最下位の幕開け(後編)<コロナ>

1月15日の朝8時半

尋常でない叫び声と足音が遠くの方で聞こえ、私は飛び起きた。私の部屋は地下にあり、リビングは2階。不穏な空気が漂うリビングへ、寝ぼけたまま全力で駆け上がった。

リビングに着くと、そこには仰向けで真っ青な顔をして倒れている父と、パニックになりながら大声で119に連絡をしている母。

私は急いで父の顎を少し上げて、水を取ってきて、タオルを濡らしておでこに乗せて、、あまりはっきり覚えていないけど、必死に冷静に努めていたと思う。私がリビングに上がったとき、父はもう目を開けていた。だが後から聞けば母と二人で食事を取り、その途中に暑さを訴えてそのまま意識を失ったという。目の前で人が倒れるところを見た母は取り乱して当然だ。せめて私が、せめて私が、と言い聞かせていたと思う。

「頑張ってよ」と肩を叩きながら呼びかければ応えられるほどには落ち着いたが、それでも動けそうもなく、そうこうしている間に救急車が到着した。

オートロックまで迎えに行こうとしたら、居合わせたマンションの方が開けてくださったようで、私は廊下で、向こうから走ってくる8人ほどの救急隊員さんを部屋へ迎え入れた。10分もしない短い期間だったが、母と二人で父を世話していたから、救急隊の顔を見た瞬間、少しだけホッとして涙が出そうだった。ヒーローに見えた。

全員を部屋に入れた後、リビングに上がる数名の隊員さんと、玄関で電話をする方、一階で待機している方に分かれていて、私は階段が塞がれていたのもあって一階の踊り場でウロウロしていた。必死に落ち着こうと自分に言い聞かせた。一階には洗面があるので、手持ち無沙汰で顔を洗ったのを覚えている。すぐ隣にいる隊員さんと会話をすることもなく、手を握りしめてウロウロしていた。

しばらくして上に上がると、母がかかりつけ医に電話をしていた。13日のPCR検査の結果を聞くためだ。これで陽性か陰性によって運ぶ病院も処置の仕方も大きく変わってくるのだ。

ところがうちのヤブ医者(ごめんなさい)はまだ結果が出ていないというのだから母は半ギレ。「全ての対応が遅くて雑じゃないですか?だからうちの主人は倒れたんですけど!!」って怒鳴っていた。人を責めるよりも自己嫌悪になりがちな私だけど、かかりつけ医のお医者様もこんな状況ですごく忙しかったんだろう、それもわかるけど、確かに何もかも遅くて、対応が雑だったように感じてならない。

結果が出ていないということで、救急隊は陽性じゃないver.で病院を探し、処置を始めることとなった。そのまま救急車に運ばれて、私たちは受け入れ先が決まるまで家で待っていてくださいと言われた。

この時間が一番辛かったなあ、

一階の玄関と二階のリビングの間の階段に母と並んで座り、言葉も発さず黙って手を握りしめていた。私は少し泣いてしまった。母は、「大丈夫、大丈夫だから」と言い聞かせているように見えた。

10分くらいそうしていると、電話が鳴った。かかりつけ医からだ。「今急いで調べたら、ご主人と奥様は陽性、娘さんはまだわからないので午後に連絡します」とのこと。急いで調べたらって、もう結果は出ていたってことなの、、?って少しざわざわする。

私は急いで救急車へ走り、陽性だったことを伝えた。間に合ってよかった。これで普通の病棟に入れられてたら、病院内クラスターもんだよ。救急隊の方も大慌てで方向転換、その後また10分ほど待って、受け入れ先が見つかった。

父が倒れる前、両親は朝ごはんを食べながら、コロナ感染者が増えて入院先が見つからない、っていうニュースを見ていたところだったそう。それもあって、受け入れ先を待つこの時間が一番苦しかった。

陽性と分かれば、もちろん私たちは同行できない。ウロウロしていた時に、片っ端から入院に必要そうなものをカバンに詰めていて、それを隊員さんに渡した。私は動揺していて、何故か机の上のみかんを入れた。

父を乗せた救急車を見送った後、私たちはまた何も喋らなかった。黙って散らかった部屋を片付け、黙って座った。人って動揺しすぎると言葉を発せなくなるのか。家族中にラインを入れて、できる限りのアフターケア?をして、それから黙ってご飯を食べてた。正月の残りのお餅が喉に詰まるかと思った。

1時間ほど経って、少しずつ母と喋った。実はこの日、朝起きた時は父より母の体調の方が悪かったそうだ。確かに呼吸が辛そうだ。でも父が家からいなくなって、気が引き締まっただとか、私がしっかりしなきゃだとか、また無理しそうなことばかり言う。

