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1990年代前半の留学事情

このタイトルを自分で書いて驚いた(笑)。

もうこんな年月が過ぎたんだ。

レイキもアカシックも全く関係ないけど、どうしても書いた方が良いと思ったので書く。完全に自己満足(笑)。

ほとんど自分のつぶやきなので、「です」「ます」は使わない(笑)。

私は高校を卒業した年の秋にアメリカに留学した。1992年

でもそこに至るまでの目標はちょっと違った。

私はどう考えても恵まれていたんだと思う。

欲しいものを手に入れていた。

自分のやりたい気持ちにウソがつけなくて、おまけに両親はその気持ちを汲んでくれたから。(思い出すのが遅いんだけどね)

自分のやりたい気持ちに従うと人生って思い通りになる。というのを始めて体験したのがこのころかもしれない。

ただ、全てが楽しかったわけではないし、かなり泣いて過ごした時期もある。

高校生になったばかりの私が目指した進路は、札幌の英文科のある短大だった。理由は英語がとてつもなくカッコよく感じたから。

あの時の日本はまだまだ元気があって本当にイケイケだった。日本中にすごく勢いがあったとき。

ちょっと前までインバウンドで楽しそうに爆買いしていた中国人のように、当時は日本人が海外で爆買いしていた時代。

世間のおねえさんたちは、すっごくおしゃれしてブランド物に身を包んで街を闊歩しているような時代。

今見るとおもしろいけど、そのおねえさんたちが海外旅行をするようになって、外国のことをいろいろと聞いたり、テレビや雑誌でみるようになって、とにかくキラキラに見えたんだよね。

それまでの日本人にはまだ「海外」は遠い存在だったから。

それが、日本の大学に行くのも、留学もあまり金額も変わらない。なんて言われていた時代になったのがちょうどこのころ。


でも私は、特に英語が得意だったわけでもなく、教科書以外の英語は覚えるのに、学校の英語は全く頭に入らない。

かといって、雑学が増えても、日常会話が上手になるわけでもなく、それでも英語にあこがれて、しゃべりたいと思っていて、ただただ、英語がカッコよかった。

私も英文科を卒業して、英語ペラペラになる!って思ってた。


留学を決めるきっかけ

高校2年生のある日、私が目指していた短大で公表している「卒業後の就職先リスト」をみることになるのだけど、落胆した。もう本当に。

disappointedって言葉がぴったりというか、とにかくがっかりしたのを覚えている。

英文科卒業した後の就職先:

○○銀行、〇〇証券、〇〇信用金庫、○○製菓、○○市役所、…


航空会社は2名ほど、あと英語を使いそうな職についているのは、旅行会社と英会話スクールに4~5名。

いや、確かに良い企業に就職しているよ、みんな。

安泰かもしれないよ。だけどさ。

う~ん。

結構、憧れていた短大だったからさ。残念だったんだよね。

やっぱり関東・関西の偏差値の高いところならまた違うのかもしれなかったけど、私にはそんな学力はなかった。


目が醒めた

でも、そこで自分の気持ちに気が付いた。

”英語の文学を勉強したいわけではなくて、英語を話して、英語をコミュニケーションの手段として何かをしたいんだわ、私”

ということに気がつかせてくれたのがその「就職先リスト」だったというわけ。


”じゃあ、それができる環境で生活したい。いろいろ体験したい。どうする?”


そんなに頭が良いわけではないから、かなり悩んだよね(笑)。

で、出た答えが…

同じお金と時間を使うなら…(親のお金だけど)留学!

そう思いはじめたら、日本にいるなんて全く意味を見いだせなくなった。

本当に進学に向けていろいろ考えていたけど、色あせていくのが分かるんだよね。

でも、もうワクワクが止まらない。絶対行く! 方向が決まったんだ。

このとき私が行きたかったのはカナダ。ここからどうやったら留学ができるのか、本を買って調べ始める。

まだ、インターネットなんてなかった時代。どこに何を聞いたらいいのかさっぱり分からない。

当時やっていた【百万人の英語】というラジオ番組が、生のカッコイイ英語を他の番組ではない切り口で紹介してくれて、毎朝聴いていたんだけど、その【百万人の英語】のテキストの後ろの方に留学についての情報があった。

