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「迷惑をかけちゃいけない」と、「迷惑をかけたくない」。その二つの言葉の違いを、考える。(前編)。

 「迷惑をかけちゃいけない」ということは、昭和の時代から、あちこちで言われていたけれど、時代が進めば「困ったときはお互いさま」の方が盛り返して、もう少しバランスが取れるかと思っていたら、21世紀になって「迷惑をかけちゃいけない」が強くなりすぎているのが、やはり、不自然だと思う。

「迷惑をかけちゃいけない」を、内面化すると「迷惑をかけたくない」になるはずだけど、その二つの言葉と、そこに込められた意味や思いは、実はかなり違うのではないか、と思うようになった。

「迷惑をかけちゃいけない」

「迷惑をかけちゃいけない」は、人にかける言葉だけに、少し外部のこととして考えられる可能性がある。

 この記事の中で、「迷惑」という基準が曖昧なので、それは、子どもにとっては、場合によっては生涯続く「呪いの言葉」のようになる、という指摘があり、それは確かにうなずけることだった。

 子育てや教育の現場での意識が変われば、もしかしたら、「迷惑をかけちゃいけない」という言葉は、もう少し使われる頻度が減ったり、使われ方が厳密になる可能性もある。

 そうした大人側の意識の変化により、子どもが「迷惑という基準の曖昧さ」について考えられるようになり、迷惑だから、と必要以上に自分を抑えてしまうことがなくなれば、大人になってから、いわゆるブラックな職場で、適切な対応ができるかどうか、を左右することさえあるかもしれない。

本来あるべき職務を全うしようとしたり、職員の増加や余裕を求めたり、さらには虐待に違和感を抱いただけの労働者すら、コストカット優先の職場にとっては「迷惑をかける」存在であり、「排除」や「矯正」の対象となってしまう。子どもや高齢者を大切にしたいという思いまでもが、いじめの引き金となってしまうのだ。 

 特に福祉の現場では、「大人のいじめ」が多く発生している現実があると、この著者は、数多くの労働相談をしている上で指摘しているのだけど、この場合の、とても不当で理不尽な「排除」や「矯正」を正当化しているのが、コストカット優先という「経営者目線」である。その目線に従わないだけで「迷惑をかける」と断罪されてしまう。

 これは、成長する過程で、「迷惑をかけちゃいけない」と言われすぎて、それが、どんな時でも守らなくてはいけないことになってしまうと、大人になってから、こうした理不尽なこと↓に対抗できなくなる。

いじめを行うことが、自分も苦しんでいる働かされ方を擁護することになり、結果、自らの首を絞めている。日本では、労働者にとって、およそ「合理的」とは思えないかたちで職場いじめが起きている。それほどまでに、経営の論理と、それによる「規律」が、労働者に浸透しているのだ。 
現在の日本社会においては、「職場に少しでも迷惑をかける」「コストを優先しない」「経営の論理・市場の論理に適合的でない」労働者は、平等に扱わなくても、人権を認めなくても良い、差別の新しいカテゴリーとされつつあるのではないだろうか。

 この、あまりにも盲目的に従業員が経営の論理に従いすぎる、ということは難しく、もっと考えるべきことを含んでいるのだけど、今回は「迷惑をかけちゃいけない」と教育された場合に限定して話を進めたい。

 もし、そうした教育を受けていると、それが本当に「迷惑」と言えることなのか、といった判断ができなくなりがちだ。そのことで、こうした「大人のいじめ」にも加わってしまうことを考えると、それは「呪い」にもなり得る。

 そうしたことが少しずつでも「常識」として広がっていけば、“迷惑をかけちゃいけない」という教育は、再考しましょうという意識に、変わっていく可能性はある。

 そうなれば、職場や学校など集団の中でかけられる「迷惑をかけちゃいけない」という非難の言葉は少なくなってくるかもしれない。

 そうなればいいな、という願望込みで、そういう未来は可能な気もしてくる。

「本心」

 舞台は、「自由死」が合法化された近未来の日本。最新技術を使い、生前そっくりの母を再生させた息子は、「自由死」を望んだ母の、<本心>を探ろうとする。

 生前、息子は「自由死」を考えているという母に対して、それは、自分の意志のようで、団塊ジュニアの世代である母親が、気がつかないうちに社会的に強制された気持ちなのではないか、といった疑問をぶつける場面もある。

 もしも、自分の親や家族や友人が、こうした時代になって、「自由死」のような選択をするという話をしたら、それが本当に「本心」なのだろうか。それは、今の社会の価値観を内面化しているだけではないか、といった、この小説の主人公と似たようなことを言ってしまいそうな気がしている。

