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あたりまえをつくる

 子どもの頃から、私は素敵な「あたりまえ」をもらったと思う。父は精神科の病院で、母は支援学校で働いていた。教会には外国籍の人もたくさんいたし、ホームレスの人もいた。私はそんな「あたりまえ」の中で育ってきた。
 当時には珍しく、両親は職場に私を度々連れて行ってくれたので、精神疾患の患者さんや障がいのある生徒さんに可愛がってもらった。教会でもいろいろな人が世話を焼いてくれて、ホームレスのおじさんからお菓子をもらう事もあった。神父さん含めたくさんの外国籍の人の価値観にもふれた。ダブルや外国籍の友達もできた。私が出逢ってきた人たちには、様々な背景があり、事情があった。

 私は子どもだったけど。子どもなりに「人はひとりひとり違ってあたりまえ」ということを知っていた。
 
 小学校の頃は「不思議ちゃん」と言われて、「みんな違うのになんでまみだけ不思議なの?」と母に泣きついたこともあった。そんなとき母はいつも「まみはまみだからね。まみもふつうの子だよ。」と慰めてくれた。
 両親や祖父母が教員だったことで、私は学校の先生も一人の人間であって何も偉いことはないし、自分と大差ないということも知っていた。かなり手ごわい生徒だったと思う。保育園から高校卒業まで続いた先生からのコメントには、毎回「マイペース」という言葉が使われていて、私はそれが先生からの唯一の誉め言葉だと受け取っていた。今思うと、先生なりに苦労してますというコメントだったのかもしれない。

 小学校高学年頃から、母が”人間と性”教育研究協議会の全国セミナーに連れて行ってくれるようになったので、私はそこで多くのことを吸収した。多様な性の在り方についても知るようになり、中学になると分科会にもひとりで参加して、ジェンダーやセクシュアリティについて大人たちの中で発言するようにもなった。寛容な人たちが多かったんだと思う。

 私は物心ついた時から、「女の子らしさ」を押し付けられるのが嫌いで、かといって男の子になりたかったわけでもなかった。好きになる子は男の子だったり女の子だったり、どっちとも言えないような子だったりしたけど、別段そのことを特別とも思わず、ふつうのことなんだと感じながら育った。

 大学生になって、災害ボランティアに行き始めてからは、貧困家庭や様々な生い立ちを経験した人、様々な生き方をしている人たちにも出逢った。

 世の中に同じ人はいない、みんな違うのがふつうで、みんなが支え合ってこの社会はできている。

 それが、私の「あたりまえ」をつくった。

 こういった価値観は、今では「多様性:ダイバーシティ」という言葉にまとめられるんだと母から教わった。でも、それは私の「あたりまえ」だった。
 母が、大学の男女共同参画室やダイバーシティーセンターで働くようになって、私の知識はもっと広がっていったけど、みんなが求めるそれはやっぱり「あたりまえ」のことのように思えた。

 小学生の頃、「当事者」というテーマで父と話しをしたことがある。私が、「だれだって病気にはなるし、困ったこともあるし、みんなが当事者だよね。」というと、父が目を丸くして「そうだね、まみは本質をよく分かってる。」と褒めてくれた。我ながら親ばかな父だったと思う。

 でもその考えは今でも変わらない。体験しているかしていないか、知っているかいないかの差は確かに大きいけど、社会のあらゆる問題において私たちは等しく当事者なのだ。私たちは社会という同じ世界に住んでいて、地球という同じ船に乗っている。

 話しは飛ぶが、SDGsが発表された2015年、私は社会に出たばかりで、自分の中の「あたりまえ」と日本社会の中の「当たり前」とのギャップに圧倒されていた。
 職場では、「女性陣お酌して~」とか、「お茶出しして」とか言われ、上司は全員男性。「女性って出産とかで仕事休むし、正直居なくていいよね」なんてひどい扱いも受けて、数少ない女性の先輩は「ホモとかキモ~い」とか言うタイプの人だったり、別の先輩には「化粧、下手かもしれないけど頑張った方がいいよ」と言われたりもした。
 私の性自認は女性ではないけど男女二元論の社会の中では女性という集団に属していて、化粧はできないのではなくあえてしない日が多い。
 私はまるで異世界に飛ばされた右も左も分からない初級冒険者みたいになって、不安と理不尽なことに対する腹立たしさ、この「異世界」に対する嫌悪感、そして何より心細くて泣きたい気持ちだった。私の「あたりまえ」はどこにいっちゃったの?って。
 