紹介してくれる業者があることや、大使館でも調べられることとかを初めて知った。

はっきりいって、学校の授業はどうでも良くなった。

でも、留学するならまずは両親を説得しないといけないし、勉強をしている姿を見せてアピールする必要があると考えた(単純)。

今思うと、親に自分の気持ちを説明している時って、すごく興奮していたんだと思う。熱量がハンパなかったんだな。

両親は、「自分で全部調べて手続きも準備もやるなら応援するよ」と言ってくれた。

気持ちが伝わったようだった。

「その代わり、今以上に勉強しなさい」と付け加えられた。

私は、本当に友人にも恵まれて、進路について真剣な人たちが多かったおかげで本当にいろいろ救われたんだけど、

今考えると迷惑しかかけていなかったし、なんかもっとあったでしょ!という付き合いしかできなかったなぁと大人になって反省している。

ちょっと脱線したけど、当時のクラスメイトがお勧めの英語塾に4人で通っていたんだけど、そこの先生がアメリカの大学を卒業していて、アメリカの話をたくさんしてくれたんだよね。

で、私も留学したいという話しを先生にしたときに、「先生が通っていた大学で良ければ推薦状も書いてあげるし手配できるよ。」と言ってくれてから、本当はカナダが良かったけど、これは頼るしかない!と思った。それからも物事は本当にスムーズに動き始めた。

学校の成績は英語と体育と美術以外の教科はひどくって、担任からは完全に見放されていた状態だったから、「留学する」って伝えても笑われて終わったけど、ま、そりゃそうだ。とも思ったので、伝えることは伝えて、学校が私の進学に関わることはなくなった。

留学といっても私が目指したのは、語学留学ではなくて、大学に入って勉強するということだったけど、正直いって、何を勉強したいのかまでは定まっていなかったんだよね。これがのちのちの私を苦しめることになる。

ただ、この段階で結論を言っちゃうと、留学して良かったと思っている。

後悔なんて全くない。後悔していることがあるとすれば、留学中にもっと自分をさらけ出せばよかったのに。

まだまだ自分を解放させることが苦手だったんだな。と今では思うけど、それも体験しないと分からないことだったかなとも思う。

留学を決めてからの勉強

留学をするとはっきりと決めてから留学するまで10か月ほど、私がやったこと。

学校の英語ってどうなの? 勉強する価値あるわけ? とも思ったけど、それを判断できるほどお前は英語を分かっているのか?と言われればNOだし。と思った私はまずは学校の英語の成績を上げてみようと思った。

たまに奇跡的に学年で2位(英語だけ)になることもあったり、「あ、あれはまぐれだったな」と思ったり。

それでも英語の先生の評価は少し高くなったみたいで、授業で他の人が答えられない時に「じゃあ、お手本を」と当てられることが増え始めた。

卒業してからの勉強

塾の先生との特訓が始まった。単語も多く覚えられたらそれに越したことはないけど、まあ行けば嫌でも覚えなくちゃいけないから、ということで、嫌というほどやったのが文法。

ま、私の基礎がひどかったこともあったんだけど、やっぱり第2か国語として他の言語を学ぶときにショートカットしたかったら文法だ。

留学するということは、現地の生徒と同じようにレポートを書き、同じように教科書を読まなければならない。

”自然に…ナチュラルに…”なんて言っていられない。できるに超したことはないけど。

彼らと同様に18年以上もかけて英語のシャワーを浴びて、18年もかけてたくさんの本を読んだ状態にしなければならない。でも時間はないときに何ができるか。どんな準備をするべきか…

それは、文法をしっかりさせること。たくさんの英語を声に出しておくこと。本の朗読でもなんでもいい。とにかく英語を声に出して読むことをおすすめする。

今は動画でしかも無料で英語はどこにでも散らばっているけど、当時は今のようにはなかったから、私がやったことは、好きな百万人の英語のテキストをカッコよく(と思っているだけ)発音することだった。表現も覚えるし、良い慣れない言葉をたくさん発する良いトレーニングになった。(と思う)

でも、正直、私は基本的に怠け者だし、頭も良くないので、あんなに時間があったら、もっと何かできたと思うけどね。まあ、私の発想力はその程度。


パスポート取得とビザ申請

当時のパスポートは今でも持っているけど、ビックリするほど簡素に出来ている。

あれ、本当に偽造なんて簡単だと思うよ(笑)。

それくらい、海外に行く人はまだまだ少なかったのかもしれない。

今持っているパスポートで4つ目だけど、新しく手にするたびに進化している。なんか人類の歴史をパスポートからも感じる。

アルバイト禁止の学校にいたせいもあったし、もともとチキンな性格でもあるので、写真をどこで撮っていいのかも知らなかったし、パスポート申請するのでさえイベントだったよね。

