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わたしは『モモ』のように生きたい

 最近、ミヒャル・エンデの『モモ』を読み返しています。
 まだ途中なんですが、やっぱり読めば読むほど新しい感想が出てきて、おもしろいです。
 なので、今回の記事はその『モモ』について、話していきたいと思います。
 テーマは、「灰色の男たち」です!
 
 とは言え、その前に、『モモ』を知らない方のために、ちょっとだけ、あらすじを共有したいと思います。
 この物語の主人公は、モモという浮浪児の女の子です。
 彼女は浮浪児なので、帰る家も、愛してくれる親もいません。正規の教育を受けていないので、数字のことも100しか知りません。だから、自分の年齢も分かりません。
 それでも、モモは幸せでした。
 
 なぜでしょう?
 
 町の人たちが、モモの生活の世話を焼いてあげていたからです。
 この人たちは、見ず知らずの女の子に優しくしてあげるような良い人たちばかりでしたが、しかし優しさだけが、モモを助ける理由ではありませんでした。
 
 モモは、人の話を聴くことが、とても上手だったのです。
 それだけ、とあなたは思うでしょうか。
 でも、実際のところ、人の話を聴くことは、とても難しいのです。
 たとえばそれは、相手の話をそっくりそのまま復唱できるレベルでなければなりません。
 
 人の話をよくよく大事に聞いていないと、なかなかできません。
 でも、モモはそれができました。
 モモの話を聴く力については、「まといのば」で紹介されているので、それも少し引用させていただこうと思います。
 
(引用開始)
 
モモがまさにこの話を聴く人を体現しています。

僕等の言い方をするとEchoができているのです。きちんと傾聴できています。
なので、どのような言い争いも喧嘩も問題もモモの前で話すと解決していきます。
モモはMBA仕込みのソリューションを提示したり、システム構築をするわけではありません。
ただ聴くだけです。ただひたすらに聴くだけです。

聴いているだけで、問題が勝手に整理され、情報処理されていきます。

このときのカラクリが(勝手な想像ですが)Echoです。しっかりと聴いているのです。

 
 https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12137774713.html

 
(引用終了)
 
 モモはきちんと人の話を聴くことができました。
 だから、町の人たちは困ったら、モモに話を聞いてもらうことで、問題を解決していきました。
 モモは、町の人たちにとって、なくてはならない存在だったのです。
 
 そんなふうに、モモと町の人たちは幸せに暮らしていましたが、暗雲が立ち込めます。
 誰も、その兆候に気づくことはできませんでした。
 気づけたのは唯一、モモだけでしたが、モモですら、それは不安という形でしか認識できませんでした。
 
 それの名は、「灰色の男たち」です。
 しかし、これも仮の名であって、実際の名はどういうのか、わたしは知りません。
 そもそも、名前があるのかすらもわかりません。
 
 この灰色の男たちは、誰の目にも見えませんでした。
 いえ、目には見えますが、誰もが彼らを道ばたの石ころのように思い、意識に上げることすらできなかったのです。
 
 灰色の男たちは、それによって、堂々と悪だくみを働いていました。
 それが『時間貯蓄銀行』です。

 彼らは、将来に対して不安を抱いている人間をターゲットにして、その人間がどれだけ時間を無駄にしているかを語り、より時間を節約して働き、余った時間を『時間貯蓄銀行』に預けることを提案します。
 
 でも、そのやり方がまたひどくて、とにかく立板に水のトークで相手を圧倒し、頭の中を真っ白にし、恐怖を増幅させ、自分の言う通りに行動させようとするのです。
 
 だから、その人間は、灰色の男によって、必要のない時間はどんどん削られていきます。

 仕事場でお客さんと談笑する時間。
 お母さんを世話する時間。
 家事をする時間。
 友だちと遊ぶ時間。
 本を読む時間。
 恋人と会う時間。
 
 それらは必要のない時間として、節約されます。
 そうやって節約された時間は、『時間貯蓄銀行』に預けられます。
 でも、その人間が時間を引き出すことはありません。
 なぜなら、預けた人間は、灰色の男の存在など、すっかり忘れてしまっているからです。
 
