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算命学的・恋愛のはなし②

こんにちは!四月一日庭の車田です。
今日は、表題のテーマ第二弾を書いていきたいと思います。
第一弾は下記からどうぞ。

このテーマも、掘ってしまうとどこまでも掘ってしまいそうで、一回でやめようと思ったものの、昨年からの止まない恋愛相談の影響か、書きたいことが出てきてしまったので追記していきたいと思います。

今回は、『雑阿含経』に出てくる仏教寓話、「四人の妻」というお話しから書いていきたいと思います。
ご存知の方は、その次の目次からお読みくださいませ。


四人の妻

昔々、ある国に四人の妻を持つ長者が住んでいた。

一番目の妻は、彼が最も愛する女性だった。どこに行くときも決して離さず、いつも一緒だった。彼女が欲しがるものは何でも買い与え、食べたいと言うものは何でも食べさせた。まるで彼女の言いなりというほどの可愛がりようであった。

二番目の妻は、他の男たちと激しく奪い合い、知恵の限りを尽くした末にやっとのことで手に入れた女性だった。いつも気にかけており、外出するときは片時も離さず、家に帰ってからは鍵のかかる部屋に入れ、勝手に出て行かぬよう見張りまで立てるほどだった。

三番目の妻は、たくさんのお金をかけ、面倒を見てきた女性だった。嬉しいときには喜び合い、悲しいときには慰め合い、励まし合うような仲だった。

四番目の妻は、男にとってほとんど召使いと変わらなかった。彼女は男のために毎日忙しく立ち回り、罵られながらも男の意のままに立ち働いた。にもかかわらず、夫からは何の愛情も受けなかった。それどころか、その存在自体が忘れ去られているようだった。

ある日、王様からこの長者に遠い国へ旅するように命令が下った。

そこで長者は一番目の妻に一緒に行ってくれるように頼んだ。
しかし、「嫌でございます。どうぞ一人で行ってください」と断られてしまう。

長者は二番目の妻に同行してくれるように頼んだ。
しかし、この妻からもつれない返事が返ってくるばかりだった。

しかたなく長者は三番目の妻に話をした。
すると「国境まではお見送りいたします。でも、そこから先はご一緒できません」という答えだった。

長者はいよいよ困って四番目の妻に頼んでみることにした。
すると「はい、私はあなたと一緒にどこまでも参ります」と言ってくれた。
最もひどい仕打ちをした妻がお供をしてくれるという。こうして長者は四番目の妻と共に遠い国に旅立っていくことができた。


「あの世」に通じているもの

この話を読んで、皆さんはどんな感想をもったでしょうか。
女性なら、なんてひどい男だ!とお怒りになられる方もいらっしゃるでしょう。
男性なら、やっぱり金持ちはいいなぁ!と思うか、バカな男だなぁ、例え一夫多妻制が許される環境でも、面倒だから自分なら4人も同時に妻になんてしない。という方もいるでしょうね。。

ちなみに私は、四番目の妻はこの男に何を見ていたのかが知りたくなりました。

さてこれは寓話です。つまり、実話ではなくその背後に何かしらの教訓や教えのようなものが隠された創作です。
では、それは一体どんなものなのでしょうか。

このお話にある「ある国」とは『この世』、「遠い国」とは『あの世』を指しています。
つまり、あの世に向かう際に誰が一緒に来てくれるのか、というお話なんです。

では、一番目から四番目までの妻は何を意味しているのでしょうか。

一番目の妻とは自分の肉体のことを意味します。
人間が自分の身体を扱う様子は、一番目の妻に対しての扱いに近いですよね。
肉体から発せられる生理的欲求には無条件で降伏せざるを得ない面があります。
(そこまで溺愛できない方も結構いらっしゃいますが。。)
しかし、死んでしまえば肉体は滅び、やがては灰になり、土に帰ります。
この世を実存の世界と考えるなら、実存の世界の産物である肉体は、あの世にまでは連れて行けないのです。

二番目の妻とは自分の財産を意味します。
これも、実存の世界の産物です。どんなに苦労して手に入れた財産であっても、死ぬときに持っていくことはできません。
やがては誰か他人のもの、またはまた別の物変えられるでしょう。

三番目の妻とは実際の自分の妻(あるいは子ども、兄弟、親類、友人)を意味します。
死ぬときには涙を流して悲しんでくれても、やはり実存の世界の産物に変わりありません。彼らには彼らの時間を全うする必要がありますし、それを他人に奪う権利は基本的にはありません。
人間皆、死ぬ時は一人です。

では最後、四番目の妻とは何でしょうか。
それは自分の心です。
実存の世界で、自分を自分たらしめる唯一のものなのに、その存在は目に見えないが故に蔑ろにされてみたり、後回しにされてみたり、見て見ないふりをされてみたり、目に見える形あるものには決してできないような仕打ちもできてしまいます。
ですが、その目に見えない心だけが、あの世まで一緒に来てくれるといっているのです。


算命学的な視点からの解釈

以前、異気集合論のところでお話ししたかと思いますが、算命学的には、人間の魂は生きている間は融合し続け、亡くなると霧散するとされています。

ですので、この仏教の寓話に関しては前提が違ってきてしまいますが、でも霧散した魂は消えるわけではないのです。

細かく分離するだけであって、消えてなくなるということではないため、また実存の世界に形あるものとして存在する際に、以前の魂の一部が再利用され、他の魂の一部と再融合していくだけのこと。