戸籍謄本?抄本?ナニソレ?でしょ。

アメリカの大学の方は塾の先生が連絡を取り合ってくれて、私は言われたとおりにしていればよかったから心配なかった。

パスポート取れたら、今度はビザを取得したいんだけど、大使館に電話するのも1日かかる。

なんでって、緊張するから(笑)。

やっとの思いで電話できて、必要な書類とか、聞きたいことを聞くんだけど、大人が話す言葉がとても難しく聞こえて、聞き取れない。

でも聞き返す勇気もなくて、切ってしまう。

で、どうするかって、また1日かけて別の日に電話するの。3回やりましたよ(笑)。

分かったことは、今はもう違うけど、当時は領事館でも学生ビザを発行していたということ。

それなら、札幌へ行けばいいわけだ。ということが分かった。

アメリカの大学へ入る英語力はまだないので、付属の語学スクールへまず入ることになるけど、そこに行くにしても、「自分はなぜ勉強したいのか」という作文を書かなくてはいけなかった。

それを書かない事には進まない。アメリカの学校も書類を出してくれないし。

今の留学事情は分からないけど、当時は本当に自分の気持ちを素直に書けばOKだったから、世界中の人たちが集まるアメリカで、英語を通していろんな交流をしたいし、体験したい。という熱い思いを2日かけて書いたのを覚えている。

あれだけ時間をかけて書いたのはルーズリーフたったの1枚だったけど。


領事館へ


さあ、あとはビザを申請すればまた一歩アメリカに近づく!という時期まできた。

札幌駅までは行ける。電車で1時間半、バスで2時間20分くらい(当時)。

で?

地下鉄に乗るんだけど、田舎者の私は乗り換えのシステムをよく理解していなかった。

よく電車の駅にも路全図はあるけど、あれは田舎者には分かりにくいんだよね。

アメリカ領事館があるのは地下鉄東西線・円山公園駅だけど、まず大通駅まで行かないといけない。

大通に行くには、南北線にのるか、東豊線にのるか、歩くか、誰にでも分かりそうなことなんだけど、路線図を理解できない田舎者には難しいんだよ。

「東西線に乗れないんですが?」と思いながら、札幌駅で東西線の乗り場を探していた。

誰かに聞く勇気もないから、しばらくウロウロしてやっと理解した。たぶん1時間くらいかかったと思う。

もう大冒険だよ。スマホがあれば本当に簡単だったよね、きっと。

で、なんとか領事館だけど、領事館の人たち怖かった。

書類を書かされて、当たり前だけど英語で書くよね。アメリカに行くんだし。

そこで、私、撃沈…

その程度の英語力で留学???って思われた気がして…。自信喪失。

結構、勉強していたつもりだったけど、とっさに出てこないじゃん…英語…

無力さに…チーン…

ここでまた目を覚ませたと思うんだけど、悔しかったなぁ。

で、領事館の人から

「ビザは明日出せますので13時以降に来てください」って。

そういう時代だったんだよ。今はビザ発行まで何週間もかかるよね。テロとかそんなのもない時代だったから、簡単に手に入った。


いよいよ航空券ゲット


海外のチケットなんてとったことないし、まして国内のチケットだって、必ず旅行会社か航空会社からしか買えない時代だったから、しかも窓口でね。

海外のチケットは先生にお任せした。本当にどうしていいのか分からなかったから。

でも今思うと、先生は私のパスポートの番号とかなくても手配してたなって(笑)。ゆるいよね。

16万円の片道のチケットだったのはスゴイ覚えている。しばらく帰る予定もなかったし、片道16万円という値段はなかなか安いチケットだった。

もちろん、LCCなんてないしね。あれができたのなんて2012年ころじゃなかったかな。


始まったアメリカ生活

冒頭でも触れたけど、私が最初にあこがれた国はカナダだった。

でもアメリカに行って気がついたことは、想像していた以上に魅力あふれた国だった。

アメリカは若い国だから、歴史が浅いけど、その分、古い建物が残っていたのも興味深かったし、

若い国だからこそ、格式とか伝統とかにこだわらずに受け入れることができる文化なのを肌で体験してゾクゾクした。

もちろん、私は言葉もヘタクソだし、向こうからみれば外人だし、日本人はお金を持っているイメージがあったし、でもなんかバカにされているような感じも受けるし、歓迎されていないんだなと感じる場面もあった。