 ただ、それは、やはり、この小説と同様に、死ぬことを決めた人には届かないし、自分の無力を感じるだけのような気がする。

 その気持ちの底に、「迷惑をかけたくない」が流れていると思うからだ。

「PLAN 75」

 2022年には、「75歳以上の人間に生死の権利を与える法律ができたら」という社会を設定した映画が公開されていたのを、友人の情報で知った。

 それがわかったときに、これは実現しないように、という思いを込めて製作されているとは思うものの、同時に、まだ映画を観てもいないのに、今の社会状況では、本当に実現してしまうのではないか、という怖さと無力感も感じた。

 この映画の監督がラジオに出演し、さまざまな話をしていた。

(記憶に頼っているので、詳細の違いはあるかもしれません)

 カンヌで上映した後に、海外の記者から質問があった。映画の中で、こうした非人道的ともいえる法律が決まるときも、市民は反対のデモなどをしません。どうしてですか?と聞かれた時に、それは、おそらくは日本だと、そうなると思ったからです、と答えた、という。

 さらには「75歳以上になると生死の権利を与える、といった法律ができたとして」という仮定で、実際に現在の高齢者にインタビューをしたら、思った以上に賛成する人が多かった、ということだった。その理由として「迷惑をかけたくない」があげられていた、らしい。

 そうした、早川千枝監督の話を聞いていて、とても納得していたし、この映画のように、もしくは、小説「本心」の「自由死」のような法律や制度ができたとしたら、本当にそれを利用して、自らの命を絶つ人は多いのではないか、と私も思っていた。

 なんとも言えない重い気持ちになった。

「迷惑をかけたくない」

「迷惑をかけちゃいけない」という言葉は、実はあまり良くないのではないか、という議論はしやすい。

 だけど、「迷惑をかけたくない」と静かに語る、特にご高齢者に対して、それは、社会の価値観を内面化しているだけではないか、と伝えたとしても、それは、おそらく届かないし、そんな難しいことは分からないと柔らかく拒絶されるような気がする。

元来多義的であった「迷惑」が現在使われているような意味に絞られていったことには、戦間期という激動の時代に社会を対応させんとする政治的意図が多分に含まれていた。

 この戦間期は、第一次世界大戦から、第二次世界大戦のことなので、すでに100年ほど昔のことだ。だから、今の高齢者でも、生まれる前から存在する価値観かもしれない。

 例えば、若くてまだ価値観が固まっていない場合に「迷惑をかけたくない」については、こうした政治的意図が含まれるところから始まっているし、この20年に限って言えば、そんなベースが消えてないところに「自己責任」や「新自由主義」が蓄積して、「迷惑をかけちゃいけない」が強化されすぎている、といった理性的な説明は有効な気はする。

 だけど、特に高齢者の「迷惑をかけたくない」の響きには、そういった理屈は届かないような、そんな無力感を覚えてしまう。それは、こうした価値観を内面化しているというよりは、すでに一体化してしまっているせいだろうか。

高齢者の「迷惑をかけたくない」の響き

 ここ20年でも、「迷惑をかけたくない」という言葉は、かなり多く聞いてきた。それは、自分も家族の介護に関わってきたし、今は介護者の支援に携わっているからだろうけれど、この場合の「迷惑をかけたくない」相手は、比較的はっきりしていることが多い。


 一般的なこととして、自分が高齢であって介護をしていたとしても、そのことで、自分の子どもには「迷惑をかけたくない」という言葉の響きには、切実で、嘘がなく、否定し難い気持ちが込められているのも事実だと思う。

 そこに対して、「社会価値の内面化」という理屈を持ち出して、それが正しいと伝えても、無力な感じはする。

 自分が苦労をして歳を重ねた人が、自分の子供に対して、同じような大変さを味合わせたくなくて発する「迷惑をかけたくない」という言葉には重みもあって、そこには、美しさがあるように感じられることさえある。

 だから、その気持ちは尊重し大事にしながらも、だけど、こうした場合に、「迷惑をかけたくない」を守りすぎることが、自分自身に過重な負担がかかるだけではなく、誰かの生きたい思いを萎縮させることや、生産性だけで人の存在の価値が決められてしまうことに、秘かに加担してしまう可能性もある。

「迷惑をかけたくない」という思いが強すぎると、それは、結果として「自由死」や「PLAN 75」が実現してしまう未来に向かってしまう。

 それは、本当に望ましいことなのだろうか。

 誰かのためを思う気持ちを尊重しつつ、「迷惑をかけたくない」という言葉に含まれている「呪い」のようなものを無効化するには、どうしたらいいのだろうか。


(※「後編」に続きます)。





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