ですので、この寓話の「心」が「霧散した魂の一部」と解釈することはできます。

私は、この心は魂に影響をされるものであると思いますが、想念や思念が生まれる場であるとも考えています。

算命学上の心は、人間を人間たらしめるための重要な「機能」として捉えられています。
ただ、この心が機能するためには、一定量の魂の融合が必要なので、心と魂の関係は地続きのものになります。

ところで、そもそもこれは仏教寓話なので仏教的な心とは何かというお話も書いておこうと思います。

ブッダは魂には実体はないと考えました。その論理が仏教経典の『二入四行論』に「心というものが最初から存在しているのではない。心というものはいつも、対象物によって生じる。対象物が心というものを引き起こすのだ。」と記されています。

つまり、人と人、人とモノなどの関係性の中で成立するようなものだと言い換えることもできるでしょう。

さて、私がなぜ「恋愛のおはなし」というタイトルの文章に、この話を持ち出したのかというと、この心というものは、どんなジャンルの思想においても「目に見えないモノ」という共通の見解があり、そこには必ず「想い」が働くということ、そして何らかしかの「記憶」みたいなものに結びつくからです。
実存の世界とは違う時間軸で存在できるからです。


素敵な贈り物

私がこのお話を知ったのは、『座右の寓話』(戸田智弘著/ディスカヴァー)を読んだからなのですが、その中で、この寓話に対して作者がこんな話を引き合いに出しています。

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哲学者の今道友信は『人生の贈り物』(かまくら春秋社)の中で哲学者のガブリエル・マルセルとの別れの場面を回想している。
今道がフランスでの留学を終えて日本に戻る少し前に、マルセルが問いかけた。

「ムッシュ・イマミチ、これからは君と会えなくなるけれども、人間が他の人間に贈ることのできる最大の贈り物は何だと思いますか。」

今道は思いつくままいろいろと挙げたが、どれもマルセルは違うと言う。
そしてマルセルは言った。

「人間が人間に贈る最大の贈り物、それは『よい思い出』です。どれほど立派な品物でも、いつかは壊れます。壊れなくても色が褪せてしまいます。でも、よい思い出は一生かわることはありません。壊れることもなければ色褪せることもない。一生続きます。そしてそれを君が語り継いでいけば、その次の世代の心にも残るでしょう。よい思い出を人からもらうようにしなさい。それと同時に、よい思い出を人に与えるような人間になりなさい」

———————-

ただこう在りなさいと言われても、ピンとこない場合もあるかもしれません。
しかし私は、算命学上、生きている間は出会うすべての人間、自然、生き物、モノ、場所など、ありとあらゆる実存の相手と自分の魂の一部を交換しあって、融合しながら生きていくものだという法則を知ってから、なるべく自分の内側を清浄な風が常に吹いているような状態にしたいと考えてきました。
(これは完全に私の個人的なイメージなので、すべての人がそうあるべきということではありません。)

こと恋愛においては、この影響力はかなり強力なのではないかと思います。
なぜなら、相手を想うことに費やす時間、エネルギーの強さにおいて、恋愛というのもからしか生まれない種類の特殊な質を持っているように思えるからです。

そもそも、この寓話自体、なぜ妻というものを例えにしたのかということを考えても、私の上記の考え方は一理あるのではないかと思うのです。

恋愛における心のエネルギーはプラスの要素もマイナスの要素も強く、端的でわかりやすいからではないのかなと。

そして、死して尚残りやすいからではないのかなと。
なぜなら、そもそも形がないので。

どうしようもなく辛い思いをしたのに、良い思い出になるよう努力しろというのは違うと思いますし、辛い思いをさせられた相手に対して、良い思い出をあげようなんて、中々思えないことも理解できます。
ですが、算命学上は、相手を恨むことは、相手に渡した自分の魂の一部も同じように恨むことになるため、無自覚に自分自身を傷つけます。

それに、人はそんな想いに限って、なぜかぎゅーっと強く、いつまでも握りしめてしまうところがあります。
それはまるで、この寓話の男が4番目の妻に対してしていた扱いそのもののように私には見えます。

そして、ちょっとここからさらに視野を広げて考えてみれば、詰まるところ、そういう状態でいるあなたの周りにいる人たちも、あなたの想いの影響を受けてしまうということです。

それは、プラスでもマイナスでもです。

私は、恋したての方々を見てて、その余りの煌めきに目が眩みました笑
この歳になると、そんなに純粋にキラキラと恋している方を目の前にすることが少なくなっていくので、そういう方に出会うと、本当に勝手に笑顔が溢れてしまいます。
そして、幾つになっても恋愛の持つエネルギーの鮮烈さに驚かされます。

その逆の状態になっている方ももちろんいらっしゃるのですが、それでもやはり相手を想う心の在り方は選ぶことができます。

いつでも、選択権は自分自身にあります。

自分自身の四番目の妻(女性なら夫)にこそ、素敵な贈り物をあげてください。
それは、自分だけでなく、あなたに関わったすべての人にあげることとイコールです。
そして、あなたが死して尚、誰かの中に残り続ける確率の高いものです。

もしそのやり方がわからなくなっているのであれば、私にご連絡ください笑
算命学を通して、ご自身にあった方法を一緒に考えます!

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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鑑定料は1件につき60分8,800円となります。
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