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読書感想 『生きてく工夫』 南伸坊    「昭和のスタイルで、現在の老いを描く」

 久しぶりに、南伸坊の本を、それも2019年だから、最近、出版された本を見つけて、読んだ。

 そこには、「昭和軽薄体」といわれたままの文章があるように思った。

 私にとっては、バブルの頃(1980年代末)に絶頂を迎えていた印象のある文体だった。
 なつかしい気持ちになった。

「生きてく工夫」

 昭和軽薄体とは、1970年代末から1980年代初頭にかけて、椎名誠嵐山光三郎らが築き上げたといわれているが、個人的には、嵐山の文末で「なのである」「なのでR」と表記していたのを覚えている。軽めの文体といわれていて、あまり本を読まない頃の、私のような人間にも、読みやすかった印象があって、20世紀の末には、雑誌のコラムなども含めて、思った以上に多く読んでいたはずなのだけど、そのこと自体を、時間がたつにつれて、忘れがちになっていた。

 ただ、その嵐山の「R」に関しては、今でも居酒屋などの前に出された木製の看板などに「〇〇あります」というのを「あり〼」と表現されているのを見るけれど、これ自体は、かなり昔からあるはずで、「なのでR」も、実はこういう歴史を踏まえた系譜にあるのかもしれないと、思ったこともあった。

 そうした「昭和軽薄体」は、くだけた話し言葉という意味では、何回目かの、分かりにくい言文一致体運動かもしれず、今は、たとえば新書は、著者が話して、それを本にする、という方法が多いとも聞いたことがあるので、それは、すでに広く浸透して見えなくなっただけで、消えたわけではないのかもしれない。

 そして、南伸坊も、その「昭和軽薄体」を代表する書き手の1人でもあったと言われていた。さらに、この著者を特徴づけているのは、独特の味わいのあるイラストも描くイラストレーターであり、以前は、本人が積極的に「イラストライター」と名乗っていたような記憶もあった。


 読み始めると、内容の前に、そのカタカナの多さに、なつかしい思いになったのと同時に、急に昔のマンションに入ってしまったような戸惑いにも似た気持ちになり、「あ、これもカタカナにしている」などという邪心が入ってしまい、内容に集中できない部分もあった。

 そういう部分だけ取り上げるのは、読み方としては、邪道だと思うのだけど、漢字の方が読みやすいのではないか、と思われる言葉もカタカナで表記されている。ただ、これも「昭和軽薄体」の特徴と断言はできないが、少なくとも、南伸坊の特徴だったと思い出せた。

 たとえば、こんな言葉を、カタカナにしている。

「妻」→「ツマ」
「困っている」→「コマっている」
「驚く」→「オドロク」
「難しい」→「ムズカシイ」
「簡単」→「カンタン」
「憂鬱」→「ユーツ」
「普通」→「フツー」
「歳」→「トシ」

内面を見せない文章

 そして、これは「昭和軽薄体」だけでなく、ある種の書き手の文章は、私自身の好みや偏見も入ってきてしまうのだけど、自分のスタイルや外面的なことは語っても、内面的なことが見えにくい、という特徴があり、南伸坊も、そうした書き手の1人であったことと、文章のスピードがゆっくりしていた、といったことも含めて、冒頭の部分で、いきなり思い出せたりもした。

 はじめに
「生きてく工夫」って、見ようによっちゃあ「ずいぶん大きく出たな」という題です。
 でも、当然ですが、工夫の「お手本」を示そうなんて大それたことを言うつもりではないので、私は、この「工夫」するっていうのが好物なんです。
 なんか、せこい「工夫」を」思いつたり、考えたりするのが好きなので、なにかと工夫します。   (中略) 私の場合も、びっくりしたり、あわてたりしたそのままを書いているんで、「どたばた」報告として、ちょっと笑えるかもです。


交友関係と仕事

 さらにいえば、南伸坊のキャリアが「元・ガロの編集長」ということを、私のような、それほど熱心でない読者でも知っていて、それは、本当に「伝説の」という言葉が似合う漫画雑誌の編集長だから、そこに、すごみをおぼえているのと同時に、昭和のバブル期には特に目立ったのかもしれないが、いろいろな人と一緒にいて、その交友関係の印象も強い。

