見出し画像

「少し遠いところ」(後編)

 初めて読んでくださった方は、見つけてくださり、ありがとうございます。
 よろしかったら、前編から読んでくださると、ありがたいです。

 おそらく誰にでもいる「少し遠いところ」にいるような地元のヒーローの、そのあとの話を書きました。主人公は、菅野将晃というプロのサッカー選手から、監督になった人です。

1990年代後半 指導者としての姿

 1990年代の後半。福島県に「Jビレッジ」という大規模なサッカーの施設が出来た。そこでは日本代表の合宿だけでなく、様々なサッカーに関する事が行われた。

 全国の高校生の世代の選手を選抜し、サッカー協会やプロチームのコーチが指導する、といった研修もあった。私はそこへ取材に行った。

 練習が終わったあと、施設の中のロビーか廊下で、指導について話しているコーチ達がいた。それはミーティングというよりは、もっと世間話に近い空気だったが、話題がサッカーのことなのは分かった。その中で、もっとも熱心に、体まで動かして話していたのが、「菅野将晃」だった。

 その途中でふっと、「サッカーの事、話すのも好きなので」みたいな事を言い、熱が入りすぎたことを照れるように笑っていた。

 当時は、Jリーグのユースのコーチをしていたはずだ。それは私自身の取材とは直接は関係ないし、少し遠いところから聞こえてきただけの会話だったが、その持続している純粋なサッカーへの熱意に、私は勝手に少し嬉しいような気持ちになっていた。

「かんのさん」は、すでに30代後半を超えていたはずだった。

2007年11月25日 1部昇格の可能性

 神奈川県平塚駅の午前11時30分に着き、ベルマーレの旗が立っている場所に止まっている競技場直通のバスに、走って乗り込んだ。私のうしろにいた二人の若い男性は、ずっとサッカーに関係する話ばかりを続けている。

 ベルマーレは西が丘の完敗以来、あきらめない戦いを続け、今日11月25日。ホーム最終戦で残り2試合の時点で、まだ1部昇格の可能性を残している。今日は、湘南ベルマーレにとって、ホームでの試合だった。

 バスを降りて、少し小走りで「ヒデゲート」を通ってスタンドへ入った。

 芝の上では子供達の試合が行われていた。この季節とは思えないほど、日差しが強い。厚着していた服を何枚か脱ぐほどだ。

 両チームのベンチはトラックをはさんでピッチの向こう側だから、この前の、西が丘競技場よりはずいぶんと遠い。スタンドには、連れてきた小さい子供に「この試合はベルマーレにとって大事なんだ」と話しかける父親らしき男性がいた。男の子はたぶん分かっていないような目をしたまま、その男性を見ていた。

 赤とんぼが私の手に止まった。

 試合直前。メインスタンドの下に固まりのようになっている選手達を見て、戦いの日常ということを思った。少しあごを前に出し、やや猫背の姿の菅野監督がいるのが、やっと分かった。

 今日の相手はアビスパ福岡。リトバルスキー監督。ドイツ代表の選手としてワールドカップで優勝した経験もある。

 今日も選手の中にとけ込むように見える菅野監督は、サッカーが好きな事は間違いないだろう、と思った。30年前からずっとサッカーの事を考え続けていなければ、ここにはいないはずだ。でも、プロに対して失礼なのだが、戦う事自体は好きなのだろうか?と、ホームゲームだから、大きな歓声の中で、私は勝手な事を思っていた。

2007年11月25日 試合に負けた後

 ホイッスルが鳴った。試合が終わった。
 崩れるように倒れる選手もいる。

 午後3時少し前、ベルマーレは1対2で負け、1部昇格の可能性は完全に消えた。サイドラインとベンチの真ん中くらいで、菅野監督はただ前を向いて、しばらくそのまま立っていた。

 少したってから、ピッチの選手達に向けて拍手をして、リトバルスキー監督と握手し、いったん離れてから、また近づいて話をしていた。それから、ピッチへ向かって歩き始め、選手達と握手を始めると、またその中にまぎれていった。

 今季ホームゲーム最終戦なので「ファン感謝デイ」というセレモニーが始まるとアナウンスがある。周りの観客はあまり減っていない。ボランティアへの感謝状が渡された後、ピッチの真ん中付近に選手達やスタッフが並んだ。

 最初は菅野監督のあいさつだった。

 …ここまで戦ってこれたのは、みなさんのおかげです。 
 …47試合目の今日、負けてしまい、J1への昇格はかないませんでした。
 …申し訳ありません。

 そうした言葉のあと、深く頭を下げた。拍手が起こった。

 …シーズンを通して、あきらめないことをテーマにしてきました。最後の1試合でも、最後までやり通したいと思います…。

 次は選手のあいさつで、外池大亮選手がマイクを握った。

 淡々と話を続けていたが、「たくさんのみなさんに」というところで声がつまった。さらに「個人的な話ですが」と話をつなげると、「引退か!」と声がとび、その後に外池選手が「今シーズン限りで引退します」と言うと、すかさず「まだ、やれるぞ!」という声がさっきよりも大きく、いくつも響いた。そのうちに「とのいけ」「とのいけ」「とのいけ」と何度も名前が繰り返された。

 あいさつが終わると、選手達とスタッフは、ゆっくりと歩き始め、向こう側のメインスタンドから周り始めた。夕暮れが近づき、20年以上前に「海を感じさせるオシャレな曲」として流行っていたエアサプライの音楽が流れ、よけいに寂しい空気が増した。