でも、それ以上になんでこんなに良い人なんだろう?って思う人たちにもたくさん出会ったし、

日本がどれだけ遅れているのかを実感した。

お金はどう考えても日本の方があるし、道路もきれいだし、交通の便もいいし、なんでもクオリティ高いし、ファッションも進んでいるしって思っていたけど、

物事に対する考え方とか、行動力とか、全然遅れてるじゃん…って落胆したのも覚えている。

だから、東南アジアの人が今の日本を見て当時の私と同じように思っているのかなとちょっと想像できる。

もう今の日本の物価も安く感じてしょうがないよね、きっと。今の北海道なんて道路ボコボコだし。

あの時の私もそうだったなぁ。

あれ?日本の方がイケてる? でも国際社会はまだまだだなって。


英語での授業

日本を発つまでの間、声に出して本を読んだり、とにかく声に出すというトレーニングがいかに少なかったかを実感した。

悔しかった。

でも、塾の先生との特訓のおかげでレポートを書くということに関しての苦労はかなり軽減されたと思う。

あれで、書けなかったら本当に辛かった。

語学スクールでの授業は当時の私にはハードだったけど、大学生になったらあれは簡単に思えてしょうがない。

語学スクールに「英会話」なんて生ぬるい授業は存在しない。

Speaking(話す)

Grammer(文法)

Writing(書く)

Reading(読む)

American Culture(アメリカ文化)

で構成されていた。

Speaking の授業はスピーチとか、討論とか、いろんな議題について話すし、声の大きい人が主導権をとってしまうので、自分も積極的に参加しないと全く相手にされない。

ここで気がついた。

自分は何にアンテナを張って生きて来ていたのか。

同年代なのに、世界情勢に詳しい人とか、自分の出身国の置かれている状況からそうならざるを得ない人もいたけど、

なんて、のほほんと過ごしてきていたのか。ていうかホント平和ボケってこれなんだわ。

と思い知らされる毎日だった。

今思えば、もともと人間偏差値としてはさほど高くもない私がアメリカへ行けたことも奇跡だったけど、こんな発見が出来たことだけでも、わたしの留学は大成功だったかもしれない。

当時は、自分は何でもできる!くらいの勢いだったので、結構打ちのめされていたけど、もともとの人間としての能力を考えると100点だ。


開拓

意外にプライドだけは高い私だったから、いろんな言い訳をしながらも転校の選択を視野に入れ出した(笑)。

自分の能力を受け入れた瞬間といってもいいと思う。

スポーツビジネスに興味を持ったり、心理学に興味を持ったり、人類学に興味を持ったり、社会学に興味をもったりしたけど、

やっぱり何を勉強したいのか分からない。でも、せめて短大は卒業しよう。と思い直した。

当時、私が通っていたのは私立の大学に付属していた語学スクール。頑張ればそのまま大学へ行けたけど、やっぱり専攻が決まらないし、でもこのままでは日本に帰れない。

で、姉妹校になる短大へ転校しようと、語学スクール担当の先生に相談して、1000キロ以上も離れた姉妹校の見学をさせてもらったり、そこに通っている生徒のお部屋に泊めてもらって授業も見せてもらったりして、「ここなら頑張れそう」と思い、その短大へ行くことに決めた。

あの時は、逃げたとか感じていたんだけど、「自分で考えて開拓した道なんだからすごいことだよ」と言ってもらえてなんか楽になったことを覚えている。

それだけすべてのことにいっぱいいっぱいだったんだな。ということにすら気づいていなかった。

この時点でもまだ世の中にインターネットは出回っていない。

1994年のこと。


本格的に学生生活が始まる

もう、だれが何と言おうと、学生になった!と思って嬉しかった。

専攻は、分からないから一般教養にして、とにかく興味のあるものを取って日本に帰ろうと思った。

必須科目以外は、社会学、人類学、世界の宗教、スペイン語、ドイツ語、テニス、速読、心理学、水彩画、スケッチ…

人の心とか、習慣とか、そういう類が好きなことが分かった。そういう話しなら英語でも楽しくディスカッションに参加できるという発見があった。

でも、日本に帰ってどうやってそれを活かせるのかがやっぱり分からなかったけど、心がどうしても動くので好きな授業を取ることにした。

本当に、両親には感謝だわ。こんなわがままで何も考えない娘にこんなに投資してくれるなんて…。


新しい土地へ引っ越しして、授業についていくのは大変だったけど、あの大学付属の語学スクールの授業がかなり体験だったから、はっきり言ってWriting(作文)の授業は簡単に感じた。

