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孤独とどう向き合うか?

感染病の感染リスク拡大に伴う外出自粛。

繁忙期を過ぎて仕事も手離れ。「久しぶりにのんびりできるな〜。確定申告もしなくちゃだし、まとまった時間で本を読んだり勉強もできる。積みゲーも崩せるゾ⭐︎」と、当初は引きこもり生活を歓迎していた。

穏やかな時間。まどろむような数日間。
そして訪れる心身の不調と「社会的断絶」を感じさせる孤独

確定申告ページを開いて確認。取り出した領収書をちょっと見てすぐに引き出しに戻す。仕事もないのにパソコンを開き、某シンジくんのパパのように両手を組んで思案に暮れる。

日中は近所の子どもたちが大騒ぎで遊び回り、夜になればどこかで酒盛りが始まって大騒ぎだ。一方、私は気が滅入ってきて体重は減り、毎日続く頭痛と目眩耳鳴りに苛まされる。

世界では何万という数の人間が死んでいく。そんなニュースを見ながらパーティーピープルたちの騒音を聞く。楽園と地獄が共存する現世のおぞましさよ。が、孤独な私はそのいずこにもいない錯覚に陥る。

錯覚なのかな?これが現実なのでは?
仕事もない今、無駄に息してる気分になってきたんですけど???
ハロー?誰かー????

溜息とともに天井を仰ぎながら、ふと大学生の頃に見かけた概念のことを思い出した。宇宙に放り出されたような感覚。孤独と恐怖の表裏一体を感じさせる言葉。

何だっけ……と自分の本棚を眺める。

昔から気に入った話が出てくる本は、絶版だろうと中古本を探し出して手放さない癖がある。覚えていないのに、無意識のうちに1冊の本に手が伸びる。

大量の付箋と書き込みに苦笑いしつつ、少しページをめくればすぐに書き込みでその概念は見つかった。ミハイル・バフチンの「宇宙的恐怖(cosmic fear)」だ。SFでは定番ネタの”宇宙的恐怖”は、言い換えれば、未知に対する恐怖心だ。わからないのだから対処できない。対処できなければ勝ち目がない。漠然とした、けれども圧倒的な恐怖に支配される感覚

ワクチンのない感染病に対する恐怖は、それに似ているけれど明らかに異なるものだ。確かに21世紀になっても克服できない恐怖はあっても絶滅することはないと分かっている。感染病と闘ってきた人類の歴史。医療と科学に対する絶対的信頼。マスクと手洗いうがい、そして引きこもっている。おしまい。原因を作らなければ結果は出ない。サイコパスを見分けるより感染を遠ざける方がずっと気楽だ。

けれど、私は恐怖に支配されている。孤独感だ。


1.孤独とは何か?

人によってその意味するところは違うだろう。

SNSを眺めながら「私は○○ちゃんより”いいね”が少ない。孤独だ」と感じる子どもや、イチャつくカップルを見て「バカップル爆ぜろ!」と罵ってますます痛みを覚える孤独感もあるだろう。

誰かと比べることで覚える主観的な孤独は、比べるのをやめてしまえば消えてなくなる。わざわざ比較して孤独を生成しているのだから生産ストップすればいい。

あるいは、”つながり”を増やせば掻き消すことができる。

私の場合なら、ビール片手にパーティーに飛び入り参加してもいい。仕事がなくなった不安感から社会的隔絶を覚えるなら仕事をつくればいい。営業をかけるだけでも安心感は生まれるだろう。引き出しに押し込んだ確定申告だって立派な社会とのつながりだ。向き合えば大きな達成感とともに税務省とのつながりに胸も温まるに違いない。恋人が恋しいというなら、マスクをして外に飛び出し、会いに行ったっていいのだ。

目を閉じる。
自分で提案しておきながら、全部やだ。
だったら”ワガママロンリーガール”のままがいい。

パリピと酔って騒げば、私の無力感は消えるのか?
仕事が入れば安心するけれど、なくなったらまた無力感に苛むことになる。
確定申告はした方がいい。でも今はやだ。
恋人?今は距離がほしい。心理的な依存を避けたい。

じゃあ何がしたいねん。駄々っ子(私)は何を求めて泣いているのか?