 その人は、灰色の男によって刷り込まれた言葉を、自分の考えだと錯覚し、自分の意思で、どんどん時間を節約していきます。
 しかし、削られた時間は返ってきません。当たり前です。預けられているのですから。
 でも、それによって、その人はどんどん気分が悪くなってしまうのです。
 どんどん怒りっぽくなります。
 どんどん寂しくなります。
 なのに、原因は分からないのです。
 だから、また時間を節約しようとします。時間を節約すれば、幸せになれると思っているから……。
 
 灰色の男たちは、このように、せかせかと忙しなく時間を節約する人間を、どんどん増やしていきました。
 そうすると、人々は分断されます。
 時間の節約を第一に考えると、人は真っ先に他者との時間を削ろうとします。
 なぜなら、働かなければ生きていけませんが、友達は、たとえいなくても生きていけるからです。
 
 そうやって、人はそばに同じ人間がいるはずなのに、どんどん孤独になっていきました。
 まるで、わたしたちのようです。
 
 私たちも、コロナ禍によって分断されました。家に引きこもり、他者との関係を拒みました。
 その傾向は、メタバースの存在によって、より加速していきます。わたしはセッションで、先生にそう教わりました。
 
 この現象を引き起こされたのは、政治家やマスコミなどの影響が多分にあるでしょうが、だからと言ってわたしは、灰色の男たちの正体は権力者だ、とか。
 作家のエンデは、「灰色の男たち」を書くことによって、わたしたちを分断させようとする権力者の存在を暗に示したのだ、と言うつもりはありません。
 
 そもそも、『モモ』は児童小説であり、子供たちに向けて書かれたものです。
 灰色の男は、確かに暗喩だとわたしは思います。
 けど、それはもっと子供たちに近いもので、でもなかなか気づけない、そんなあいまいなものだったんじゃないかな、とわたしは思うのです。
 
 つまりです。
 灰色の男たちの正体とは、「言葉」だったのではないでしょうか。
 思えば、言葉というのは不思議です。
 言葉が大切だ、という意見にはだれもが賛成するでしょうが、でもだれもが言葉をぞんざいに扱っています。
 
 これほどわたしたちの身近にあって、これほどわたしたちに雑に扱われるものを、わたしは知りません。
 
 そして、だれかを雑に扱えば、だれかに雑に扱われます。
 だれかを裏切れば、だれかに応報されます。
 その論理は、因果応報ではなく、縁起の上に存在します。
 以外、私の先生より引用します。
 
(引用開始)
 
すなわち僕たちは、自分が裏切ったものに最後報復されるのでしょう。

僕に限って言えば、「まといのば」の気功を軽んじて、使用する言葉の吟味を怠り、「まといのば」も気功も両方とも裏切ってしまいました。

そして何よりも本当の自分自身を裏切り、虚栄心と自己愛がべっとり張り付いてしまっている模倣で生み出した偽りの自分を愛してしまい、その報いを受けました。

というのが前回の話でした。
 
 なぜ裏切ったり雑に扱ったりしたものから報復されるのか、そう考えるときに理解の助けになると僕が考えるのが、縁起の概念です。

当然ながら縁起とは釈迦が悟ったことであり、「まといのば」でも苫米地理論でも重要視されるものです。

その縁起をシンプルに言ってしまえば様々なものがお互いに縁(よ)り合って関係しているということになるでしょう。子になるのに父と母がいるように、父と母になるのにも子が必要です。

そのようにありとあらゆるものが関連してネットワークをなしている様を、縁起と呼びます。
 
(中略)

 
全てが縁によって起こることを受け入れるのなら、自分が裏切ったものや軽んじたものに報復されるのは理解しやすいと思います。鏡が反射するように自分が裏切ったり軽んじたものからは報いがあるのです。

