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「考えるスピードが速い」ほど、「大事なこと」を取りこぼしている可能性はないだろうか。

 頭の回転が速い。

 いわゆる「頭がいい」表現として、長く言われてきて、今も使われているのは、比喩として分かりやすいからだと思う。

 昔は、クルマのエンジンとして、今はコンピューターの処理速度のようなものとして、考えやすく、そして、速さというイメージ、頭の良さは、相性がよく、これからも、この比喩は、ずっと使われそうな気がしている。

 でも、よく考えると、「頭の回転が速い」のは、常に「本当に頭がいいのだろうか」という疑問が微妙にわいてくる。

考えるスピード

 足が速いのと同様に、もともと考えるのが速い人というのは存在する。

 だけど、その人が、どれだけ速く考えているのか、というのは、足の速さのように外からは分かりにくく、一つの基準として、自分の思考のスピードと比べるしかない。

 最も分かりやすいのは、例えば、同時に同じ課題を与えられて、その答えを出すスピードが速い人は、頭の回転が速い、と素直に思える。それが、自分と比べて、圧倒的に速ければ、そこはもう感心するしかなくなる。

 それは、クイズ番組などでも見られる光景だけど、少し考えを進めると、ちょっと疑問も出てくる。

 シンプルな答えや情報を速く出すというのは、自分がどれだけのことを知っているか。そして、その答えを、自分の中を検索して、取り出せるか、といったスピードが速い。ということなのだけど、それは、頭の機能が優れているのは間違いないが、本当に「頭がいいのだろうか」という気持ちにはなる。

 それは、覚えていることが多く、取り出すのが速いという「処理能力」であって、本当に「考えるスピード」といえるものなのだろうか。

頭がいいこと

 最も「頭の良さ」が発揮される場面というのは、すでにある答えを物凄く速く答えることではなく、まだ解決されていないことが目の前にあり、それは、誰にとっても未知のことである場合に、考えることによって、その問題を解決できると、本当に「頭がいい」と素直に、誰もが思えるはずだ。

 そして、それは「考えるスピードが速い」とも思う。

 ただ、それを可能にするのは、未知である以上、どれだけ優れた頭脳でも、「今は分からないこと」があるはずだから、「分からないことがある」を前提にして、考える必要が出てくる。

 そうなると、「頭の回転が速い」だけでは、とても対応できないように思う。

 まずは、「なにがわからないか」を明確にすることだけど、それが苦手な「頭の回転が速い」人が多いように、昭和から平成、さらには令和という時間を生きてきて、根拠もなく、なんとなく感じていたら、医学の世界だけど、それを裏付ける言葉もあった。

 官僚同様、医者も頭の回転が速くて、偏差値が高いだけに「答えを出す能力」は秀でています。逆にそれが足かせになって、質問をするのはむしろ人より下手だったりします。プライドの高い医者は多いですが、そのプライドが邪魔してさらに質問はできなくなります。質問するとは「私はわかりません」というカミングアウト、白旗をあげることを意味しますから。 
知性とは知識の総量ではなく、わからないことがわかること。  

 この指摘は主に医学界についてで、テーマは「ロジカルであること」なのだけど、このことと「本当の頭の良さ」を考えるのは、かなり近いと思う。

 医者も自分の「無知の知」に無自覚な人がほとんどで、したがって上手に質問を重ねるのが苦手です。つまり、医者も案外、ロジカルでないんですね。口が達者な人が多いので、そのように勘違いされてることが多いだけなんです(これ、絶対隣の医者に読ませないでくださいね)。 

 そういえば、「分からないことを分からない」とはっきりと言えて、その上で(それだからこそ)「頭がいい人」は、本当は少ないのではないだろうか。

 この「質問を重ねる」という時間は、速さには結びつきないかもしれないけれど、そこを通らないと、「分からないこと」を含んでいる、もしくは全体が「分からないこと」で出来ている問題には、とても対応できないと思う。

 そう考えると、この約2年の間の、コロナ対策をめぐる、いろいろな納得のいかない政策は、こうした「質問ができないような頭の良さ」無関係ではないのでは、と思ってしまう。

めんどくさいこと

 もうひとつ、「頭の回転が速いこと」に関して、気になることがある。

 これは、個人的で屈折した見方かもしれないけれど、あまりにも「頭の回転が速い」ことに、自分の存在価値を置きすぎると、必要に応じて、思考の速度を落とすことが出来なくなる。そんなことはないだろうか。

 あまりにも「頭の回転が速い」ことに、こだわりすぎると、考える前提として、「めんどくさいこと」を排除しがちになる気がする。処理しやすいことばかりを集めれば、「考えるスピード」は速くできるし、それでも一応の正解は出るかもしれないけれど、そして、その「正解」の出し方が速ければ、その瞬間は説得力を生むだろうけど、「大事なこと」を取りこぼしていないだろうか。

 そんなことを考えてしまうのは、もっとも「めんどくさいこと」の一つが「人の気持ち」だったりするからだ。

人の気持ち

 人間社会に生きている限り、何かをするときには、必ず、「自分以外の誰か」が関わってくる。

 それが2人以上になったら、意見や利害が一致するとは限らない。それがズレたときは、両方の思いを聞いて、どちらも納得するような答えを出すか。それが不可能で、どちらかに不利になるような解決しか出来ないときには、その不利になる側に、どのようにすれば納得してもらえるか。

 そういう合理と非合理も含めて、考えるとすると、そこに「目の覚めるような速さ」は望むのは難しい。

 だから、あまりにも「考えるスピード」が速すぎる場面を見たり聞いたりした時や、自分自身が、想像以上に速く解決策が浮かんだりした場合は、もしかしたら「人の気持ち」に代表されるような「めんどくさいこと」を、意識的にも無意識的にも、取り除いてしまって考えていないか。そんな疑いを持っていいのかもしれない。

「めんどくさいこと」を考える材料から省けば、当然、「考えるスピード」は上がる。

 それに、「人の気持ち」を「冷静」に切り捨てる方が、「合理的」に見られる傾向もありそうだけど、結果として、その切り捨てによって、怒りや恨みなどを引き起こし、返って、解決への時間が長くなっていることも、実は、思ったよりも多く存在するような気もする。



 かなりぼんやりとした話ですが、これから先も、やたらと「スピード感」が重視されそうなだけに、ちょっと立ち止まって考えてもいいことではないか、と思って書きました。



(他も、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。



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