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ドラマ「コウノドリ」シーズン1とシーズン2は何が違ったのか

「赤ちゃんはどうやって生まれるの?」
聞かれたら困る質問を親にはしなかった。疑問を持たなかったから。
春になれば花が咲くように、夏になれば金ローでトトロかホタルの墓が放送されるように、時期がくれば勝手に生まれてくるのものだと思ってた。インスタにあがる名前も知らない子どもの映像をみても何も感じなかった。
それから一転、縁あって結婚。テレビっ子の嫁の影響を受けてバラエティーやドラマを良く見るようになった。ストロベリーナイト、Stand Up!! を見るために通っていたTSUTAYAのドラマコーナーから1本のドラマを取り出して借りた。それがコウノドリだった。

生まれたての子どものように泣いた。特にシーズン1。全話泣いた。打率100%。
シーズン2も見よう、泣けるだろうし。そんな気持ちで見た2は思ったよりも泣けなくて肩透かしを喰らった。でも2の方が生きていく上で大切かもしれない。定期的に思い出したくなるドラマだった。
1は泣けたのに2はそうじゃなかったのは何でだろう。ふと感じたのは、「うまれる」と「いきる」の違いだ。

1が泣けたのは命が生まれる混沌があったからだと思う。
フィクションだということを飲み込んだ上で、「頼むから無事に生まれて欲しい」と願わずにはいられないほどピンピンに張り詰めた緊迫感のなかで、無事に命が誕生した時の安堵感、そしてその逆、どうしても生まれてこれなかった喪失感。子どもの命と引き換えに、自分の命を投げ出す母の慈愛。新しい命が生まれる背景にある親の思い、医師の願い、抗えない深い哀しみが丁寧に綴られていた。
描かれている物語は完全なる作り話ではなく、きっとどこかの誰かは体験した現実なのかもしれないと感じてしまうリアリティーがあった。
健やかに育つ命がある一方で、望まれず堕された命があって、望まれても生まれてこれない命がある。
無意識に呼吸をして無意識に眠くなる、無意識に腹が減る。こうして生きている以上、生まれることは当たり前だと思い込んでしまう。名前のないまま亡くなって、母子手帳だけが残される母も世界のどこかにいる中で、今日の夕飯を想像するのが当たり前の人生がある。
生きていることが当たり前じゃないとぶん殴られるような思いと、自分の命も様々な人の想いを受けながら生まれたんだなと温かくなる気持ちが入り混ざる。

その一方で、2はなぜ泣けないのか。そもそも描かれている内容が異なっていた。
泣けるを期待している時点で、それらしい理由をつけて命の誕生をエンタメ化し、デトックスを求めてしまった浅はかな自分の愚かさ。
描かれていたのは生きることだ。生まれて終わりじゃない、困難を乗り越えてあとに訪れる日常、奇跡の続きが描かれていた。
自分が今、生きているのも奇跡の延長線上だけど、言い換えてしまえばただの現実だ。最終回にあった主人公サクラの言葉「奇跡のあとは現実が続いていく」が心に滲みを残す。
四宮は1よりも周囲に厳しく当たっていた印象があって、奇跡の後に続く現実も甘くないことを伝える役目を担っていたからだと感じた。リアリストとして。
ペルソナでバリバリと働いている最中、石川県能登で産科医として働く父が倒れてしまうことにも現実の厳しさが伺える。
地方の交通環境や、整っていない医療環境。高齢社会と共に医師の年齢も上がっていき、それに伴って医者を続けられなくなる人もいる。
1に比べて、個々の思いからペルソナ病院を離れてしまう描写も「続いていくこと」の難しさを思い知らせるようで歯痒さを感じた。止めることを否定してるのではない。信念に基づいて行動した結果、離れる選択をするのは寧ろ大切だと思う。思うからこそ、「続いていくこと」は儚くて美しい。サクラがペルソナに居続ける選択を取ったこと、四宮がペルソナを離れ亡くなった父に代わり地元で産科医になる道を選んだこと、どちらにも信念があって、胸が詰まる。

続くことによって生じる弊害もある。
部屋は心の状態を表すというけれど、何かを買うなら何かを捨てないと一方的に荷物が増え続ける。増え続けた荷物はやがて部屋を圧迫し精神的に苦しめられる。何かを手放さないと動くことすら出来ない。特に育児では諦める選択や、助けてもらう選択をしないと精神的にも体力的にもやられてしまう。追い詰められている自覚さえないまま、小さな強がりがさらに逃げ場を奪う。
高橋メアリージュンが演じていた産後うつに陥ってしまう女性を見て、そう感じた。
奇跡が起きてハッピーエンド、じゃない。そこがスタートで良くも悪くも人生が続いていく。

10話でのダウン症を持つ母がぽろっと溢した言葉「出生前診断で弾かれるのは、診断の対象になっている症状が現れる子だけ」
一言一句正しいかどうか分からないけれど、そんなニュアンスの込められた言葉がまだ残っている。あの時感じたやりきれない気持ちも、きっとそのうち忘れてしまうんだろうなと思う。目を背けたくなるような出来事は忘れてしまった方が都合が良いからだ。先ほどの部屋の例えと同じで、感じたものを全て飲み込むことは容易じゃない。
その子の人生が続くかどうかの決定権が、同じ人間にある。
自分の生活を客観視して、命を諦めることが完全な悪だとは思えない。冷静に考えた結果、そうした方が幸せな場合もあるのだと思う。だから堕すという選択肢が用意されているんじゃないだろうか。痛みを伴って、その選択を選んだ人のことも軽蔑してはいけないよなとも思う。外から全ては分からないのだから。
でも、なるべくない方が良いなと思う。綺麗事かもしれないけれど、続くことで救われる瞬間もあると思っていたいから。
「続くこと」は「奇跡」と同等に尊い。
ただ、その美しさのなかに一筋縄ではいかない現実の厳しさが立ちはだかっている。
2が泣けないのは、誕生の奇跡に感動するよりも、現実問題として考えさせられてしまうから。命の誕生に感動するのももちろん良いと思うけれど、考えるのはもっと大事なことなんじゃないかと個人的に感じた続編だった。

最後の最後、家族を失ったサクラと四宮と小松さんの3人が、お互いの穴を埋め合うように抱き合って家族だと言っていたシーンに胸が熱くなった。悲しくても辛くても歩き続けた先にあった奇跡の一幕だった。
「生まれる」と「生きる」。
同じ漢字でありながら、0歩の地点と何千何万歩の現在地を表すものだ。自分も友達も恋人も親や苦手な人さえも、誰かから生まれて同じように生きている、当たり前なことが急に奇跡のように思えてくる。
コウノドリを観て気付かされたものに、人肌の温度を感じる。

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