「過酷な状況」を生き抜いた人が、時として、「異常なほど苛烈」になってしまう理由を考える。
時々、不思議な気持ちになる。
私のような平凡な環境で生まれ育った人間には、とても想像もできないような厳しい環境を生き抜いてきた人が、ふた通りに別れてしまうように見える。私には、こうして偉そうに分析などをする資格はないとは思いながらも、不思議なほど違うタイプになることがあると感じている。
優しい人と、厳しい人
まずは、優しい人。
特に、現在も同じように厳しい環境で生きざるを得ない人に対して、自分が同じように厳しい場所で育ってきたからこそ、妙な同情ではなく、きちんと届く言葉と気持ちがある人。それは、目立つ場所でなくても、こういう人が本当に優しいのだろう、と思える人はいる(はずだ)。
そして、厳しい人。
自分自身は、厳しい環境で育って、今は社会的に成功をおさめている。ただ、現在、苦境と言ってもいい場所にいる人に対して、時として異常なほど苛烈な振る舞いをする人がいる。
例えば、政治に関わる人の中で、陳情に来た高校生を泣かせたと言われる人がいる。
それは、その高校生だった人が、7年経っても、再び、声をあげざるを得ないような苛烈さだったようだ。
こんなに成功していて、どうして、自分よりも明らかに立場が弱い人間に対して、厳しすぎるのか不思議だった。もっと優しくなっても不思議ではないし、何より表の活動で、「優しく」見せた方が有利なはずなのに、と思っていた。
怒りと、弱さ
そうしたことに関して、自身の経験も含めて、きちんと書いてくれている人がいる。
著者自身の父親の「怒り」について、こうした文章にしている。
差別や貧困に傷つき、打ちひしがれた人を見ることで傷つく感情というものがあります。そこにかつての無力で立ちすくむほかなかった幼く弱い自分を見るのです。どうすることもできなかった現実は歳月がいくら経とうともずっとどうしようもないままです。
父の怒りの引き金は「弱さ」です。彼は他人の弱い姿に我慢がなりません。努力をしていないから弱いのだと思い、怠慢さを責めるのでしょうが、それはあくまで投影です。自身が「傷ついた」という弱さを受け入れるわけにはいかないのです。その葛藤のエネルギーが怒りとして噴出し続けています。
自分が厳しい環境で育ち、その中で傷ついた人は、その傷が癒えぬまま生きてきたら、成功したとしても、その『「傷ついた」という弱さを受け入れるわけにはいかない』から、弱く見える人に対して、尋常でなく厳しく当たってしまうのかもしれない。
だから、そういう人は、まずは、その「傷ついた自分」に向き合って、できたら労り、自分の傷を癒すのが、やるべきことなのだろう。
ただ、それは、そんな厳しい環境を経験したことがない自分のような人間には、『その「弱さ」を受け入れるのは、とてつもなく難しいことなのではないか』、と想像することしかできない。
それは、やたらと「上に行きたがる人」と似た気持ちの構造なのかもしれない。
優しい人
厳しい環境にいたのであれば、傷つくことは避けられない、と思う。
そうであれば、その後、もし成功したとしても、同じような厳しい環境にいる人に対して、強めに当たってしまう方が、自然なのかもしれない。
だけど、厳しい環境にいた人でも、優しい人は確かにいると思う。
厳しい人と、優しい人では、何が違うのだろうか。
推測になってしまうけれど、厳しい環境で傷ついたとしても、優しくなる人は、どこかの時点で、誰かに、きちんと労られたのかもしれない。
それは、その直後の場合もあるだろうし、それから何年も経ってからでも、適切に、誰かに傷が癒えるきっかけを与えられたり、自分で、そんな機会を作れたのか、その辺りは分からないけれど、優しくなれる人は、傷ついたままではないはずだ。
きちんと労られること。適切に評価されること。人として無条件に大事にされること。
そんな本当ならば当たり前にあっていいはずの機会が、今の社会にも少なすぎるから、厳しい環境にいた人が、優しくなれる確率が低いのかもしれない。
推測と想像がほとんどの、仮説に過ぎないのだけど、誰もが大事にされる社会を目指すのは、理想ではなくて、ただの目標になればいいのに、とは思う。
今回は、未熟な推論なので、ここからもっと成熟した考えに向けて、進めてくれる方がいれば、とてもありがたいと思います。もしくは、ご意見、ご感想をいただければ、うれしく思います。
よろしくお願いします。
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