 南伸坊自身は多弁でなく、対談などでも、聞き手として口数少なく、ひょうひょうとして、ガツガツしていない姿勢が好感を持たれたこともあるはずだった。そうして、複数の人間がいつも一緒にいるイメージで、そこで仕事も回っているように見えたのが、特に昭和の頃の印象でもあった。その交友関係で、もっとも有名なのは、「ガロ」の編集長時代からの友人でもある糸井重里で、この本で、触れられている箇所もある。
 それは、思い出の場面でのことだった。

  友人の糸井重里さん(中略)
 「何が怖いか?」って話だったと思うが糸井さんが突然、
「拷問!」
と言うので笑った。

団塊の同世代に向けて、老いを伝える

 文体も、そのスタイルも、おそらく変わらなかった南伸坊だったがゆえに、特に2010年代になってからは、表舞台で脚光をあびる機会は少なくなっていたのかもしれない。というよりは、書き手として、一時期、人気があって、本も売れれば、それだけで、すごいことでもあって、それを維持して何十年も保てる人間は、奇跡的な存在に過ぎない。だから、そうした浮沈は、ごく自然なことでもあったのだけど、自分の近況を、こんな風に書いていて、それは、珍しく内面的な部分が現れていると思えた。

 いつも年のことばかり考えてるみたいに思われそうですが、そんなことはないので、近頃は「なんとなしに書いてるエッセイ」みたいなものを、世間はほとんど興味をもってくれないらしく、それでなくとも本がちっとも売れないとこにもってきて、とてもそんな役立たずな本は出したくないというんで、出版社の人と疎遠になってました。
 めずらしく興味を持って下さったのが、読者対象を「団塊の世代」にしぼった出版社で、なんでもない内容の本を、こんなタイトルで出すことになった。

 南伸坊は、「老い」をテーマとして、「オレって老人?」を2018年に、「おじいさんになったね」を2019年に出版し、それに続くように、この「生きてく工夫」が出版されている。

 「生きてく工夫」は、60代後半から、70代になっていく著者が、自らの「老い」について書いていて、それは、「老い」について書きながらも、当然ながら、老人になっていくのは、誰にとっても初めての経験で、誰もが、まだ老人ではないと思いながら歳をとっていく部分も書かれている。

 そして、この時期に、急に体のあちこちが調子が悪くなる様子も、率直に描かれているので、私自身も含めて、これから長生きした場合の先人の記録として、かなり重要性は高い。

 そう思いつつも、どこかで、読んでいる自分は違う老い方をするのではないか、などと傲慢にも思ってしまうこと自体が、すでに自分も「老い」に向かっている証拠なのだろう、などと考えさせられる本でもある。

 つまり私は、ほんとはずいぶん前からお爺さんだったのにもかかわらず、毎朝顔を洗う時に鏡の顔を見ながら、
「そーんなに、おじいさんじゃない」と、思っていたのである。 

 同時に、この「老い」をテーマに、団塊の世代という同世代に向けて書く、ということで、南伸坊の仕事自体が増えてきているような気配もある。

 この本のもとになっているのは、「きょうの健康」の4年間の連載で、途中から、現代の空気に頻繁に触れたせいなのか、編集部の要望なのかは定かではないが、カタカナで表記するスタイルが減少した印象になる。それでも、最終回に近づくと、またカタカナ表記が増えてくるので、このバブル期をほうふつとさせる文章スタイルには、想像以上のこだわりがあるのかもしれない、と思わせる。何しろ「生きていく工夫」ではなく「生きてく工夫」というタイトルに、そうしたメッセージもこめられているように思えるからだ。

 「昭和軽薄体」などといわれていた他の著者の方々の、現在の本を読んでいないので、それほど断言もできないものの、もし、昭和の時代の、特にバブル期の気配を味わいたい方であれば、南伸坊の文章は、比較的、そのままの気配を閉じ込めているように思える。

 さらには、これから「老い」に向かっていく方にも、(私もそうですが)深刻すぎずに読めるという美点があるので、準備という意味でも貴重だと思う。そして、もちろん、同世代である団塊の世代の方が、読者のボリュームゾーンであるのは、動かないと思うし、その世代にとっては、なつかしく安心できるスタイルなのかもしれない。これだけ一貫している南伸坊のブレのなさは、今になってみると、本当に貴重だと思えてくる。



(参考資料)

ウィキペディア

昭和軽薄体 https://ja.wikipedia.org/wiki/昭和軽薄体

南伸坊 https://ja.wikipedia.org/wiki/南伸坊


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