世界一厳しい排ガス規制と石油危機のあの頃のトヨタと今の時代が似ているところ

1970年代のオイルショックも語種となった昨今、昭和53年排気ガス規制を口にできる御仁も数少なくなってきた。正直当時のメーカーは大変だったことと思う。

最初の火の手は意外にもアメリカから上がった。マスキー上院議員が提出した世にも厳しい排気ガス規制に従順に呼応したのは敗戦国日本の政権と日本車メーカーだった。
さらには新宿・牛込柳町からも排気ガス中の有害な鉛公害問題が沸き起こった。主犯=アンチノック性を上げるための4鉛化エチルPb(C2H5)4は74年までにさっさと市場から退場。使用過程車には高速有鉛などのステーカーが貼られ、1972年以降生産の対策車にはバルブシートの焼き付け加工が施されて対応していた。しかし排気ガスをめぐる規制はさらに・・・・

その後、世界にも類を見ない厳しい日本国内の排気ガス規制は2年延期され51、53年規制とハードルを上げてエンジニアたちの首を締め続けるのだった。
当初達成不可能と言われたマスキー法に世界で最初に合致(パス)して見せたのはホンダのCVCC。燃料を極端に薄くさせておいて、燃焼室を二階建てにする複雑な機構。でも燃焼後の後処理を不要としたモノだった。
ロータリーのマツダもいち早く手を上げた部類、サーマル・リアクターという一種の副燃焼室を排気過程に追加して、不完全燃焼成分を完全に酸化させる等の単純な仕掛けだった。
ホンダほど、複雑な副燃焼室を設けず、第三のバルブを設けて吸入機の混合を促進させたのが三菱のMC-Aジェット方式。完全燃焼を目論んだ点ではホンダの考え方に準じたモノだった。
日産はもっとシンプル、複数の方策の末にスパークプラグを二本同時に点火して急速燃焼を図るというもの。燃焼温度を無駄にあげないのは酸化窒素を増やさないための手段でもある。点火系の部品点数は二倍必要だった。

スバルのseekーTも含め各社とも独自開発の解決策を模索していた中、トヨタは複眼的な方法で課題解決を目論んでいた。TTCと名付けられた各システムは各々に異なるアプローチで課題解決に向かう。ホンダの希薄燃焼システムからパテントを取得し、T型エンジンに搭載したのがTTC-V方式。一方、希薄燃焼ではTTC-Lという方式も同時期に併存した。考え方としては希薄燃焼の仲間。
しかし、あくまで低コストで生産も容易な触媒コンバータに依存する方式が当初から本命視されてはいた。のちにTTC-Cとして商品化されるまでには資材調達や生産ノウハウ、補機の部品精度など解決に時間を要する物も多く、実現までには時間を要したのだった。
これがのちに広く普及する触媒コンバーター方式に収斂するまでにおよそ10年。ホンダのCVCCもそれまでの命だったのだ。

では多大な労苦を費やした各社の技術開発は徒労に終わったのだったか?

80年代再びF1に参戦したホンダのエンジンでは燃焼過程における効率アップの手法が著しく進歩していた。排ガス対策の過程で生み出された解析技術の賜物であった。

世界ラリー選手権で覇を競う様になるのは日産にトヨタ、三菱にスバル、いずれもがハイパワー競争をくぐり抜けた猛者たちである。技術開発を成し遂げたエンジニア達が育った証だった。

あの時代、エンジン開発に多額の費用を割かれた他の部署の苦労は想像に難くない。1975年以降にデビューの国産乗用車が軒並み凡庸なスタイルで登場したのもデザイン部署・生産工程に最小限の出費しか許されなかったであろうことが想像される。

オイル・ショック以降のインフレも拍車をかけた。最低50万円台で買えたカローラや30万円少々で手に入ったホンダのN360がいつの間にやら100〜60万円台にも達しようかという高価格になってしまったのがこの時代。もはや50万ではバイクしか買えなかったのだった。モデルチェンジした2代目スターレットでさえ60万円台以上と、その頃の軽乗用とほぼ変わらぬ価格になってしまっていたのである。

