コロナ禍によって、「さくら」や「あじさい」や「もみじ」の印象に、影響が出るかもしれない。
少し盛りが過ぎてしまったけれど、今の季節は、「あじさい」が咲いている。
それまでは、ほぼ素通りだったのに、青や紫や赤っぽい色の花が咲いていると、近所を歩いていても、少し足を止めたりする。
いつもは、ほぼ冷淡なのに、急に、その綺麗な姿に関心が高まり、また無関心に戻る。
色づいていない時は、あれだけ見ていなかったのに、自分でも調子がいいと思うが、春はさくらに、秋はもみじにも、そんな態度を取って、季節が巡っているような気もする。
だけど、そんな印象の繰り返しが、コロナ禍の影響で、少し変わってくるかもしれない。
さくら
年間を通して、見ているはずなのに、春にならないと、それが、「さくら」の木であることを、ほぼ忘れていることが多い。
自分だけの問題なのかもしれないが、だけど、近くの河川敷に、さくらの並木はずっとあるのに、さくらが咲き始める時期から、訪れる人が急に増え始め、満開が近づく週末は、別の場所のように人があふれる。河川敷の狭いスペースしかないのに、そこに焼きそばの屋台が出ることまである。
今年、2020年の3月くらいは、日本国内では、まだ、「コロナ禍」という言葉は、そんなに使われていなかったと思う。3月末の連休中は、まだ警戒がゆるかったせいで、河川敷に向かって、ずいぶんと人が歩いていた。
今から、振り返れば、すでにあの時期には、「密」を避けるべきだったと思ったりするから、今年の春のさくらの花の思い出は、すでにいつもと違ってしまっている。
去年と、遜色ないようなキレイさや、華やかさもあったのだけど、土手に座って見たりすることもできず、ただ歩いて、遠慮しつつ眺めていたし、来年は、花見ができるかどうかも、分からない。
さくらは、いつものように咲いたとしても、コロナ禍の状況が劇的に変わらなければ、もう手放しで、見に行けたりしないから、さくらの花の意味まで、少し変わってしまうかもしれない。やたらと浮き足立つような さくらの印象や思い出にまで、コロナ禍は影響を与え始めているように思う。
今は、花が咲いていないから、例年と同じように、さくら並木に対して、無関心に戻っている。その感覚は、あまり変わっていないのに。
あじさい
電車に乗って、外をみていると、6月になると、急に「あじさい」があらわれる印象がある。
大きい樹木ではないから、そんなに背が高いわけでもなく、普段は目に入らないことも多いのだけど、そこにも、ここにも、あじさいが見えてくる。
色のバリエーションもあるから、その土地が酸性なのかアルカリ性が強いのか、といったことまで考えることができ、少し気持ちも明るくなる。数としては、そうでもなくても、印象が強くなっているから、こんなにたくさん、あじさいがあるんだ、という気持ちになる。
今年は、4月から5月まで、緊急事態宣言で、外出もほぼできず、花を見にいくといった「不要不急」なことはできなくなっていたから、バラ園のような場所は、5月頃に満開でピークを迎えていたのに、休園のまま、というニュースもみたことがあった。ほぼ、人目に触れないまま、咲いて、散ったはずだった。
5月の末に緊急事態宣言が解除されたせいもあって、急に空気はゆるんできた。6月は、あじさい寺といわれるような場所にも人が行っていたと聞くから、今年のあじさいは、いつもよりも、集中力を持って、見られていたのかもしれない。
混雑を避けて、という、コロナ禍の前だと理解しにくい理由によって、土日は閉門だった、あじさい寺もあったようだが、もしかしたら、今年のあじさいは、いつもよりもきれいに見えたし、貴重なものに感じられていたのかもしれない。近所の路地に咲いている「あじさい」しか見なかった私でも、そんなことを思っていた。
東京都内の感染者数が嫌でも耳に入ってきて、本当は、すでに「第2波」といっていい状況になっているのかもしれないし、個人的には、警戒心はそんなに変わらなかった。
でも、この1ヶ月間は、少し出かけたり、電車に乗ったりすると、1週間ごとに空気がゆるみ、動きが出てきたのを感じていたから、今年のあじさいも、そういった微妙な空気と共に思い出されるはずだ。もしかしたら、あの静かなたたずまいだけでなく、今年のあじさいの印象は、記憶の中では、いつもよりも華やかさが強くなるかもしれない。