母はあの(前半で書いた、)昭和初期の肝っ玉婆ちゃんと頑固親父の娘であるから、当然ながら強がりで、心配をかけまいと「大丈夫、大丈夫」といってすぐに無理をする。そうするとわかりやすくその後弱る。父が倒れる前の数日間、体調が良くなったとなれば部屋の掃除をしたり家事を私から奪い取って無理をし、翌日また寝込む。本当に呆れる。こればかりは何度もブチ切れてる。

母が無理をして弱っても、なんだかんだで父がいた。私はその精神的な支えである父が入院して、怖くて怖くてたまらなくなった。母が倒れたら、今度は私が救急車を呼ぶんだ。入院してからの一人暮らしはできるけど、その間は毎日眠れなくなるだろうな。とか色々想像してしまった。

母は、父が入院したことに関してとてもショックを受けていた。もちろん油断はしていないけど、私としては、家で先の見えない療養をするより(父の高熱は1週間続いていた)、お医者様に委ねた方が安心だと思った。それよりも私の使命は、母の監視係。父が帰ってくるまで、母の病状を管理して無理をさせないこと。この瞬間に私の方こそ気が引き締まった。

運ばれて2時間ほど経った頃、父から家族3人のグループにラインが入った。

「これからCTとか検査しますって。
とりあえず落ち着いているし、大丈夫だよ」

張り詰めていた空気が緩んで、私たちはやっと雑談できるようになった。母は、父が倒れるところを見たのは2回目だとか(1回目は酔っ払って)。私はパニックになって病院の荷物にみかん入れちゃったとか。みかん食べるかな?みかん食べるかどうか賭けしよっか。とかその程度の話。

その日、私たちは何にもしなかった。普段だったら私は部屋で作業をし、母は寝たりテレビを見たり。はたまた二人で映画を見たり。でもこんな日に映画を見るのも、これ以上コロナのニュースを見るのも嫌で、何も流さず、また黙って二人で絵を描いた。母は昔の塗り絵を引っ張り出して力作を作っていた。いろんな考え事をしながら、ひたすらに絵を描いてた。なにより、母と一緒にいること、喋らずとも隣にいることが必要だと思ったし、私自身隣にいたかった。

1月16日

コロナの陽性と分かったことで、発症から16日経ってやっと保健所から連絡が来た。叔母の感染がわかった3日に、濃厚接触者として連絡が来るはずだったがこなかった。保健所も相当逼迫しているんだと思う。ちなみに私も13日の検査で陽性が出た。流石にもう2週間弱経っているし症状もないので陰性と思っていただけに驚きだ。人に移す感染力を持たない、コロナの死骸?がPCRで反応することがあるらしい。。

保健所の方は丁寧に話を聞いて、私たちの不安さに寄り添ってくれた。少しでも体調の変化があればこの番号にかけてくださいね、とか、呼吸器系に未だ不安が残る母を入院待機リストに入れて下さったり。

父が1週間も熱があったことや長引く母の息苦しさを話したら、そんなに重かったんですか、、と言われ、父も母もそれなりに重症というカテゴリーに入ることをやっと知った。また、誰も受診していないことをとても驚かれた。「長い戦いでしたね」と言って下さった時には思わず泣きそうになった。

保健所という相談できる場所を知って、随分と私の心は救われた。これが発症した直後にできていたら、父が倒れる前に受診させていたかもしれない。ネットで調べたり、ニュースを毎日見ていても、実際の陽性者になったらどこからが重症で、どこからが入院かなんて全然わからなかった。結局、判断は自己管理。私はほんのちょっとだけかかりつけ医の所為にしているけど、許されるかな。。

父は軽い肺炎を起こしていて、倒れた要因は食事を取った後に熱が上がり、一時的に40度を超えたから脳がバグってしまったからだという。呼吸器によるものではなかったらしい。アビガンなどを試して、平熱に戻って3日経ったら退院できる。肺炎のピークは入院から2日後で、40度近くの熱が出て、ドロドロの汗をかいたらしい。それ以降は熱が下がってきている。

誰よりも自己ケアをして、無理もせず、ガンコもせず、家族中の誰より素直に闘病していた父が運ばれて、流石に祖父母も焦ったようだ。義理の兄である叔父は、年齢が近いことやまだ熱があることで相当な不安を感じただろう。家族全員が、また気を引き締め直した。祖父母はまだ病院には行かないようだが、、。(前半で書いた、祖父母のかかりつけ医&叔母&私の連携プレー監視作戦を引き続き行うことにした)

ちなみに従兄弟の姉が少し遅れて16日に陽性となっている。これで正月に集まった10名のうち、従兄弟の妹(15歳)以外の9人が感染。やはりコロナは普通じゃない。


ここからは今の話。昨日noteを書いている私にちゃちゃを入れてきた母と案の定真面目な話になり、話は深夜まで続いて目が無くなるほど泣いた。そしてこの家に越してきて9年目になるが、初めて両親の布団で母と一緒に寝た。

