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「お守りの力」を、改めて考える。

 「人志松本」という言い方に抵抗感を感じつつも、やっぱり見てしまうのが、「人志松本のすべらない話」で、第36弾は、「ニューフェイス枠」というのが設けられていた。

 それは、それほど世間に知られていないけれど、力がある芸人を紹介するという目的でトークをするというコーナーだった。登場する時に、高い壇上でスポットライトを浴びるという、、視聴者から見ていたら、あんな扱いをされるのはありがたいかもしれないけれど、とても緊張すると思っていたが、2人の芸人は、きちんと自分の役割を果たしていた。

お守りの力

 そのうちのひとり、空道太郎という芸人の話は面白かったのだけど、その中で、「お守り」のことが話されていた。「お守り」によって助けられた、という内容だったのだけど、そのことで、お守りの力を、改めて考えさせられた

 本当に宗教を信じている場合は、もちろん「お守りの力」はあるのだと思うけれど、そうした信仰がなくても、なんとなくでも、たとえば、この神社のお守りは助けてくれる、といったことを思っていれば、それは効果(という言い方は失礼かもしれないけれど)があることを証明しているように聞こえた。

さまざまな「お守り」

「お守り」というのは、実際に神社などでいただけるものだけではない、と思う。

 たとえば、誰かにもらった「言葉」だったり、どこかで見つけた「雑貨」だったりもすることもある。もしくは、「お守り」といった言葉は失礼かもしれないけれど、尊敬する「誰かの存在」が、自分の中では、「守ってくれるもの」だったりすることもある。

 たぶん、そうしたさまざまなことが、あえて「お守り」だと意識しなくても、とても苦しい時に救ってくれた経験も、誰にでもあると思う。

外部への意識

 その人の信じ方の深さに差があるとしても、そうした「お守りの力」はあると、改めて思った。

 それは、すべての「お守り」は、自分の外にあるものだから、だろう。

 このあたりから、やや理屈っぽくなってきて申し訳ないのだけど、困っている時、その苦悩が深いほど、巻き込まれた災難が大きいほど、その出来事の内部に入り込みすぎていて、それは自然なことだとも思うのだけど、自分の内部、もしくは起こっていることしか見えなくなる。

 だからこそ、困窮度合いが深いのだろうけど、そのままでは、ずっと、何も変化しないことが多い。もしくは、災難のように大きい困難だと、何かができることが少なくなる。

 ただ、そんな時でも、もし本人にとって「お守り」があれば、その「お守り」に意識が向くはずだ。というより、その時点で、ほんのわずか余裕ができていると思えるし、もしくは、「お守り」があることで、その余裕ができやすくなるかもしれない。

 その「お守り」は、それこそ神社でいただいたり、誰か尊敬できる人の言葉だったり、好きな人からもらった小さなプレゼントかもしれないが、それは、自分の外から、自分に向かって、多くの場合は偶然にやってきたものであって、しかも、自分の外側に存在しているはずだ。

 困っている時、悩んでいる時間に、もし、自分の外側へわずかでも意識が向けば、それだけで、ちょっとだけ、その苦難そのものからは、意識的には距離を取れる。そのことで、少し落ち着き、もしくは、思考が働き、解決まではいかなくても、ちょっと違う場所へ行ける可能性が出てくる。

 「お守り」は、外部への視点や思考を誘導してくれる。

 だから、「お守り」は力を発揮するのだと思う。



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