「水を飲むな!」にも、「理論」があったのを憶えている。
暑い夏でも、どれだけ汗をかくほど運動しても、「水を飲んではいけない」と言われていた時代があった。
湿った唇
真夏の午後に学校のサッカー部の練習があって、それも3時間も4時間も続いて、疲れる上に汗もかいて、とてもノドが渇いたのだけど、「先輩」から「水を飲むな」と言われていた。
それでも、とても耐えきれないほどの状態になった時は、はずれたシュートのボールを拾いに行って、それは校舎の角の向こうだったから、「死角」になった場所に水道があったので、そこでこっそり水を飲むのが「後輩」の習慣だった。
ただ、優しい先輩も、それほど優しくない先輩もいて、ボールを拾って、水を飲んで一生懸命、口周りをふいて、それから練習に戻ると、「後者」の先輩に言われた。
「お前、水飲んだだろ」。
反射的に「いいえ」と答えると、再び少し笑って「先輩」が続ける。
「唇が、湿ってんだよ」。
それは、本当のときもあったし、そうでないときもあったけれど、その観察力と、時としてのハッタリは、サッカーに必要な能力なのは、間違いなかった。
つらさの分量
真夏にどれだけノドが渇いたとしても、「水を飲むな」と言われていた理由は、基本的には「つらい思いを乗り越えた方が心身が強くなる」という、それほどの根拠のない「精神主義」だったと思う。
今では、ヒザに無駄な負担をかけるだけで、筋力アップにもほぼ効果がないと言われている「うさぎ跳び」が、サッカーのゴールラインからゴールラインまでの往復がノルマだったりしたのも、おそらく、やたらと辛いせいだったと思う。
さらに、いわゆる「スポ根もの」の主人公が、四六時中強いバネを身につけることで体に負荷をかけて筋力アップをはかるとか、鉄ゲタという重いものを常に履くことで力をつけるとか、そんな発想が「正義」だったのだけど、それも、「つらければつらいほど、それを乗り越えたら力がつく」といった「精神主義」がベースにあったと思う。
だから、暑い時に、水を飲まないのは、つらければつらいほど、そのつらさの後に、パワーアップしているという「思想」があったはずだ。
「水を飲むな」の「理論」
とにかく「我慢すること」が目標になっている「精神主義」だったら、ある意味、すっきりしているというか、シンプルで、好き嫌いはあっても、そんなに微妙な気持ちにはならなかったはずなのだけど、その「水を飲むな」には、独自の「理論」があったのを憶えていて、だから、少しもやもやしていたのだと思う。
誰が言ったのか憶えていないのだけど、ただ、その口調は冷静で、正しいことを言っているような揺るがなさがあった。
どうして、暑くて、ノドがかわいても、水を飲んではいけないのか。
そんな暑い中で、実際につらい気持ちでいる人間の、けっこう切実な訴えに対して、こんな応答があった。
「それは、実は、水を飲むことによって、かえって疲れてしまうから」。
当然、それだけだと納得ができないから、その理由を聞くと、さらに答えが重なってくる。
「暑くて、水を飲むと、また汗をかく。そのことで、かえって体力を使う。だから、水を飲まないほうが結果として疲れない」。
そこで、会話が終わったはずだ。
納得はいかないのだけど、そこに、君は知らないかもしれないけれど、正しさがあるんだから、といった言葉の圧力は感じて、だから、余計にもやもやした。
たとえ無茶なことだとしても、そこに、一応は「理論」がないと、人間は納得してくれないから、どんなことにでも「理論」が作られた一つの例だと、今は思っている。
ただ、そういう「理論」のようなものを、誰が作ったのか、本当に研究などがされたのか、その時の会話の相手が実はでっちあげたものなのかは、今でも分からない。
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