恋とは何より美しくて、何より怖いものなんですね
最近読んで感動した漫画に、『チ。ー地球の運動についてー』というものがあります。
2022年の6月27日にアニメ化が発表されたので、もしかしたら知っている人も多いかもしれません。
わたしが一巻を試しに読んでみると、まるで身体に雷が走ったかのような衝撃に震え、最終巻まで一気に大人買いしてしまいました。
本当に面白かったです。
なんで、こんなにも『チ。』に魅了されたのだろうと疑問に思ったのですが、おそらく彼らの生き方がわたしには輝いて見えたからかもしれません。
ある種、わたしたちのゴール設定に通ずるというか、見習わないといけないなぁ、と勝手に思っています。
では、なぜ輝いて見えたのでしょう。
それを説明する前に、『チ。』について、少しだけ内容を説明したいと思います。
舞台は15世紀。まだ異端審問が公然と行われていた時代のことです。
その頃の常識とは、『天動説』でした。
地球は宇宙の中心にあり、天体は地球を中心に回っている、というのが当時の主流の考え方でした。
天文学者はその説を証明するために、星々を観測し、その知性を働かせましたが、どうしても星々に規則的な動きは見られません。
秩序がありませんでした。
美しさがありませんでした。
しかし、その問題を解決する答えは見つけられず……結果、宇宙とは神が創った深淵なシステムなのだから、人間には分かるはずがない、と投げやりな結論になってしまったのです。
しかし、そこに異を唱えた者たちがいました。
彼らは、天体ではなく、地球自身が回っているのだ、と言いました。
そこでは、太陽は静止し、
バラバラだった惑星は連鎖して動き、
宇宙は一つの秩序に統合され、
常識は覆り、
C教は激昂し、“美しさ”と“理屈”が落ち合う
これが私の研究だ。
そうだな それを、
『地動説』とでも呼ぼうか。
(フベルト)
今のわたしたちにとって、地動説とは常識です。
しかし、当時はそれが常識ではありませんでした。
常識から逸脱したものは、当然排斥されます。
地動説も、地動説を研究していた人たちも、当然の如く排斥されました。
いえ、排斥されるだけならまだ良い方で、異端審問という名の拷問で、その者の考え方を強制的に歪めようとさえしています。
おいおい、隣人愛はどこに行った? といった感じですね。
わたしが常々思うのは、常識とは形のない魔物のようだな、ということです。
常識というのは、他人が決めたものに過ぎないのに、するりと自分の頭の中に潜り込んで、わたし自身を支配してきます。
とても恐ろしいことだと思います。
常識について、苫米地博士が語っておられるので、それを引用して、参考にさせていただきたいと思います。
(引用開始)
実は怒りを考える上で、この“常識”という言葉はかなりのクセモノです。特に、正論と結びつくと、あたかもそれが万人に共通する、共有知のように感じてしまうものです。
しかし、少し考えればわかるように、“常識”という言葉はいくらでもイカサマが可能です。
たとえば、「おいおい、こういう時は幹事が自腹切るべきだろ、常識でしょ」「まいったな、そんなことも知らないの、常識ねえなあ」といった使い方ですが、分解して考えればほとんどがデタラメです。
ところが、“常識”の恐ろしいところは、よく考えればデタラメであっても、一瞬の説得力は抜群だということです。特に、正論を枕詞にして、「だから常識でしょ」とやられるとなかなか反論しづらいのです。というか、正論に反論したら、負けるに決まっています。
(引用終了)
常識と戦ってしまうと、負けってほぼ確定させられるんだなぁ、と思いますよね。
たとえば、「実は消毒って肌に悪いから辞めた方がいいですよ」と言っても、「いや、コロナなんだから、そんなこと言ってんなよ」と一蹴されていまいます……か、勝てない!
