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マスターズ解説・中嶋常幸の涙で、思い出したこと。

 午前3時過ぎに、つい最近、抜いた歯の痛みで目が覚め、痛み止めを飲もうと思って、隣の部屋に行き、テレビのスイッチを入れた。

 ゴルフのマスターズ最終日の中継をやっているはずで、気がついたら、松山英樹が最終日を前にトップに立っていたし、2位に差があったから、勝つかも、と思いながらも、この30年、そんな期待をしながら、負け続けた日本の選手の姿を思い出したから、無理せず、松山がプレーを始める前に、また寝てしまった。

 月曜日に起きたら、マスターズで、松山英樹が優勝したのを知った。
 嘘のようだった。
 自分の感覚が更新していなくて、時代に追いついていないだけなのも知った。

 夜中に、テレビをつけた時に聞こえてきた解説者の声で、あ、中島常幸だ、と思い、懐かしい感覚になっただのけど、昼になる前に、中嶋氏が、よかった、と解説をしながら泣いていた、という話をニュースで知った。

 そのことで、30年以上前の、中島氏に関する、様々なことを思い出した。

新人のゴルフ記者

 1985年に、私は、スポーツ新聞のゴルフ記者となった。

 ゴルフは詳しくないスポーツだったので、賞金王の経験のあるような人に、何しろ聞いた方がいいと思い、しかも春先なのに、「賞金王を狙いますか、今年も」みたいな、後で考えれば、中島氏には、雑で失礼な質問をしていたりしていた。

 共同会見だけでは、独自の記事を書けないから、終わった後に追いかけていって、だけど、社名と名前を毎回名乗れば、話をしてくれたのだから、筋が通った対応だったと思う。

 賞金王に関する、雑な質問にも、“今から、そんな賞金王みたいなことを思っていたら、気持ちがいじけるというか、小さくなってしまう”といったことを話をしてくれて、それは貴重なコメントでもあり、さらに突っ込めれば、もっとゴルフの本質的なことまで、少しでも近づける可能性があったのだけど、新人記者の自分の力が足りなさ過ぎた。

 それに、読者も、もっとわかりやすいことを求めていると思っていた。だから、そのうちに「アメリカに常駐」みたいな話題まで聞いたこともあったのだけど、“家族もいるし、簡単にはいかない”といったことまで話をしてくれたにも関わらず、そこから話を広げたり、掘り下げたりする、こちらの力が足りなかった。

 その年、日本のプロゴルフ界では初めて、年間賞金獲得額が1億円を超え、中島常幸は、三度目の賞金王になった。

不安だから練習するんだ

 そんな色々と力が足りない記者に対しても、2年目には、少しは顔などを覚えてくれたようで、自分の勤めるスポーツ新聞社が、「原辰徳(現・ジャイアンツ監督)結婚」をスクープしたので、各界のコメントを集めてこい、とデスクから言われ、そのことを聞いたら、「またお前はウソ書いたのか」と言われるくらいにはなっていた。

 そして、ある試合で、最終日にかなりの大量リード(5打差。他のスポーツに例えるのも変だけれど、後半残り20分で2対0で勝っているようなサッカーの試合、という感じかもしれない)を、ひっくり返された。そうしたことが2週続いていたはずだった。そのショックのせいか、共同記者会見に出ないで、帰ろうとするところを、一人で取材に行った。

 他の意味で、「不安」という言葉をだしたのだけど、そこに中島氏は反応した。

 不安はあるに決まっているだろ。
 だから、練習するんだよ。
 だから、トッププロでいられるんだよ。

 そんな言葉を叫ぶように話してから、クルマに乗り込み帰っていった。

 ただ黙っている選択もできたのに、そんなことを話してくれたし、そこまで率直な言葉を聞けるとも思っていなかったから、少しぼんやりしていた。とても大事なことを伝えてくれたという感触はあったが、記事に十分に生かすのは、自分の力では難しかった。

全英オープンでの涙

 ただ、1986年はマスターズでも優勝争いをしていた好調なシーズンになっていた。

 そして、7月の全英オープン。
 大会は4日間あるのだけど、3日を終えて、1打差の2位というの好位置だった。

 特に3日目のプレーは、風も強く、雨も降る中、崩れてもおかしくないのに、要所ですごいプレーを見せて、それは現地で取材していた、まだ記者経験の浅い私でさえ、本当に優勝するのではないか、と思えるような凄みがあった。


