを摘まみ口に放り込んだ。
 うまっ、と呟きながらもう一口摘まんでは啜る。靴職人の見習いをしている彼の指先は塗料や埃でいつでも黒ずんでいる。

 大学二年の冬、買ったばかりの濃い緑のブーツを履いていた日、透香は自転車で転んだ。ぶつけた膝や肘は擦り傷程度ですぐに治ったが、二万八千円のブーツは自然治癒しなかった。
 透香はブーツを修理屋へ持っていった。その時彼と出逢った。
 透香が修理屋に顔を出す度に彼が対応した。透香は彼のことが段々と好きになっていった。少年みたいな瞳に惚れてしまったのだ。それから透香は多くの時間をこの部屋で彼と共に浪費した。
 だからか、透香は汚い手でパスタを摘ままれても平気だった。
 透香は彼の後ろから手を伸ばし、同じようにパスタを摘まんだ。
 顔を覗き込むと彼の横顔は微動だにしなかった。
 後ろからきつく抱きしめると彼が透香の頭を撫でた。それから着ているスウェットを気怠そうに脱がせた。
 自分の好意が彼の胸に留まることなく、滑り落ちていることを透香は既に分かっていた。それでも透香は彼を好きでいたかった。
 部屋の外で待ち構えている退屈と向き合いたくなかったのだ。
 翌朝、透香は彼と公園を歩いた。芝生の上を走り回る子供達を眺めながらベンチに座ってコーヒーを飲んだ。ベッド以外で手を繋ぐのは久々だった。
 嬉しくて、面映ゆい。
 だが、違和感の方が強かった。まるで苔や藻が生えた水槽の中で息をしているような気持ち悪さがあった。

「ありがとう」

 別れ際、人混みの中で彼の背中に届くように透香は言った。
 彼は気付いていたが、振りかえることはなかった。長い腕が水草のように少しだけ揺れた。

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