来年は、どんな気持ちで、あじさいを見ているのだろう。
もみじ
これから先、秋から冬にかけて、「もみじ」の紅葉を見る頃は、どうなっているのだろうと、思う。
いつもだったら、そんなに先のことを考えない。これから暑くなるのに、もみじが紅葉するのは、秋から冬。最近だと、東京都内では12月の初旬くらいの話になるからだ。
そして、これまでだったら、もみじとイチョウの違いを考えるくらいだった。
もみじは、個人的な印象は、さくらやあじさいと同様に、季節になると、急に赤くなって、存在に気がつく樹木だけど、イチョウだって、急に黄色くなるのに、普段から存在を意識している。
イチョウは、多少の空気の悪さにも強いらしいから、並木でよく見る。家の前の道路にも、イチョウ並木があるし、日本全国でももっとも並木として多く使われているらしい。単純に、見る機会の圧倒的な多さによって、私のように、植物にそれほど関心がなくても、印象に残るのだと思う。
それにイチョウには銀杏があって、その癖の強い匂いや、その季節になると、たとえば学校の構内に、よくイチョウがあるが、季節になると、どこからともなくトラックがやってきて、銀杏を集めていくらしい、といった事実と噂がまじった話も毎年のように聞くから、イチョウのことを考えている時間が思ったより長いのかもしれない。
もみじは、そういう意味では、個人的な印象だと、エピソードが少ない。
秋が深まる頃に、赤くなる。場所によっては、葉っぱからはみだすように赤くなって、それは、イチョウの黄色よりも、もっと違う世界につながるような気持ちになることさえある。
その色のことも、その季節になるまでは忘れていて、もみじの存在も忘れている。
赤くなって、あそこに「もみじ」があるのを、思い出す。
ただ、今年、秋から冬にかけて、どんな気持ちで、もみじの紅葉をみているのか、今の時点だと、本当に分からない。コロナの「第2波」か「第3波」に襲われて、もしかすると、また外出自粛みたいなことになっていて、もみじを見る機会そのものが、ほぼなくなっているかもしれない。
もし、ひどい状況になってしまっていたら、あの赤い色は、不吉なものにさえ見えるのかもしれない。
花や植物が気になる時
こうして花や植物に注意が向く時というのは、個人的には、先が分からない時だった。
仕事をやめて介護に専念している時のほうが、季節の花や植物に自然に目がいっていたし、花屋に寄って、季節の花を買って、母親の病室に持って行ったから、その頃の方が、花の種類に詳しかった。浅い知識に過ぎないけれど、ガーベラは値段も安くて、色も明るくバリエーションも豊富で、ありがたかったことを思い出す。
今は、また先が分からない不安の中で生きていると、改めて確認するような気持ちになるが、人間の社会の中で、大きな変化があっても、基本的には、毎年、さくらは咲くし、あじさいは様々な色の花をつけるし、もみじは赤くなる。
勝手なことだけど、それを見る人間の気持ちが変わるだけで、その印象が変わっていく。
母親が入院していた時、外出で桜を見に行ったし、あじさい寺といわれる場所にも行った。いろいろと大変だったはずだけど、その時、花を見て、その瞬間、気持ちが、ちょっとふわっとして、その時の日常的な場所から、ちょっと遠いところへ行った感触は覚えている。
そして、その記憶は、こうして思い出すと、個別な部分はぼんやりしているけれど、花の記憶と共に、不思議と、柔らかいものになっている。
今年の、もみじの赤も、来年のさくらの薄いピンクも、あじさいの紫も、できたら、ただきれいと思って見たいと改めて思うけれど、普段、そんなあいまいな願いみたいな気持ちになることは、まずないので、思った以上に、今は、不安なのかもしれない。
今書くとウソくさいと思わせるので、申し訳ない気持ちになるのだけど、もみじの小さい木は、実家の玄関のそばにあったのを、改めて思い出した。
(参考資料)
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