 だが、最終日、中島常幸は最初のホールでダブルボギーを叩くなどして、8位に終わった。

 すべてが終わって、記者に囲まれた中、話をしている途中に、中島氏は急に目頭を抑えたが、それでは止まらず、かなり大きめの透き通った涙がいくつもいくつも流れ落ちてきた。こんなに球に近い涙は初めて見たような気がする。

 恥ずかしいなあ…。

 中嶋氏は、そんな言葉を発したが、それがプレーに対してなのか、今の涙に関してなのかは、聞けなかったし、こういうメジャーな試合には、各社ともベテランの記者が来ているから、私は話の中では後ろの方にいた。

 後になって、人前で泣くなんて、みっともない、といった声も聞いた気がしたが、私は、その姿をみて、さらにすごいと思っていた。それは、自分の仕事でもあるゴルフで、それだけ全身全霊をこめて戦ったから、流せた涙だと思っていた。

仕事への姿勢

 自分自身は、仕事に対して、どこか迷いがあった。

 だけど、不安だから練習するんだ、という言葉や、スコットランドで戦う中島氏の姿が、これから、どうなるか分からないけれど、もっと自分がやりたいように仕事をしようと、その1ヶ月後くらいに会社を辞めるきっかけの一つになった。

 ゴルフ記者の後は、ゴルフ雑誌の編集部で働き、その後、フリーのライターになっても、ゴルフの取材をすることがあったが、中島常幸氏の話を聞く機会はほとんどなくなっていった。

 そのうちに、私は介護のために仕事をやめ、ゴルフだけでなく、スポーツが、とても遠い出来事になっていた。

 自分がスポーツ新聞のゴルフ記者として取材していた時期が、中島氏の選手としてのキャリアとしては、ほぼピークの時期に幸運にも合致していたのが分かるのは、それから随分と長い歳月が過ぎてからだった。

メジャーという過酷な体験 

 松山英樹の優勝を伝える解説の中嶋氏は、初めて出場した1978年のマスターズでは、1ホールで「13打」も叩いてしまうという過酷な経験までしている。

 日本の選手たちも、メジャーと言われる大会に対して、当たり前だけど、勝とうと苦闘してきた。(マスターズ、全英オープン、全米プロ、全米オープンの4試合と言われている)。

 それは、歴史的にも規模的にも他のトーナメントとは格が違うと言われる大会で、そして、選手達みんなが勝ちたいと強く思うことで、より価値が増す、という大会でもある。

 だけど、ここまで、日本の男子選手の、本当にトップレベルが、何十年も前から挑み続けてきて、獲れないタイトルだった。それは、ゴルフの歴史の厚みに跳ね返されるという、どうしようもできないような体験だったのかもしれない。


 そのほんの一端を、私は、全英オープンで垣間見たに過ぎない。

 それに、21世紀を前にして、私自身が介護のために仕事も辞めて、本当に縁が遠くなっていたが、それからも、日本(男子)選手が初めてメジャー大会のタイトルを獲るかもしれない、というニュースを何度も聞いて、そして、残念ながら届かない、ということが繰り返されてきたのが、2021年の4月までの出来事だった。

救っている可能性

 だから、今回も、優勝をするかもと思いながら、ひっくり返される。そんな、同じようなことがあるのではないか、と勝手に思っていた。
 それは、個人的には30年以上、そんな記憶が積み重なっていたせいだろう。
 だけど、それは一種の呪いで、松山が優勝したことで、それが解けたのかもしれない、という感触もあった。


 解説の中嶋常幸氏は、自分もマスターズにも何度も出て、とても過酷な経験をしてきた、と思う。そんな人間が、どんな気持ちで、松山が優勝に向かう解説をしていたのだろうか。それは涙、という形に出ていたのかもしれないけれど、すごく喜んだ、と報じられていて、その喜びの質は、同じような経験をした人間しか共有できないと思う。

 それでも、勝手な憶測で申し訳ないのだけど、もしかしたら、中嶋氏だけでなく、これまでメジャーに挑み続けてきて、そこで想像以上の過酷な経験をしたプロゴルファーたちも、救っている可能性まであると思った。

 それが、松山英樹のマスターズ優勝なのかもしれない。そんなに熱心に見ていない人間が言う資格もないけれど、そんなことを、中嶋氏の涙のことを知って、様々な思い出とともに、思っていた。



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