村井実『教育思想 発生とその展開 上』を読んで

前回に続いて村井実の本を扱っていく。
教育研究部の文章を見るとわかると思うが、立場として前提に国というものを置いている。これは、教育を語るうえで誰が行っているのかが大切であると考え、これからは何らかの集団が行うということが、どんどん見えづらい時代になっていくと想像しているからだ。
といっても一旦フラットに考えるために、ここでは、この本で中心とされている思想をまとめてみようと思う。

教育は大きく分けて人間主義と理想主義という2つの思想に分けることができる。
人間主義とは、子どもを善くしようとするにあたって、善さをあくまでも人として子供の内部に善さを求める働きを中心に考え、その働きを助けていこうとする教育思想のことだ。
理想主義とは、善さを子どもの外部に理想として掲げ、子供はそれに近づくという仕方で成長すると考え、その成長を促すところに教育の本質を見ようとする教育思想のことだ。
前者の考えはソクラテスから、後者の考えはプラトンからきている。

教育と聞いたとき皆さんは、何を真っ先に思い浮かべるだろうか。
私は、学校だった。
このような人はたくさんいるのではないだろうか。
では、子どもが学校に行き、大学を卒業すれば満足なのか。それとも、子どもが善くなること、そしてやがて善い生活や善い社会を作り出していくことを望んでいるのか。
たいていの人は、後者を望み、学校はその方向へ行くための手段にすぎないと答えるだろう。
つまり、教育によって本当は子どもたちを善くすることを願っている。この善くするとはいったい何なのかを取り上げたのがソクラテスだ。

ソクラテスと言えば「無知の知」が有名だろう。
ソクラテスは、自身が一番の賢者だという神のお告げを否定するために本当にそうなのかを確認しようとした。
その結果は、失望的だった。
世の中で賢いと言われている人間は、自身の畑を持っているということのために、善さや美しさまでも知っていると思い込んでいた。
それをうけてソクラテスはお告げの意味を理解した。

「賢明なのはひとり神のみであろうに、人間はすべて、人間の正しさ、魂の「善さ」についての吟味を怠り、独断的であり、しかもその独断に対して盲目である。しかし、ソクラテスのようなばあいは例外である。彼の知識は僅少であるけれでも、彼は少なくともそのことを知っている。しかし、これこそ人間にふさわしい人間的知恵というべきものである。したがって、人々よ、汝ら人間の中の最大の賢者は、たとえばソクラテスのごとく、自分は知恵については実になんのとるべきところもない者だと自覚しているものである」

自分が善さや美しさを知っていないということを不断に自覚しながら善さを求めて生きていくということが、人間にとってもっともふさわしい生き方、つまり、善い生き方だというのが彼のいう無知の知ということだ。

この無知の知を進めることを教育で実現しようとした。ここに教育思想と教師像が成立することになる。
ソクラテスは自身を子どもたちの友人や仲間と呼んだといわれている。これは、同じ無知の知を共有する者たちとしてそうでなければならないというものが影響している。
この立場であるため、教育方法として問答法、助産術という独特なものを取る必要性があった。
問答法とは、善さ、美しさを知ったつもりである子どもに語りかけ、それを本当はしらないということに問答を通じて気づかせるという論破のことだ。
助産術とは、問答法の後に新たに善さの探求に向かわせて、それを助けることによって、できれば新たな段階の善さを生産させるというものだ。
これらの前提には、子ども自身が善さを生まれつき知っていて、それを求めて生きているというものがある。

話は少し変わるが、教育と政治は切っても切り離せないものとなっている。ソクラテスはそのかかわりの中で死刑となったので、その箇所も扱おうと思う。
ソクラテスは、政治を国家を善くする仕事と考え、その仕事の最上位に善さをどこまでも探し求める人間を育てる仕事として教育を置いた。
この思想が政治家から危険視された。
前半の国家を善くすることに関しては問題はないが、後者の善さが決定していないことが問題だった。
かれらは、善さを決定し、そこに向かって、知識、技術、考え方など人々を導くことを、国家での教育の仕事だとするからだ。

ソクラテスが死刑に処される一連の流れを見ていたプラトンは、ソクラテスの無知の知の教育的意味が、国家とのかかわりにおいて挫折したと考えた。いくら正しかったとしても、現実にはそのままでは受け入れられない問題点を無知の知は含んでいた。
そこで生まれたのがイデア論だ。
善さという絶対で普遍の性質が、現実に善いと言われるさまざまな行いや人とは別に、善さそのものとして純粋に独立して存在する。この普遍の純粋な性質をイデアと呼んだ。

イデア論における教育の仕事はどういうものなのだろうか。
第一には、まず人々を日常的な欲望や思い込みから力ずくででも開放して善さの方向に踏み脱させることから始まらなければならない。
第二には、一度は善さの方向に向かったとしても、それを探ることの苦労に耐えかねて元の状態に後もどりする人々は、そのような素質に生まれたものとし、それにふさわしい力仕事や生産の仕事にたずさわるものとする。
第三には、苦労に耐えて善さの方向に向かって努力する人々は、知識や技芸を学習して、次第に本物の善さを見得るように訓練を受けなければいけない。
第四には、こうした人々の中から、ごく限られた人々が善さを見得るようになる。彼らが国家の指導者となり、国家を善さのイデアにふさわしい善い国家として維持する仕事を引き受けることになる。

まとめとして、ソクラテスとプラトンの教育の考え方の差異を見ていく。
差異は4つある。
1つ目は、善さのほんとうの姿が人間にとってみられるもの、見られるべきものとして考えているというものだ。ソクラテスは善さの本当の姿は人間には見えるものではなく、見えないけれども慕い求めるものと考えている。
2つ目は、教育の究極の目的は最高の善さであり、教育はその善さの洞察を達成するための計画的なプロセスだと考えているというものだ。ソクラテスは、不断に無知を自覚しながら善さを追求するものと考えている。
3つ目は、人間には素質や気質や能力に基づく相違があるとしているというものだ。ソクラテスは、万人が一様にうまれついて善さへのエロスに貫かれていて、善く生きようとしていると考えている。
4つ目は、人々を善さに向かって訓練しつつ、国家のために素質と能力に応じて選抜、配置するという教育の役割を強調している。ソクラテスは、国家の善さはその構成員一人一人がいかに善く生きるかに依存するとしている。

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