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「ある」ことと「ない」ことに纏わる人間の幸福

こんにちは。四月一日庭の車田です。
今日は、タイトルの通り、人間の幸福について考えてみました。

皆さんは、どんなことに幸せを感じますか?
または、どんな状態であることを幸せだと感じますか?

ただ、感じるままに何か答えを出してみてください。

人によっては、
・健康であることが幸せだ
・充分なお金があることが幸せだ
・住む家があることが幸せだ
・家族がいることが幸せだ
・恋人がいることが幸せだ
・子供がいることが幸せだ
・やりたい仕事をしていられることが幸せだ
などなどなど
大体、こんな感じの内容に集約されていくのではないでしょうか。

生きていく上で必要な、衣食住を満たしてくれるものだったり、人とのつながりのようなものを満たしてくれるものだったり、人は、そういうものを求めて、そしてまた、人から必要とされることに幸せを感じることが多いように思います。

これらの幸せには、共通点があります。

お気づきでしょうか?

本日のタイトル、「ある」ことと「ない」ことに纏わる人間の幸福。
ここに答えがあります。

そうです、「ある」ことに対して幸せを感じやすいのです。

もしかしたらここで、
いや、病気が「ない」体を幸せと感じることだってあるじゃないか。
という面倒なことを言う人もいるかもしれませんね笑
しかしそれも結局のところ、病気が「ない」体が「ある」ことに幸せを見出しているということに気がつくでしょう。
だって、体そのものが「ない」ことを幸せだとは感じられないですよね。

何が言いたいかというと、「ある」ことに幸せを見出しているうちは、そこに必ず「不安の種」も潜んでいるのだということを、その幸せと共に引き受けなければならないということなのです。

なぜなら、この世界は無常だからです。
諸行無常。
形あるもので変わらないものは何一つありません。
「ある」と言う状態は、そこに必ず「変化するもの」という性質を内包しているということなのです。

人はなぜ不安になるのでしょうか?
総じて、自分がコントロールできない事態がやってくることに対して感じることが多いのではないでしょうか。

動物はリスクヘッジする生き物であるため、仕方がないとも言えます。
ですが、それは裏を返せば、「ある」状態に由来する安心や安定は永遠ではないわけで、つまるところ「ある」状態に幸せを見出しているうちは、必ず変化するという法則の世界で生きている限り、不安と抱き合わせになるのです。

でも、よくよく考えてみていただきたいのですが、この体はあなたのものでしょうか?
以前書いた下記の記事の内容を思い出していただきたいのです。

人は死んだら、この実存の世界の「ある」ものは何一つ持っていけないのです。そもそも「ない」ところから生まれて「ある」世界で生き、また「ない」世界に帰っていく存在です。

そう考えると、人間として生まれて生きることそのものが、この「ある」世界に翻弄されるだけのナンセンスなことのように聞こえてしまうかもしれませんが、決してそういうことを言いたくてこの記事を書いているわけではないのです。

人は、幸福に「安定」を求めます。なるべく長く繁栄できるように願います。だけど、それを強く願えば願うほど、そこに固執すればするほど、生きることが苦しいものになっていきやすいのです。

「ある」ことに由来する幸福は決して安定しません。
長続きもしなければ、永遠なんてものはあり得ません。

だからこそ、「ない」ことが当たり前なのだということを知って欲しいのです。思い出して欲しいのです。

人の世界は、どんどん変化のスピードが速くなっていきます。
変化の激しい時代に生きればなおさら、どうしたら心が安定するのかということを、人は求めるでしょう。

その心は、どちらかといえば「ない」領域のものです。
「ある」ものが圧倒的な存在感を放つこの世界では、「ない」領域のものを安定させるのは至難の業です。

でも、本当は初めに書いたように、「ある」ことに由来する幸福には、「不安の種」が必ず付きまとうものだということが理解できていれば、その「ある」ものにしがみつくこともなくなるのではないでしょうか?
必要以上に不安に駆られることも、また、必要以上に臆病になることもなくなるのではないでしょうか。

「ない」ことに幸福を見いだせとは言いません。
せっかくこの世界に生まれて、人間として生きていくのであれば、「ある」世界の圧倒的力を自分のものにしてみたいと思うのは人間の性ですし、肉体という「ある」ものを使って、その五感で感じられる感覚は、この世界ならではの醍醐味なのです。

無気力になれと言っているのでもありません。
「ない」ことが当たり前だと思えるようになると、むしろ、自分の内側から湧き上がってくる欲求を、リスクヘッジの思考から押さえ込むことがなくなります。
人は、なんだかんだ言い訳を作り出すのが本当に上手です。
やってみたいことが心に起こってきたとしても、心配だから、不安だから、他人の目が気になるからといった意識から、さまざまな理由を作り出し、やらなくていいことにして、変化しない状態を保とうとするのです。

でも、「ない」ことが当たり前なら、初めからないのだから、必要以上に心配したり、不安になったりしません。
だからすんなり自己実現に向かうことができるようになります。

これは、算命学の極意、自然と一体となって生きることに通じることなのです。
自然と一体となって生きることは、別に自然豊かなところに行かなくても、都会のど真ん中でもできます。意識次第です。
この、「ない」ことが当たり前だという感覚も、その意識の一つです。

人間にはさまざまな気質があります。
算命学では、この気質を100%燃焼させることが、その人にとっての幸せと言われています。
しかも、この自然界の法則は、常に調和を図るように動いているわけで、世界の調和を図る上でも、人間が自分の気質を100%活かすことが大切になってくるのは理解できると思います。

その気質を活かすことを妨げるのは、自分自身であることがほとんどです。
その理由にこの人間の幸福のあり方が関係しているように思えます。

思うがままに、幸福を追求してください。
そして同時に、「ない」ことが当たり前であるという事実に気がついていてください。
「ある」ことに纏わる幸福を手に入れたのなら、存分に味わいながら、そこに同居する不安も一緒に引き受ける覚悟を持ってください。
変化する時がやってきたら、変化するままに任せ、流れを堰き止めるようなことをしたり、しがみついたりしないでください。

委ねることは、諦めることではありません。
ある意味、そう見えることもあるかもしれませんが、誰であれ、この世界の法則から生み出された生き物は、その流れに委ねた方が、結局は帳尻があっていくように私には思えます。
私自身も、まだ実験途中ではありますが、今のところこの考えは、おおかた間違っていないように思っています。

だからといって、若いうちからやっていいことでもないような気もします。
人には、あえて抗うフェーズも必要だと思うからです。

もし、人生に抗うことが疲れたなら、または幸福がなんなのかわからなくなったら、今回の記事の内容の意識状態を、ぜひ試してみてください。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


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四月一日庭 - Tsubomi Tei -
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