(一応、消毒がダメな根拠を示しておきますね)
https://ameblo.jp/matoinoba/entry-10804808806.html
話を戻します。
当時は、「天動説」が常識でした。
その常識を覆そうとする「地動説」は、その常識によって既得権益を得ている者たちにとって、明確な敵だったのです。
だから、地動説を研究する人たちは、次々と異端審問にかけられ、処刑されていきました。
そんな時代に、地動説に恋をしてしまったひとりの少年がいました。
その少年の名を、ラファウと言います。
ラファウは孤児でしたが、要領がよく、賢く、合理性を好んでいたので、養子となり、さらには大学に行くキップすら手に入れることができた、いわゆる秀才です。
そんなラファウは世の中に対して、ある感想を抱いていました。
世界、チョレ〜〜〜
大変申し訳ないが、この世はバカばっかだ。
この、何とも言えない世の中舐め腐っている感が、わたしはすごい好きなんですが、しかしラファウは、ひとりの男との出会いによって、その運命を狂わせられます。
その男の名をフベルトと言います。
フベルトは異端審問で一度拷問にかけられましたが、それでも懲りずに地動説を研究しようとし、その研究のためにラファウを脅しました。
はじめは、そんな横暴なフベルトに反感を覚えるラファウでしたが、フベルトの信念や、フベルトが信じる地動説に徐々に魅了されていきます。
たとえば、ラファウはフベルトに、地動説の方が美しいなんて、こんな不確かな直感に命をかけるのは、愚かだと指摘します。
それに対してのフベルトの回答が美しいのです。
この言葉は、後のラファウの行動に大きな影響を与えます。
不正解は無意味を意味しない。
これを、コーチング的に置き換えるなら、「失敗はそもそも存在しない」になるのでしょうか。
(引用開始)
同じ結果に対して、私たちはつねに、良い、悪い、どちらにも評価することができます。結果が失敗でも、「よかった。これで成功に近づいた」という評価と、「また失敗か。この調子じゃ、次もうまくいきそうにない」という評価があり、どちらが本人にプラスになるかといえば前者に決まっています。
自分が自分に下す評価なのですから、自分の成長にプラスになるように評価するのが、ごく当たり前の健全なやり方のはずです。
(引用終了)
話を戻しますが、ラファウは地動説に恋に落とされてしまった、と言えるのかもしれません。
思えば、恋というのは不思議です。
同じはずの日常が、恋人ができただけで、まったく違う光景に見えてきます。
自分が過去の自分とは明らかに違うように感じ、恋人のためならば、これまでの悪い癖や考え方を死に物狂いで矯正しようとします。
恋人のためならば、命すら惜しくない。
そう本気で思った人も、きっと少なくないと思います。
それを恋と定義するのであれば、ラファウもきっと、地動説に恋をしてしまったのでしょう。
地動説は、時限爆弾に近いように思います。
チクタク、と時間が経てば経つほど、研究すればするほど、破滅へと近づいていきます。
もし、誰かに、自分が地動説に研究していることがバレてしまったら、異端審問にかけられ拷問されます。
あまりに恐ろしい世界です。
普通に生きていれば、ラファウは世間の人間が羨むような人生を送れたことでしょう。
普通の人間であれば、そんな危険な考えは捨てて、いつもと同じ日常に戻ったことでしょう。
でも、そこに“美しさ”はないのです。
ラファウにとって、天動説で動く世界より、地動説で動く世界の方が、ずっとずっと“美しかった”のです。
だからこそ、ラファウは地動説を選びました。
抗いようのない衝動に突き動かされて、これからの人生を、地動説を証明するために使うことを決めました。
一歩間違えれば、破滅の人生です。
しかし、それは、自己犠牲の精神ではなく、むしろ逆で、自分が心から望む「want to」な世界でした。
その在り方は、まるで彼が選んだのではなく、運命が彼を動かしているかのようです。
「私がバレエを選んだのではない。バレエが私を選んだ」とは、世界的バレエダンサー、ルドルフ・ヌレエフの言葉ですが、わたしは『チ。』に同じような感情を抱いてしまいます。
まさに、ラファウが地動説を選んだのではない。地動説がラファウを選んだのです。
わたしたちは、このラファウという主人公から、ゴール設定の秘訣を学べるように思えます。
つまり、それは、どうしようもなく魅了されて、恋に落ちてしまうもの。
そして、それを思うと、「ひざががくがくする」ほど怖くて、それでも達成したいと思うもの。
それがゴールなのでしょう。
(引用開始)
「ゴールを設定する感覚が分かりません」と言われることがたまにありますが、、、「死にそうな感覚」であり、恐怖であり、緊張であり、、、、しかし、「たまらない」ものです。
ゴールを設定し、新しいことをスタートするというのは、たまらない感覚ですが、それは単なる「わくわく」みたいなものだけではなく、文字通り「死にそう」なものです。文字通り「ひざががくがく」するもので、「すごく緊張」するものです。
僕はむしろ恐怖や絶望というキーワードでしか、表現できないものだといつも思います。
絶望的な壁があることを「現状の外」というわけで、単にゆるい頭がワクワクするだけであれば、お花畑で溺死するだけです。
バカには見えない壁があるのです。
これはバカだから見えないという意味ではなく、知性がなければ認識できないということです。
全方位の知性などAI以外に望むべくもないのですが、少なくとも自分がゴールだと思う方向への知性は必須です。
行きたい場所について、何も知らないというのは、本当は行きたくないのです。
本当に行きたいなら、知りたいと思うし、知れば壁が見えてくるのです。
厳然たる壁が目の前にきちんと見えているからこそ、「死にそう」なのです。
ですから、逆に「死にそう」とも思わないスタートは、何かがおかしいのです。
というか、それはスタートではなく、きっと堂々巡りです。そこで楽しくワクワクするのは、それはそれで人生です。ワクワクが悪いわけではありません。ただ、本当に恐怖や絶望の裏打ちがないワクワクなど、意味がないのでは、と言っているだけです。
(引用終了)
あなたは、わたしにそんなものはないと言うかもしれません。
正直に言うと、わたしだって見つかっているとは言えません。今も探している最中です。
でも、見つかっていないだけ、もしくは目を逸らしているだけなのではないか、とも思うのです。
恋に落ちてしまえば、人生が変わります。
それが恐ろしくて、だから目を逸らして、スコトーマにしてしまっているのではないでしょうか。
真のゴールとは、天動説が常識の時代に、地動説を証明しようとするような、バカで、向こう見ずで、恐ろしくて、何より美しいものなのだと思います。
最後に、『チ。』のこのセリフをお伝えして、この文章を締めたいと思います。
きっと怖くない人生なんて、存在し得ないのでしょう。
それでは、また。
またね、ばいばい。
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