報復は、体調不良だったり、人間関係の崩壊だったり、共同体から追放だったりと、様々な形で現れるので一概には言えませんが、何かしらの報復を受けます。

逆向きに考えれば、自分が大切に丁寧に扱っているものからは良い報いを受けるということです。それをヒーリングと呼ぶのだと僕は考えています。


(引用終了)
 
 ちょっと強めな言い方をするなら、わたしたちは、言葉を支配しなかったことで、言葉に支配されて生きるようになったのかな、と思います。
 それも、知らず知らずに、です。
 
 それが、「言葉」を裏切ったわたしたちへの報いなのだと思います。
 ちなみに、支配とは相手を思い通りにすることではありません。「臨場感空間の支配」です。
 
 それについて、また「まといのば」が説明してくれているので、引用させていただきます。
 
(引用開始)
 
 ちなみに、支配欲と「臨場感空間の支配」は全く異なる概念です。「人を支配したい」という不思議な願望を持つ人がいますが、それは近代が産み出した不思議なパラダイムの1つですので、さっさと放り出すことをオススメします。我々が「支配せよ」という言葉を使うときは、「人を思い通りに動かせ」という意味ではなく、「臨場感空間を支配せよ」という意味です。
臨場感空間を支配することで、間接的に副次的に「思い通りに動かす」に近い現象が起こることがありますが、動機もゴールもそれとは全く違うものです。

 
 https://ameblo.jp/matoinoba/entry-12339168739.html

 
(引用終了)
 
 言葉を支配するということは、言葉についてよく知るということだとわたしは思います。
 普段、わたしたちが使う言葉。
 その言葉が誰によって与えられたものなのか、よく吟味することで、わたしたちはリアリティーを揺るがせ、その言葉の支配者となることができます。
 
 とはいえ、でも、べつに言葉はわたしのものではありません。
 わたしたちは他人から与えられた言葉によって、生かされています。
 そういう意味では、わたしたち自身から生まれる言葉なんて、本当はどこにもないのかなぁ、なんて思います。
 
 だから、わたしたちが使っている言葉が、本当は誰の言葉だったのか、よく吟味していきたいのです。
 そうすることで、わたしたちは良い言葉を受け入れ、悪い言葉から縁を切ることができます。
 
 逆に、すべての言葉は、わたし自身から生まれた言葉だと、傲慢にも錯覚してしまうと、「灰色の男たち」の報復を受けてしまうかもしれません。
 でも、多くの人は、無意識に、自分が使っている言葉は自分のものだと、エゴを発火させている気がします。
 
 悪い意味で、言葉を支配しようとしています。
 それはつまり、言葉を自分のものだと錯覚しているんじゃないかな、ということです。
 
 傲慢とは、自分の外側にあるものを、自分のものだと錯覚することから、始まるのだと思います。
 家族や友人を、初対面の人間より、雑に扱うことはよくありますよね?
 経験則ですが、わたしたちはなぜか、自分に近しいものを、わたしのものだと錯覚し、雑に扱ってしまう傾向にあるようです。
 でも、家族も友人もわたしのものではありません。言葉も同じです。
 
 言葉も同様に、わたしたちの外側にあります。わたしのものではありません。
 わたしたちの外側にある言葉が、わたしたちを形作っています。
 だから、言葉を大切にしたいのです。
 
 そして、それは、つまり、他者から、どんな影響(言葉)を受け取るのか、自分で選ぶということです。
 それが、言葉を大切に扱うことなのかな、とわたしは思います。
 そして、それはまっすぐにヒーリングであるとも思います。
 
 モモもまた、だれよりも言葉を大切に扱っていました。
 上手ではなく、愚直、と言うべきでしょうか。
(誰よりも愚直に言葉に接することで、人より抜きん出ることができた。そういう印象を受けます)
 
 わたしたちは、このモモの愚直に言葉に接する姿勢を見習いたいのです。
 
 以上、ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました!
 それでは、また。
 またね、ばいばい。





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