この頃の軽はといえば車検制度の導入(それまで軽に車検はなかった)や排気ガス対策に対応した排気量アップ、並びに衝突安全基準を旨とする車幅、全長のサイズアップと価格を押し上げる要因のオンパレードで、スズキもスバルもダイハツも旧モデルの改変でお茶を濁すのに精一杯。シビックが売れ始めたホンダでは軽乗用の生産ラインをシビックに明け渡し、軽乗用からは一時撤退してしまうほどだった。

そんな軽不況の最中に風穴を開けたのがスズキのアルト47万円。当時の乗用登録50ナンバー車が60万円からのプライスタグを下げていた時代に思い切ったコストダウンと軽商用車には免除されている物品税非課税という恩恵を最大限生かした逆転の発想の賜物だった。4ナンバー普通貨物だと毎年車検なので同じ手法は通じない。しかしながら軽だけは乗用も商用も等しく2年車検なので、実質的な差はリアシートの寸法だけ。貨物積載が前提の商用は十分なリアシートの寸法が確保できなかった・・・・・・が、セカンドカーに買いもとめるユーザーには殆ど無縁な話。

この手法が大当たりして、各社とも急遽4ナンバーの商用バージョンをあつらえて市場に送り出す。ダイハツはノーズを極端に短くして車高を高くした1・5ボックスと言うスタイルを標榜し、ミラ・クオーレシリーズで先駆者スズキと対峙する。ここに新規開発の前輪駆動車レックスコンビのスバルや三菱ミニカが加わって第2期の軽・黄金時代が到来するのである。

振り返って見ればあの狂乱状態の70年代インフレと排気ガス対策はちょうど半世紀後の今の時代にも繰り返されている感がある。トヨタは全方位で対応し、結局その中からベストと思われる解決策を見出した。他方、スズキは起死回生策として発想の転換、削ぎ落とすことの大事さを見出してみせた。

これからの10年、自動車業界が置かれた境遇はこの70年代に少なからず学ぶところが多いように感じる。重く高価な電池を積んだEVが最終回答かといえばそれは疑問符がつく。かといって水素燃料の実用化にはまだまだ課題が多い。
喫緊に解決しなければならないのは660ccのエンジンを積む日本独自の規格=軽自動車のパワーユニットである。大なり小なり電池を積めば重量もコストも嵩むので、ガソリンエンジンを上回るコスパのPUは未だ、見出せていない。化石燃料の力を借りない軽自動車が5年後にどれくらい存在するのかは見当がつかない。

ところで同じく70年代に一斉を風靡したスーパーカーのブーム。その後の数十年に渡って自動車需要の一助になったかもしれないあのブーム、後押ししたのは日本の稀に見る厳しい排ガス規制が一翼を担ったというのが私の私見である。クリーンさを求めて高性能を犠牲にし、軒並み魅力ある国産車が消えていった・・・・外国製の大排気量、高性能スポーツカーは国産車が失った美しさと力を持っていた。手の届かぬそんな憧れの存在が少年たちの夢の象徴として輝いた・・・・・・・もちろん、池沢 早人師(旧・さとし)の原作によるサーキットの狼が人気に火をつけたのは否めない。連載開始は昭和50年だったのだ。
そこからターボチャージャーが実用化され、80年代の日本車はハイパワー競争の新たなステージに進む。

今や風前の灯なのがマニュアル車。そもそも運転可能な免許の保持者が少ない上にガソリンエンジンの将来が見通せない。そんな時代にこれからドライビングプレジャーを求める若い世代が育ってくるのだろうか?

2023オートサロンに出展されたAE86の水素コンバージョンには快哉を送りたい気持ちで一杯だ。昭和の車好き女子には圧倒的にマニュアル派が多かったことを付け加えておく(筆者調べ)

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