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ラーメンの記憶と現在。

 ラーメンの特集は、定期的にテレビで見かけていた。

 一時期は、またやってる、と思うくらいの多さだったけれど、このところは、同じように感じる人が多数になっていたせいか、それほど放送しなくなっていた。

 ただ、少し前の話になるけれど、久しぶりに、「ラーメン日本一を決める」という番組を放送していた。それも、2000年以降に開店した、という限定付きだったせいか、昔は何冊かラーメン特集のムックなどを購入していたのだけど、そこに載っていたラーメン屋は、一軒も出てこなかったと思う。


ラーメンの思い出

 それほど食に詳しくない私でも、ラーメンに関する記憶は、そういう番組を見ていると、いくつかすぐに出てくる。

 小学校の頃、インスタントラーメンを家でよく出してもらっていた。
 その中で、「サッポロ一番みそラーメン」が、とてもおいしいと思っていた。
 あまり自分の意見を主張する子どもではなかったので、心の中で、日本一だとつぶやいていた。

 同じ頃、1クラス1学年しかないような人口の少ない中部地方の地域に住んでいて、今ではなくなってしまったかもしれないチェーン店の「札幌味噌ラーメン」のラーメン屋ができた。他に娯楽もないせいか、その話題は、クラスの中で半年以上続いた。

 それは、その店に行ったか、行かないかの話で、味に関しては、詳しく語られなかった。ただ、新しい店ができた。そこに行くこと自体が目的になっていたようだった。何度か、家族で行った。微妙に遠い場所だったので、父親が運転するクルマで出かけた。その度に、完食をして、子どもだったから、その店の人にほめられた記憶がある。

 中学生の頃、サッカー部の練習試合などの後、駅のそばのラーメン屋に時々寄った。踏み切りの音と、通り過ぎる電車の振動を感じながら、ラーメンを食べていた。サンマーメンばかりを食べている同級生がいて、どうして、そんなに好きなのだろう、というような気持ちになった。

 私は、その中で最も安いラーメンを食べていた。その味がどうこう、というよりも、小遣いも少ない自分にとっては値段が選ぶポイントだった。もう何十年も前だけれど、値段は180円。その価格は当時でも破格だった。ありがたかった。

 ある時、少し前にいた客がスープを残していていたどんぶりに、そのまま次の客のラーメンとスープを加えていたように見えた。今となれば、それが本当のことかどうか、見間違いかもしれない、とも自分の記憶を疑っているけれど、ただ、その時も驚くことではなく、安さの秘密みたいなことだと密かに納得していた。

 まだ学生の頃、上野の駅の地下のラーメンを食べた。
 都会だから、と期待もあったのだけど、そのラーメンを口に入れた瞬間、舌がしびれた。何が入っているかと思い、ほとんど食べられなかった。あの頃、自分がなんでも、たくさん食べる若い男性だったから、すごく珍しいことだった。そのことを、私よりも食に詳しい友人に話をしたら、「〇〇が強めに効いていただけじゃないかな」と冷静に言われた。そのときは、自分の舌の方を疑っていた。

救いのラーメン屋

 それから年月が経って、横浜にラーメン博物館ができるほど、ラーメンがブームになって、それが定着する頃は、テレビをつけると、湯けむりとラーメンばかりを特集しているような時代がしばらく続いた。

 2000年代に入った頃は、個人的には、介護に専念していた。仕事をやめざるを得なくなり、先が全く見えなかった。母は病院に入院してもらい、そこに毎日のように通い続け、家に帰ってきてからは、妻と一緒に妻の母親の介護をしていた。

 時々、妻と一緒に母親の病院に行けることがあった。
 片道で1時間半ほどかかるのだけど、その帰り道に、やや遠回りになるけれど、いつもの路線ではない駅に、ラーメンの特集に載っているようなラーメン屋が何店舗もあったのを知る。

 だから、妻と二人で母の病院に行けた時は、その帰りに、そうしたラーメン屋に寄れることがあった。夜で暗くて、知らない街を歩くのは不安だったり、せっかく行ってもやってなかったり、期待が高すぎて、味に不満なこともあった。

