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地球は繋がっていることをサハラ砂漠の砂を見て想う。
3日ほど前のこと。
朝、子供達を学校に送って行く時に車がやけに汚れていました。
知らないうちに砂まみれになっているのです。
「えーっとなんか汚れることしたかな?」
と直ぐには合点がいかないでいると、
「これって“ザハラ”の砂だよ!」
と息子が教えてくれました。
ザハラとはサハラ砂漠のこと。
※ドイツ語はSをザと読む。例えばSophiaもゾフィーアとなる。
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砂漠のハリケーンが砂を持ち上げ、風でヨーロッパに運ばれ雨と共に地表に落ちる自然現象は、春と秋に5〜15回/年で発生する気象現象だということです。
しかし、今週ほど強力で顕著なのは10〜15年ごとの発生だったよう。
サハラダストは世界の養分循環において重要な役割を果たしています。
初夏には、渦巻いた砂がアフリカから大西洋を越えて南アメリカへの貿易風によって運ばれます。
そのおかげで、砂に含まれるリンがアマゾン熱帯雨林に注がれ、肥料の役目を果たしています。
メリーランド大学の研究(2015年)によれば、その量は毎年2万2000トン以上。
今日、研究者たちはサハラ砂漠がなければ、アマゾンの熱帯雨林は私たちが今日知っている形では存在しなかったと考えています。
サハラダストは、イベリア半島の重要な栄養源でもあります。全体として、気流は1年で世界中に5億トンのサハラダストを輸送します。
昨年、フランスに着いたサハラダストを調べたフランスのNGO、西部地域放射線管理協会(ACRO)がセシウム137が含まれていることを明らかにしたそうです。
人体に悪影響を及ぼすレベルではないないそうですが、1960年にアルジェリアのサハラ砂漠でフランスが行った核実験の痕跡だとのこと。
同協会は、今回の発表は「フランスやその他の諸国がしたことを思い起こす」ことが目的だと明言し、「ブーメランのように戻ってきた放射性物質」と表現する。
ACROの科学顧問をしているカーン大学のバルベ教授は「アルジェリア南部のサハラの人々は、セシウム137とともに日常を過ごしている。現在でも汚染のひどい地域が存在することを思うと、当時の汚染のひどさを想像せずにはいられない」と述べる。
サハラ砂漠の砂がドイツまで届くと知ってロマンを感じましたが、放射性物質付きとは...。
地球は循環していて、人類の所業がこのように巡っていることを改めて感じました。
昨日、ウクライナ難民の人達がボンのホテルに滞在していると知って必要物品を届けにいきました。
ホテルのオンラインに毎日必要物品が更新され、リストになっていました。
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フロントマンと少し話をしましたが現在、ホテルの15室に計40人のウクライナの人達が避難されているとのこと、その多くは子供連れの母親だそうです。
これからもまだまだ増える予定とのことでした。
ボンはドイツ西部に位置し、ベルリンとは500㎞離れています。東欧からは距離がある印象ですが、生活圏にウクライナの方々が避難されていると初めて実感しました。
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数年前には子供が通う幼稚園にシリアからの難民の家族がおられ、「こんな身近に!」と驚きました。
彼らはシリア人ではなく、シリアに暮らすクルド人でトルコ国境のすぐそばのコバニという街から避難してきたということで、今も我が家の近くの同じ町で暮らされています。
仲良くなり家族ぐるみでお付き合いをする様になり、一度だけ避難時のことを語ってもらいました。
一人200ドルを払い、身一つで靴も脱いでゴムボートに乗ってひたすら手で漕いで、地中海を渡ったこと。
辿り着いたギリシャの道を裸足で歩いていると、車に乗った女性が降りてきて自分の靴を履かせてくれたこと。
当時2歳の長女を連れての避難だったと聞いた時は、それがどれほど過酷な旅だったかを思い胸が痛くなりました。
そういうバックグラウンドを持った人が、普通にこの地元の幼稚園に通っていることにつくづく、人のことは知ろうとしないと分からないものだと感じました。
私が出逢ったときは、全て乗り越えて普通の生活をされていたので最初は、
「見慣れない顔だな。新しい家族かな?」くらいの認識でした。
「シリアが落ち着いたら祖国に戻りたい?」
すると、物静かな彼女が厳しい顔でキッパリとこう言いました。
もう私は人生の全てをかけて移動することはしない。
全部を捨ててドイツに来たから、またシリアに戻って一から生活を立て直すようなことはニ度とできない。
短い言葉に彼女の今までの苦労と覚悟が詰まっていて、気軽に聞いたことを申し訳なく思いました。
自分の希望や夢の実現のために異国に来た訳ではない、生命を賭けた避難の末にここに辿り着いたのだと、同じ時代に同じ場所に居るのに天と地ほども違いがあることを知りました。
いつ何処に生まれるか、どの国に生まれるかでこんなにも違いがあること。
いつも他人事で、自分は安全圏に居て高みの見物をしてるような後ろめたさを感じます。
せめて身近にこういう世界が在る、ということを忘れずにいたいと思う今日この頃です。
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