 さっきはスタンドの向こうに、思ったよりも大きくあったはずの富士山も、もう見えない。あれだけ強い日差しだったのに、今は明らかに空気が冷たくなってきた。

 少し小さなボールをスタンドに投げ入れたり、蹴ったりしながら、選手達は場内を回って、こちらのバックスタンドに向かってきた。立ち上がって拍手をする観客がほとんどだった。「とのいけ」という名前はまた何度もコールされ、選手達は手描きと思われる横断幕を広げた。

「1年間、ありがとう」。


 少し遠いところで歩いている菅野監督は、顔の角度をマメに変えながら、きちょうめんに手を降り続けていた。選手達が頭を下げ、背中を向けて歩いている途中でも、ずっと歌が流れ、歓声が続いていた。

 すぐそばで、男女のサポーター同士の会話が聞こえた。
「今年は、ほとんど来たの?」。
「ええ」。
「また来年、会えますかね」。

 2人とも、笑顔だった。

2000年代 自分の介護生活のこと

 帰り道は、私は平塚駅まで歩くことにした。途中にある平塚美術館へ寄った。


 個人的なことに過ぎないが、1999年からの、この8年間、私は介護に専念する生活だった。

 仕事もやめ、サッカーの事も遠かった。2002年のワールドカップも母の入院する病院で見た。決勝トーナメント進出を決定づけるシュートが決まった時、病棟の廊下の向こうからも歓声が響いた。

 そういう生活の中で「菅野さん」が、「大宮の監督を解任された」というのも新聞の小さな記事で知り、まだきちんと続けているんだ、と思った。

 母が絵が好きで、入院している病院からの距離の近さもあって、平塚市美術館には何度も来た。ここのレストランで母はよくクリームあんみつを食べた。

 壁にはベルマーレ平塚のユニフォームを着た中田英寿の写真が何枚も並んでいた。今年(2007年)の3月にも、母を連れて弟と妻と一緒にここに来た。それが最後の外出になった。

 5月に母の葬式を行い、その後、前より時間も出来た。サッカーをスタンドで見たい、と思った。去年からベルマーレの監督をしている菅野将晃を、一度見ておきたい、などと生意気かもしれないが、思った。


 美術館から駅までの途中に商店街があり、ベルマーレの旗があちこちで掲げられている。人通りは少ない。さっきからスピーカーで流れているのが、今日の試合の音だと分かった。選手の声に変わった。それは外池選手が「引退します」というあいさつだった。
 
 翌週、ベルマーレ湘南は、愛媛FCと戦った。前半に1点を先制したが、後半に逆転され1対2で最後のゲームは終わった。

 2007年は、前の年のチーム史上ワースト11位から立て直した形になり、終盤まで1部昇格の望みをつなぎ、最終的には6位だった。次のシーズンも、ベルマーレの監督は、菅野将晃が続投する。

それから、2021年までのこと

 その後は、記録をたどることしかできない。
 
 2008年にも、菅野監督は、ベルマーレの監督として、2部で優勝争いをしたが、5位になり、監督をやめた。

 2009年からは福島県楢葉町・広野町を本拠地とするなでしこリーグ所属の東京電力女子サッカー部マリーゼ監督に就任した。リーグ戦での2年連続3位をはじめ、好成績を挙げたが、2011年の東日本大震災によってチームが休部となった。当時、菅野は「震災後、1カ月は何もする気が起きなかった」状態だったという。同年7月にドイツで行われた2011 FIFA女子ワールドカップで優勝したサッカー日本女子代表のメンバーには、マリーゼで指導した鮫島彩と丸山桂里奈がいた。

 2012年に新しいサッカーチーム「ノジマステラ神奈川」の初代監督となり、2016年には、なでしこリーグ2部で優勝をし、1部昇格を果たし、2018年まで監督を務めた。

 2019年からは、「FCふじざくら」の初代監督に就任し、現在に至っている。

 1960年生まれだから、60歳を超えているはずだけど、今もサッカーの現場にいる。
 ここまで現場に立ち続けている人が、そんなにいるとは思えない。

「FCふじざくら山梨」のホームページには、穏やかな表情の菅野将晃とともに、こんなプロフィールが載せられている。

選手歴   神奈川県立旭高校 古河電気工業/ジェフユナイテッド市原(79~94年) 京都パープルサンガ(95年)
指導実績  京都パープルサンガユースコーチ 京都パープルサンガコーチ 京都パープルサンガサテライト監督 京都パープルサンガジュニアユース監督 京都パープルサンガ育成統括 京都パープルサンガジュニアユース監督 水戸ホーリーホックヘッドコーチ・監督 大宮アルディージャ監督 浦和レッドダイヤモンズユース監督 湘南ベルマーレコーチ・監督 TEPCOマリーゼ監督 ノジマステラ神奈川相模原監督 兼 GM
資格   (公財)日本サッカー協会公認S級コーチ




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。




#サッカーの忘れられないシーン   

#湘南ベルマーレ   #菅野将晃   #スポーツ   #サッカー

#Jリーグ    #サポーター   #スタンド #ノジマステラ神奈川

#スポーツノンフィクション #FCふじざくら #監督

#東京電力女子サッカー部マリーゼ




記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。