でも、やっぱり他の科目は、本を読むのが課題として出てきたり、量が多いのに圧倒された。1週間後に本1冊を読めって私にはきつかった。他にも科目は取っているしね。

日本語でも読解力がないのに英語でなんて本当にわかんない…。という日が続くと、人間は本当に動き出す。

恥ずかしいとかどうでも良くなって、周りに聞きまくった。もう、ほんと助けて!状態。

でも、みんな優しい。本当に助けてくれる。もうどうにもならないときは先生にも直接聞きに行った。先生も忙しいのに良く構ったくれたなと思うけど(笑)、かなり助け舟出してくれたなぁ。

もうだめ!というときに、家庭教師をつけたいと先生に相談したら、成績の良い女子が私の面倒を見てくれると言ってくれて、もう、ラヴァーンありがとうしかないわ。

本当に、いろんな人にお世話になった。でも、それどころじゃないから気づいていない私…。

いや、ここで、人間偏差値が高い人は感謝できるんだけどねぇ。

きっと、こういう体験を通して、というかこの体験がないと気づくことが出来なかったから、神様は私が留学するように最初から仕向けていたように今なら思う。

コンピューター

当時の日本はまだパソコンではなくて、OLさんもワープロとかいう機械を使って文字を打っていた。

ちょっと私は詳しくないから分からないけど、まだまだ日常にパソコンはなかった時代。

もちろん、私も知らない。ナニソレ。

でも、既にアメリカの学生はレポートは手書きなんてあり得なくて、みんなコンピューターを使っていた。

で、私もコンピューターのクラスとタイピングのクラスを受講。

ホントにわけわかんない。次の年にWindows 95が出るんだけど、あれのお陰で助かった。ビルゲイツありがとうって気分だった。

Windowsが出るまでの世界って本当に大変だよ。私はきっと以前の世界にいたら、コンピューターを使いこなせた自信がない。

タイピングのクラスのおかげで、ブラインドタッチもできるようになったし、ただタイピングをやるだけなのに単位も取れたから、留学生の私にはホントに助かるクラスだった。

このWindowsが出た時点で私は2年生。もう卒業なんだよね。

いやー、これ日本にいたらWindowsに触れたのがもう少し遅かったと思うから、本当に良かったと思っている。

アメリカにいる間に、ネットで情報を検索できるとかも日本にいる人たちより先に体験できた。

まだ、Googleはこの世に登場していない。このときあったのはYahooとNetscapeだけ。

まだアメリカから日本のことを調べようと思っても、日本のネット社会はほぼスタートしてなかったから検索すらできないし、そもそも文字化けするからEmailですら、ローマ字で打たないとお互いに読むことすらできなかった。

このころの日本は確かポケベルが流行っていた気がする。ちょっとその辺疎いから詳しくないけど。

90年代前半を振り返って

日本はまだまだ元気があった時代。ただ、就職氷河期はすでに始まっていた。

結構、学生は就職活動に苦労していたし、女子なんて「パンツ何色?」なんて質問も普通にあった時代。(絶対採用する気はないけど、形だけ面接)