その答えは「未来」だ。
満足のいく未来を建設するための”今”を無駄に過ごすことで、不確実性を深めている。退化している気分になり、未来への不透明性が濁るほどに私の恐怖心は増していく。

私の孤独は、”思い描く幸福な未来を築けないかもしれない己の無力さ”を感じ取り、震え上がっている恐怖なのだ。

自分たちの家庭を持った友人との友情は霞のようだ。
お金を稼がないと生活できない。
恋人と会えないとせっかく深めた関係性も何かが減って、将来の約束もたちまちたち消えてしまうかもしれない。

そう心配しているのに「その対策をしても今ある孤独感を打ち消すことはできないだろう」と直感的に感じている自分がいる。なぜなら、友人と密にやりとりをしたり、仕事をしてお金を稼ぎ、恋人と今すぐ会って熱い抱擁を交わそうが、未来への不確実性は消えることなどない
少なくとも、私にとっては孤独を理由に行うことではないのだ。心が満たされているからこそ、友人と楽しい時間を過ごし、仕事に集中して達成感を覚え、恋人と優しい関係性を築く。
それ以前の、もっと内省を要する何かを解決しない限り、この「未来への不確実性」に対する恐怖心は消えない。

いつだって、それはちょっとしたことで私の前に亡霊のように現れては私を震え上がらせることができる。友人の何気ない言葉。仕事のミス。恋人との喧嘩。そういったものでいちいち揺らいでいては、心も身体も持たないだろう。

「揺るがないものを築かなくてはいけない。あるいはその基盤が弱ってきている」というサイン。それに応えよ、と私という城に住う傲慢な女王様は命令してくる。

”ワガママロンリーガール”のイヤイヤ期=「孤独」の正体は、真の幸福を模索するためのシグナルだと言える。


2.”私なりの幸福”を見つける時間

暇を持て余す。いつもなら有意義だと感じられることをしても退屈に感じてしまう。生産的な言動に抵抗を感じ、でも何がしたいのかわからない。

孤独を生み出す不安は、希望の裏返しだ。

感染病対策による強制引きこもりライフで直面する「友人」「仕事」「恋人」からの隔離で感じる不安は、それぞれに”理想”がある証拠。ただし、問題は負の感情を生み出している”理想”は、大抵”借り物”(場合によっては偽物)に過ぎないことが多い、と個人的な経験からは思う。

交友関係・キャリア・恋愛結婚の「正解」は社会の中で明確に銘打たれてる。特に女性は。友人は多いにこしたことはないし、ホームパーティーなど"映え"る交友関係はなお素敵だ。バリキャリも現代女性としては素敵。しかし、何よりも”結婚適齢期”にお金も優しさも兼ね備えた異性と結婚して素敵な家で暮らせることは最上位に近い。子どもが生まれればもう立派な大人の仲間入り。

という「正解」を前に、どれほどの友人知人が泣き、もがき、正解をもぎとってきただろう。

28歳前後になると「ご乱心」が起こる。

”結婚適齢期”とやらのせいかもしれないし、社会人になって少し落ち着く頃合いだから結婚する人たちが周りで増えるからかもしれない。突然に泣き出す友人。出会って数ヶ月で結婚し、さらに短い期間で離婚した友人。結婚を決めたものの、理想の婚約指輪を買わせるために彼に転職活動をさせ、うまくいかないことにストレスを爆発させる友人。

誰がつくったでもない「正解」に振り回されるのはバカらしい。それで本当に大事なものを失っては元も子もない。

そうマイペースを気取る私だって、プレッシャーからは逃れられないのだ。親からはああだこうだと言われ、結婚したがっている友人からは「彼スペックはいいのに結婚願望がないなんて私なら捨てるわ。一緒に婚活する?」とクソバイスをもらい、結婚した友人からは「喧嘩の絶えない新婚生活を送っている身としては、独身者の惚気話はママゴトにしか感じないから話を聞きたくない。黙って私の愚痴だけ聞け」と言われる日々よ。

なぜなんだ。WHY JAPANESE PEOPLE!!!

人間は色々と面倒くさい。
幸福も孤独も本来主観的なものなのに、不幸はいつだって客観的だ。誰かと比較して惨めに思ったりありもしない優越感を確かめるために自分らしくない言動をとってしまう。

そして残念ながら、論理武装している私だってこの悪夢に飲まれる。

逸脱ポリシーのもと逸脱者である自分を認めているけれど、心が弱れば思うわけです。「なぜ私は”普通”ではいられないんだ、”普通に幸せ”にはなれないんだ」と。普通じゃないからだし、幸か不幸か交際相手もまた周囲が強いる常識をものともしない人間だからだ。

言うまでもなく、”普通”じゃないと未来の不確実性はさらに増す。
不確実性を恐れるのが人間の自然な性なら、歩く不確実性(私または私の交際者)は恐ろしい相手だ。そんな人間に塩をまかないのは、同類か聖人か、新時代の価値観を受け入れている人間くらいだ。

結婚をめぐる悪夢の余談が過ぎたが、他も然りだ。社会における「正解」が私にとっても「ベスト」とは限らない。

友人は大切だ。かけがえのない存在だ。性愛を結ばなくても心から信頼し合える関係性を得られることは尊い。夫の転勤に付き合って孤独になっていった母の存在を知っているからこそ、強くそう思う。
けれど負担になるなら距離をとってもいい。敵意や憎悪を向けられるなら縁を切ってもいい。互いにそれで幸せになれるなら、それが正しいと思う。