コロナは当たり前だが恐ろしく、我が家族の年明けはめちゃくちゃになった。48位ちゃんに相応しい最悪のスタートだ。そしてそれはまだ終わってすらいない。だけど、母は言う。

「あなたが可哀想だからまだ死ねないけど、コロナで今死んでもママは何の後悔もないくらい幸せを感じたよ」

私は幸せを感じる前に罪悪感とか不安でいっぱいいっぱいだった。でも言われてみて振り返ると、確かに今の我が家族はこれまでにないほど強く結びつき、支え合っている。それが、この最悪な状況の中で何よりもの救いだった。信頼できる家族という存在がいる、それは当たり前じゃないから。


母との労り合う毎日、

成長するにつれて会う機会が減ってしまった祖父母と、欠かさずしている朝晩の電話、

殆どLINEをしたた事のなかった叔母との近況報告、

家族3人のグループでは、母が恋する乙女のような文章を毎日何通も父に送っている。え、母ってこんな恋愛上手いタイプの人だったんだ。そこは受け継いでないぞ、、とか密かに思ったり。

父方の叔母が食材を家の前まで届けてくれたこと、

頑固オヤジで偏屈な叔父が、入院した父をものすごく気にかけてくれていたこと。

喧嘩してばかりの母と叔父がこまめに電話していること、

素直に、「心配だから無理しないでよ!」ってキレられるようになった自分。


私や従兄弟が小さい頃はしょっちゅう10人で集まっていたのに、今ではお正月とクリスマスくらいになってたっけ。とんでもなく気が強い家族なので、集まっては喧嘩口調で誰かしらがイライラしている。昭和臭くてしきたりばかりで短気で喧嘩腰な家族に嫌気が差すこともあれば、当たり前の生活に素直に感謝することが年々出来なくなっていた。それだけでなく、過度に「人と人との繋がり」的なものを強要する我が家族のマインドに拒否反応すら覚えていて、ここ数年は斜に構えて捻くれた事ばかり考えてしまう。些細な人間関係のトラブルなんかじゃちっともヘコタレないぞ、だってそもそもそこまで深い関わりじゃなかったもんね、みたいな。傷つきたくないだけの逃げみたいな。色々な感情に蓋をして強くなったと思っていたが、ただ鈍くなっていただけなのかもしれない。クサい家族愛だとか、日常に感謝だとか、揺るぎないもので繋がってるんだとか、素直に口にできていた幼い頃の私を、いま少し思い出している。

母は自分の職に尽力した人生だが、結局のところかけがえのないものは家族だという。「今死んでもいい」という発言は、そんな家族に囲まれて、愛情を再確認して、外に出たり仕事もできないけれど、この時間が最高に幸せだからなんだと。そんなこと言える人生を生きたいと思った。

幸せだ。


我が家のコロナは全然収束してない。今日もまだ父は入院しているし、母も完全ではない。そしてなにより祖父が心配だ。

このnoteのタイトルには「後編」とつけたけど、我が家のコロナとの戦いが終結するにはまだまだかかりそうだ。油断なんて少しもできない。


反省はするけど後悔はしない。

ずっと支えられている母の言葉を胸に、愛で満たされた家族全員で絶対にまた集まる。祖父母の家で、来年のお正月は今年の分までおせちを食べよう。みんなでカードゲームと麻雀をして、会話をしよう。それから、改めて私の罪を誠心誠意謝りたい。

私たち家族はコロナという強敵を前にしても尚、その先を見ている。

絶対に家族みんなで乗り越えてやる。



1月19日。


一年が始まってまだ1ヶ月も経たないのに、感情の情報量が多すぎる。そして一難去ることができたら、また一難がやってくるんだろう。

だけどいかなる災難が起ころうとも、私がこの19日間で感じた想いを総動員させれば乗り越えられる気がする。それから、今年は母にも優しくできると思うから、母の言葉を思い出しては素直に受け止めよう。日々の生活に感謝して、他人にもう少しだけ寄り添ってみよう。人の良いところを探してみよう。出かける時は笑顔で別れよう。朝の挨拶は元気にしよう。

人を見送る時は相手が見えなくなるまで。父が出かける時は玄関まで。ピアスを開けてはならない。タトゥーを入れてもならない。洗面所を使ったときには髪の毛一本たりとも残さぬように。人の家に行く時は靴下を持っていけ。帰りが遅くなる時は早めに連絡すること。人に迷惑や心配はなるべくかけない。でも素直に人に頼ったり甘える心も失ってはならない。自分の行動に責任とプライドを持て。自分が後悔しない人生を歩め。

我が家の教えはまだまだある。昭和臭い家だから。



困難、どんと来い。

48位、最下位の1年が幕を開けた。




この記事が参加している募集

#最近の学び

182,350件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?