日本もまだまだ遅れていた時代。

そして、世界もまだまだ、物理的にも精神的にも今以上に壁が存在していた時代だから、

今は当たり前のように、日本の寿司が受け入れられたり、外国の情報がすぐに手に入るけど、当時は、そんなことを知る手段が本当に少なかった。

生の魚を食べるなんて気持ち悪いとか、

日本と中国は鉄道で行けるとか、台湾も韓国も日本も同じ言葉を話しているとか、Sonyがアメリカ製とか普通に思われていた時代。

日本には電気はあるのか? 手で食事をするのか?とか本当にそんな人も普通にいた時代。

国を超えるって今よりもハードルが高く感じることだったのかもしれない。あまり考えたことなかったけど。


私の留学生活の感想

何を勉強したいのか分からずに留学してしまったという贅沢な時間を過ごしてしまった。

帰国して、就職もすぐに見つからず、日本社会に馴染めず、腐っていくことになるのだけど、

今、こうして書いていて思うことは、

いや、私にしてはすっごい上出来じゃない?ってこと。


うん。分かるよ。同期のお友達はみんなすごい職業についていること。

でも、よく考えたら、そもそもレベルが違うのに、同じと思いこんでその空間にブレンドしていた自分に感心する(笑)。


それでも、翻訳の仕事したり、貿易の仕事をしたり、外資系で役員秘書をしたり、それなりに仕事をしてきたので、私の人生としては100点の体験をしたと思う。

本当に体験したいことを出来ているのだと思えば、こんな贅沢ないよね。

今も英語からまったく離れている訳ではない。小学生とか中学生が家に英語を習いに来るし、たまに通訳したり、レイキやアカシックについていろいろ書いているけど、実は英語も使っている。

でも、私の人生の目的はきっと、「体験」なのかも。とちょっと思った。

気が付いたらレイキに出会って、アカシックに出会って、それでお金をもらうことも出来ている。

全部、そういう流れでこうなった。

やりたい!と強く思ったら、動き出すし、それが魂の目的とハマったら無理しなくても動き出す。

私が腐った時期は、きっと脱線していたんだと今は思う。自分の思考と魂の目的がね。

とにかく留学生生活だけを考えると、本当にいっぱいいっぱいだったけど、これでもか!というくらいいろいろ経験できた。

でも最初に書いたけど、もっと自分をオープンにしてもよかったんじゃないの?とも思う。

いやぁ、あれはあれで、精一杯だったか。

自分の殻を破るというのは本当に大変な作業なんだよね。もっとバカになってもっとみんなとはじければよかったのにとは思う。

なんか、カッコ悪いとか思ったんだよな。バカだな(笑)。

ま、日本にいたら、そこに気づくことすらしなかったとも思うので、やっぱり留学は私にとっては大切な体験だった。


最後に

インターネットがない時代の海外旅行はみんな旅行本だけが頼りだったんだよ。今思うと、それってすごい。本を無くしちゃったら終わりなんだよね。

あんまり本をみながら歩くと現地の人に狙われるし、金品盗られるからね、どのタイミングで本を見るかとかすごく気を使ったのを覚えている。

「地球の歩き方」には本当にお世話になった。

アクセス方法とか美味しいレストランとか、美術館でのおすすめとか、いろいろ書いてあって、すれ違う日本人はみんな持っていたよ。

だからみんな外国はとってもハードルの高いものと感じていたのかもしれない。本当に世界が一気にスマホの普及で近くなった。

分厚い辞書を使って授業を受けるなんてこともないんだよね。

今の進化した世界の留学生活はどんな感じなのかすごく興味があるけど、ちょっとコロナウィルスでこんなことになっているから、

今、留学を目指している人たちは、準備にはちょうどいい期間だと思って、好きな外国の人たちの動画をたくさん見まくって、シャドーイングとかいっぱいやったらいいよ。

声に出すのって本当にバカにできないから。

留学生活を楽しいものにするのは、準備と自分をどこまでオープンにできるかだと思う。どこまでバカになれるかっていうか。

バカを演じられる人って頭いいんだよね。日本にもそんな外人さんいるけど、構ってもらえるチャンスが増えるほど言葉は上手くなる。

カッコつけていたら、そのチャンスを逃すことが多いんだよ。

ユニークなやつって思ってもらえると、たくさんのチャンスがくるんだよね。情報が入りやすくなるの。

あとスポーツとかなんでもいいからあなたの特技は自分を助けてくれるから、恥ずかしがらずに披露したらいいよ。あと趣味とかも盛り上がるよ。

特技といっても上手くなくてもいいんだよ。好きなものを表現できるってすごいことなんだと知っておいてね


思ったよりもすごく長くなったけど、ここまで読んでくれる人っているのかな?

いたら、本当にありがとうございます。

私の場合は、傍から見たら成功のパターンとは言えないと思うのだけど、意外に、当時はこういう人の方が多かったかもね。

やっぱり私は私なんだなと思いました。

当時の自分とはかなり違う大人になったけど、思った以上に楽しい人生になっています。

自分を認めるとか、負けを認めるとか、受け入れるとか、そんな気づきの体験だったんだなと思って、それが今につながっているので、これからも私の道を進むしかないわ!と確信しながらこれで終わろうと思います。


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自分自身のことについて、他にもこんな記事を書いています。


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