 ちなみに、SDGsの前文には「すべての人の人権を実現し、ジェンダーの平等、そして女性や女の子の能力を引き出すことを目指します。」という項が書かれている。
 この項はSDGsの全ての目標を達成する上でベースの概念になっているということを元国連職員の人から教えてもらった。つまり、これがなきゃ他もダメってことだ。

 社会に出る前の私だったら、「なんなんこの目標、あたりまえじゃが。」と思ってただろうけど、これが「あたりまえ」じゃないんだということを良くも悪くも社会に出てから私は知った。誰もが他者のことを思っているわけじゃない。社会のことを「当事者」として考えているわけじゃない。

 この衝撃的な現実に、私は抗うことを決めた。何でかって?こんな「当たり前」の中で子どもたちに育ってほしくなかったし、大人になってからもこの「当たり前」に苦しめられている人がたくさんいると思ったから。

 でも、私は発信力もないただの一般人だ。あんまりでっかい事はできそうもない。だけどもたもたしてるうちに、悲劇的な現実がどんどん私の心に入ってくる。地球温暖化による海面上昇の影響で、友達の実家がある島が海に沈んだり、セクシュアルマイノリティの友達が働くところが無くて風俗で働かないといけなくってたり、戦争に反対するデモに参加した友達が逮捕されたり、無国籍状態で人身売買にあいそうになっている子どもたちと出逢ったり、、、。シリアスすぎて胸がバクバクする。それぐらい切羽詰まってるんだ。

 とりあえずではあるけれど、今の私の身の丈でできることをしようと開き直って動き出した。だって、世界の当たり前をつくるのは私たち一人ひとりの小さな行動や発言の集まりの結果だと知っていたから。
 私の「あたりまえ」を世の中の当たり前にするために、私はまず自分の経験や当事者性を言葉にすることにした。私自身が、いろいろな人に触れて育ってきたことがとっても大事なことだったと思ったし、私という存在がここにいる、身近に「当たり前」じゃない人がいるっていうことを知ってもらうことで何かが変わると思ったから。

 自分を社会の枠に当てはめるのは嫌だったけど、あえて性的マイノリティであると社会と教会の中で公表し、発信し、相対する考え方の人と合えば、必ず自分のセクシュアリティやジェンダーについて語り合い、知ってもらう様に注力した。衝突することや、どうしても話しがかみ合わないこともあったけど、それも必要なことだと思う。対話が始まらなければ、何事も始まりはしない。それに、もしかしたら将来その人が別の人と出逢った時に思い出してくれるかもしれないしな。うん、話してよかった。
 
 新しいものを消費する生活をやめて、できるだけリユースやアップサイクルを心掛けるようにした。使い捨てをやめて水筒やタッパーを使う様になった。この辺は、エコを生活の基盤に据えている友人をお手本にしている。私の弱い点だと思うので。
 貧困や戦争という見えにくい現実問題について、物価や旅行などの身近な話題から友達と話し始めて、私が出会ってきた人たちについて知ってもらうようにしている。なるべく距離を感じられないように、なるべく悲しい話しで終わらないように。笑いを添えて。

 こうやって行動に移してみて、変わってきたことがある。まず、私の周りの人が私のセクシャリティについて敬意を払ってくれるようになった。それから、嬉しいことに、自分の子どもの性についても決めつけずに育てていきたいと言ってくれるようになった。
 多様な人を受け入れるにあたって、イベントなどの企画の相談もされるようになった。
 その他のトピックスについても、友達から率先して話しかけてくれるようになったことも嬉しい。一緒に考えたり、できることをやってみたりできる仲間が増えて、小さなアクションが散らばっていっている。
 こうやって、やさしい心がけが広がれば、未来はきっともっと「あたりまえ」なことが当たり前になって、みんなが生きやすい時代になる。

 私がしていることは小さなことだけれど、「あたりまえ」は独りでつくるものじゃない。世界のみんなと未来をつくっていくことなんだ。

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