 だけど、本当に先がなくて、ただ、目の前の介護をするしかない毎日では、いつもと違うこと。そして、私よりもラーメンが好きな妻が、おいしいと嬉しそうな顔を見ることは、大げさではなく、救いのようなものになっていた。

 その中で、少し不便なところにあったけれど、当時はラーメン界の中では、若かった「中村屋」と、行くまでに迷ってしまった「くじら軒」は印象に残っている。

 私にとってはとてもおいしかった。
 そして、その頃はラーメン屋に関する情報が豊富になってきた頃だったから、中村屋の店主は独学でありながらも、「くじら軒」の味に大きく影響を受けたことも何かの雑誌で知って、それも納得がいくことだった。

 介護をしていた期間はトータルで19年になったけれど、母親の病院に通っていた7年間は、意識的にラーメン屋に行った時期だった。

ラーメン屋の情報

 そんなことがあったせいか、久しぶりにラーメンを特集する番組を寒い季節に見ると、すごくおいしそうに見えて、さらには、これまでのラーメンの記憶も、それぞれがはっきりと蘇るというのではないけれど、ここまで書いてきたようなことと、それ以外のことも、全部があいまいに混じって、思い出していた。

 ただ、その2000年以降のラーメン屋は、どこも食べたくなるような見た目だったし、ソムリエの田崎真也氏の味の表現力にも感心しながら見ていて、だから、特に上位に入るラーメン屋の名前はメモをしていた。

 それは、全国のあちこちにあったから、自分が行けそうな場所は限られていて、そのうちでは、近いうちに妻と行く予定があった町田市にも、おいしいラーメン屋がありそうなので、調べたら、自分たちの勝手な時間の都合で行けそうな店は限られていて、だけど、その中から妻と相談して決めたのが、この店だった。

「81番」。それは、パインを入れたラーメンの系列店のようだった。昔、「パパパパパイン」は食べたことがあって、かなりパインが入っているのに、別にその味が邪魔をしなくて、おいしかった記憶があったから、その店主が「パイン無し」→「NO パイン」→「81番」ということで、オーソドックスなラーメン屋も系列店として開店したのを知って、行きたいと思った。

 この命名は、ちょっとあざとい感じはするけれど、そのことを知ると誰かに言いたくなるから、妻にも伝えるが、私の意気込みと比べると、反応は薄かった。

 ただ、ラーメンを食べること自体は楽しみにしてくれていた。

ラーメンの現在

 町田に行って、用事が終わった。

 それからラーメン屋を探した。
 地図を見て、ここでは、いや、あそこでは、と歩く。

 仲見世商店街の中、という説明書きを見て、その商店街らしきものを探したが、思っていたよりも、もっと「昭和」なたたずまいの、コンパクトなアーケード街のような商店街で、その道路も、通路といっていいような幅の狭さだった。
 すごく不思議な、なつかしい感覚をさかのぼるような、さらに昔からある場所に思えた。

 店構えも、ちょっとおしゃれで、カフェのような感じもしていたし、清潔そうで、入りやすかった。

 店の前のラーメンの写真も、おいしそうだった。

 中に入ると、午後5時くらい、という中途半端な時刻のせいか、空いていた。

 妻は、「うま味塩そば」で、私は「辛味塩そば」にした。

 辛味は、ちゃんと辛くて、それにおいしかった。

 妻も、おいしい、と笑顔だったし、私も少し食べさせてもらったが、確かに複雑で、だけど、柔らかくて、おいしかった。

 もし、「サッポロ一番みそラーメン」ばかりを食べていた頃の私が食べていたら、信じられないくらい美味しく感じたと思う。

「81番」のラーメンは、十分以上に美味しかったけれど、ここ20年くらいのラーメンは確かに進化していて、おいしさに慣れてきているから、本当はすごく美味しいのに、心を奪われるほどにならないのかもしれない、と感じた。

 今は、とりあえずラーメン屋でも、といった出店をしたら、あっという間につぶれてしまうのでは、と思うくらい、全体のレベルが上がっているのではないか。

 それが、ラーメンの現在なのだと思った。




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