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テレビについて㉕「Creepy Nuts」が示してくれた「成功後」の二つの道……「ボクらの時代」。

 日曜日の朝7時だから、この時間帯から、リアルタイムでは、どんな視聴者が見るのだろう、と思いながらも、面白そうだと思う時は、録画して見る番組が「ボクらの時代」だった。

 今の時代に「ボクら」なんだ、という気持ちもあるし、出演者の3人が興味深いのに、毎週録画しているわけではないので、見落としてしまうことも少なくない。

 妻が「面白そうだから」と録画してくれていたのを、日曜日の昼間に、気を抜いた感じで見ていたのは、旧知の仲での、リラックスした話だろうなと思っていたからだった。

「Creepy Nuts」と「オードリー若林正恭」

 Creepy Nutsと、オードリー若林の3人で「ボクらの時代」。2021年10月31日放送。

 若林と、Creepy Nutsの二人とは、年齢差がひと回りほどあるのだけど、ラジオなどで話していたり、テレビ番組で一緒にいるところを見ていると、そんな差を感じられない。

 それは、見ている自分自身の年齢の高さから、その違いが見えにくくなっているのか。それとも、3人の同質性が高いせいなのかは、はっきりと分かっていない。

 リラックスしている気配の会話が続いていたのだけど、そこから、急に、おそらくはかなり難しいテーマでもある「成功後をどうするか?」という話にスムーズに入っていった。

「Creepy Nuts」 DJ松永の場合

(ここから先は、テレビ視聴の記憶をもとに書いています。細かい部分は違っているかもしれません。すみません)。

 DJ松永は、それまでの話のトーンと同様に、淡々と話をしていた。
 こんな内容だった。

 ここ何年か、かなりの夢がかなった。
 いい家にも住めるようになった。

 昔、渋谷でDJをやった後にフラフラして、すごい住宅街(松濤)を見て、別世界に見えていたけど、そんなような家にいる。

 もうやることがない。それで、何か、落ちていた。

 ……そのうちに、いい人間になろう、と思うようになった。


 松永は、そんな話をした。
 
 何かで頂点を極めたようなことがあっても、人間性が、そのレベルで成熟していることは、ほとんどない。少しでも考えてみれば当たり前のことだけど、チヤホヤされることによって、それを忘れ、もしくは目を向けることなく、その結果として「晩節を汚す」ことになるのではないか。

 DJ松永は、そんなことを、おそらくは直感で理解し、いい人間になろうとしているらしい。それは、本来はチャンピオンが辿らなくてはいけない王道でもあるのだけど、それができない人が多いので、視聴者としては、敬意と共に、ちょっと背筋が伸びるような思いになった。

 そして、もう一人の「Creepy Nuts」 R-指定は、これからのことを「覇王になりたい」と話し始めた。

日本での「ヒップホップ」という文化

ライムスター」の、このアルバムの中に「ガラパゴス」という曲がある。
 それは、元々は、文化も言語も違う遠くの国で生まれた「ヒップホップ」というスタイルを選んで、日本で続けてきたことの意味と戦いを、作品にしている。

 そして、その「ガラパゴス」という曲の出来た過程を、丁寧に、「ライムスター」がインタビューの形をとって、話をしている。

 タマフル(TBSラジオ『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』)で宇多さんが言っていたけど、これは為末大さんのツイッターでの発言がきっかけになっているんだよね(2014年9月19日に「悲しいかな、どんなに頑張っても日本で生まれ育った人がヒップホップをやるとどこか違和感がある。またアメリカ人が着物を着ても最後の最後は馴染みきれない。私達は幼少期の早い時期にしみ込んだ空気を否定できない」と投稿)。
 Mummy-D  そう、前後のツイートを見てみたらそんなにひどい話ではなかったんだけどね。でも、なんかあとからじわじわくるものがあって。なんでよく知りもしないことに言及するんだろう、みたいなさ。もともと日本語ラップが存在していた世代はそんなに頭にこないかもしれないけど、それをアリにしてきた俺らとしてはずっと戦ってきた部分であって、バカにされてきた部分であって。「まだこれかよ……」って思ってさ。でもこんなことはもう二度と歌いたくないから、本当にこれで最後にしたいと思ってつくったんだけどね。トラックが救ってくれたというか、そこがまさに音楽ではあるんだけど、最終的にネガティヴな後味が残らないものができたから、これを歌うことによって憤りが成仏したところはある。

 極東(この言い方も、西洋からの視点だけど)の「日本」という場所で、現在も残っている文化で、完全にオリジナルなものはほとんどなく、どんな文化でも、ほぼ輸入が元になっているはずだけど、新しいものほど、「本場」とのギャップや壁に意識的に悩むことになるし、周囲や自身の内面との戦いになることを、話しているように思う。

 この話の元にもなっている為末大の発言にしても、江戸時代には庶民は「走ることができない」ということを聞いたことがあるし、スポーツという文化自体も、輸入されたもので、どうして東洋人がスポーツをするのか、という見られ方をされた時代もあったはずだ。

 ライムスター宇多丸自身も、そうしたことは、嫌というほど、分かりながら、続けてきたようだ。(この言葉↓は、直接、為末に向けられたものでなく、もっと広い範囲に向かって語られたもの)。

 結局ダブルスタンダードなんだよね。俺たちみたいに独自にやると、「本場のヒップホップはこんなのじゃない」って言い方ができる。逆に、まんま本場っぽくやると、「猿真似じゃないか」って言い方ができる……要は、まったく正反対の論理を都合良く使いわけて、どっちにしても批判に着地するように語ることはできるんだよ、誰でも簡単に。でもそれって、何も言ってないに等しいくらい、安易な批評ごっこにすぎないと思うけどな〜。そういう皆さんに逆に聞いてやりたいですけどね。じゃあ仏教はどうやって日本に定着していったんですか? 僕らの今の暮らしはどうやって成立してきたんですか?って。

「R-指定」の場合

 ライムスターの話していたことは、日本でヒップホップに関わっていく人間(本来は、輸入文化と言われるもの全般)にとっては、おそらくは、避けて通れないことだと思われるけれど、R-指定のいう「覇王」というのは、こうした前提を踏まえての上の話のようだった。

 覇王というと、微妙に笑いを生んでしまう表現なのだけど、R-指定は、もう少しシリアスな表情で話を続けていた。


   ラップで有無を言わせないような世界一になりたい。

  それは、言葉や文化を超えて、誰が見ても聞いても無条件にすごい、という意味で「覇王」ということらしく、それは、とても困難だけど、真っ当な目標でもあるから、ここから先、いい気になっているような余裕すらないのかもしれない。

 さらには、それが苦行に見えずに、どこかホッとするような話に聞こえたのは、R-指定が、ラップ自体が、自分の快楽でもあって、やりたいことであるから、歳を取っても凄くなれるような……そんなふうに、目標を語っていたからだと思う。

 日曜日から、何か、すごいことを聞いてしまったと思った。

 

 それは、このところ、本人は、言われすぎて、うんざりしているのかもしれないけれど、オードリー若林の「聞く力」があってこそだとは、思った。




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。



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