仕事は生きるうえで大切だし成功も大事だろう。でも私が心から求めている生き方は”多忙な人生”や”キャリア”と無縁のものだ。望むライフスタイルを支えてくれる程度にお金はあればいいし、別に「仕事=人生」じゃなくたっていい。後世に名を残せずとも、私は心穏やかに生きていけたらそれでいいのだ。

恋人。最難関だ。なぜなら彼が今の”私の幸福”であることは事実なのだから。心の拠り所だ。だからこそ、大切にしたいと感じ、そろそろ次のステップに上がりたいとも考え、彼がまだその考えに至っていないことに落ち込んだりもする。
でも、彼がいなくなっても私の人生は続くのだ。逆も然り。「おお、最愛の人よ、君は私の全て、私の幸福そのものだ!」は甘い囁きにはしても真実にするのは大変危険だ。

友情にしても恋情にしても、誰かが心変わりしてしまえば終わってしまう。
不確実そのもの!!塩を!塩をもってこい!!


借り物ではない、私が心から望む”幸福”とは何か?

それは、私自身の問題を克服し、心を豊かに穏やかに生きることだ。お金持ちにも成功者にもならなくていい(そりゃなれたら儲けもんだとは思うけど)。怒りや悲しみから解放され、心が満たされていればいいのだ。

日々の中で”満足”を知る。
自分が幸福な人間であることを疑わない。

そのうえで、愛する人たちと時間を重ねていけたらなお幸せだ。


3.日課に”小さな幸せ”を植えつける

極度の面倒くさがりで虚弱体質だから夢が小さいと言われればそれまでなのだが、自分の孤独を通して、こうして気持ちや考えを整理すると満足感を覚える。

自分に満足できる。
たとえ無力でも、孤独には自己満足感は何よりも薬になる。

何も友だちを100人作らずとも、SNS映えも張り合いのない生活でもいい。年収やステータスにかかわらず、満足感を覚えられる日々を過ごせれば、それは十分に幸福な生き方だ。

朝目が覚めたら、窓を開けて太陽の光と風を感じながら伸びをする。
いつもより丁寧に歯を磨いて顔を洗い、髪を整える。
服を着替え、ペットの名前を呼んでしこたま撫で、世話をする。

仕事や関係性でうまくいかないことがある日は、最上のコーヒーを淹れればいい。

今ではボタンひとつで美味しいコーヒーが飲めるけど、手で淹れるコーヒータイムは”瞑想”のような時間になってくれる。
今までもドリップでコーヒーを淹れている間は心が落ち着くものだった。お湯を注ぎながらコーヒー粉の動きを見守り、ホットミルクをつくってそこにコーヒーを注ぐ作業は、コーヒーを飲むことよりも大事にしていた。

マキネッタを使い出してからは、心が落ち着く時間にくわえて”達成感”と”満足感”も加わった。自分の好みの味を探求して行き着いた作り方。粉という条件を淹れ方と牛乳のブランドやバランスの探求によって克服する。すごいぞわい。さすがやわい!

植物の手入れをするのもいい。
何かを世話したり、いつもよりも何かひとつの家事を丁寧にしてみてもいい。

他人の評価がなくても、心は満たせるものだ。
他人と比べなくても十分に幸せを感じることはできるのだ。

今に飽きたら、昔大切にしていたものを掘り起こしたっていい。
あの言葉はどの本に載っていたんだろう?と昔読んだ本を持ち出してきて、読み返しながら「ああ、だからこの本が、この著者が好きなんだ」と感慨にふけったっていい。

未来を築こうとしない時間も幸福には必要だ。

自己啓発に溢れる世間(かくいう私もまごうことなき自己啓発型なのだが)では「成長」「成功」が常に叫ばれているけれど、人生は競争じゃない。勝ち負けなんてものはなく、ただただ息をして生命活動を続ける肉体に付き合って生きているというのが人生について言える客観的な事実だ。
誰に勝っても負けても、べつにその事実に変わりない。

どうせ毎日を生きなきゃいけないのなら、小さな満足を見つけて生きた方が楽しいに違いない。退屈を覚えたら新しいものを見つければいい。何もしたくないなら、日々のルーティンのいずれかを、ほんの少しだけ丁寧にやってみるだけで十分だ。


孤立感は、辛く寂しい思いをさせるものだ。
けれど、ひとりでいることは、己という制限の中で”自由”と対峙することだ。

自由は、不確実性に満ちている。
だから時には社会が描く「正解」に縛られた方が、安全で安心な幸福を得られる。

でも私の孤独は、誰かや物で埋めるものではないのだ。
人肌で埋めるものでもなく、借り物やお金で埋めるものでもない。それで消え去るものなら、とうの昔に消え去っているだろうし、もう少し賢く立ち回って孤独を知らない人生を送っていることだろう。

孤独よ、万歳!
さあ、時間をどう使って自分を豊かにしよう?


まずは、好きな著者の本を読み返すぞ〜。

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